TBCN

襤褸は着ててもロックンロール

カズオ・イシグロの第二作『浮世の画家』(An Artist of the Floating World、1986年/ハヤカワepi文庫)を読んだ。イシグロ作品を読んだのは『夜想曲集』以来二つ目。舞台は1948年から1950年にかけての日本。語り手は大戦中に戦意高揚絵画を描いてかなりの地位までのぼりつめたが戦後すぐ引退した小野という画家で、次女の見合い話に自分の過去の行為が影響しないかヤキモキする、というのが大筋である。彼がなんのためにこの話を語っているのかは不明だが、回想録ふうな進み方で、現在時(戦後の日常)と過去の記憶(幼少時から画家として大成するまでのいきさつ)とを行ったり来たりする。
作者は小津安二郎成瀬巳喜男の映画が好みらしく、見合い話を中心とした話の進め方や家庭の描写は確かに共通する雰囲気があり、しっかりした技術で書かれているので、凄く巧い。いやらしいくらい巧い。しかし作者が幼少時に日本を離れたという先入観ゆえだろうか、実際の日本とはどこか違うのではないかという浮遊感もある。
イシグロといえば信頼出来ない語り手による一人称――といわれる。今回の語り手はもう、めちゃくちゃイヤな奴である。自分は頑迷ではないとか、自慢はしたくないとか、他人が自分をどう思っているかは気にしないなどと、度量の広い人間であることを繰り返し述べつつ、実際はそうではないことがよくわかる。周囲の人間が彼に対し感じているであろうイライラぶりもビシビシ伝わってくる。彼のそうした「語りたいこと(=彼が意識的に描いた自画像)」と「語られていること(=自画像から無意識的に漏れ出てくるズレ)」との乖離、ダブルイメージが本書の読みどころということになるのだろう。その点は教科書的なくらい見事に書かれている。
その乖離は端的にいって、会話文と地の文とのズレに表れている。現在時の会話文はそのまま切り取ってきたように即物描写的であり、「現実」とのズレは比較的少ない。それを地の文で取り囲み言い訳し装飾し解釈していくというのが、本作の基本的なスタイルである(回想場面での会話は自身言及しているように、より都合の良い脚色が施される)。したがって現在時の場面では会話文(=他者性)と地の文(=自意識)との間に常に強い緊張関係が見られ、そこにおいて表れる語り手の無意識に、読者は彼の性格を読み取ることができる。会話文の後、その対話が指す意味について地の文に主人公が連ねた解釈に感じる、「いや、そうじゃないだろ」「さっき地の文で言ってたことと違うだろ」という違和感が蓄積されることで、物語は推進していく。
しかしこうした乖離について、語り手自身も実際は頭の隅では気づいている。それは物語の核心部分、かつての弟子への裏切りと(最初から読んでくると唖然とする)、かつての自分の作品についての記述がクライマックス直前に置かれることにも表れている。つまり、何も気にしていないふうの好々爺を装いつつ、恥部については言いたくないからこそ後回しにされる。そこに登場する彼の画風は、説明を読むだけでもどうしようもないほど悲惨である。戦後の視線からすれば、彼にとっても直視したくないほど酷いクズだったに違いない(戦後に孫が作品を見たいと言うが、全部しまってあるとかで一枚も取り出されない)。しかし、一時はそれを正しいと信じ、本気(マジ)で追究しようとしたのだ。この戦前/戦後という視線の乖離と、自分は無縁であると言うことは難しい。
記号(会話文・絵画)は何も変わらない。記号の持つ意味を変えるのは、それを眺める者の意識である。なぜ同じ記号を眺めながら、違う意味を、時には正反対の意味を読み取ってしまうのだろう。戦意高揚画は、戦中には誇るべきものだった。しかし戦後にあっては、唾棄すべきゴミでしかない。語り手の子供世代(長女の婿)は語り手に激しい敵意を向けるが、現在の我々は、戦中に一般的だったであろう心情を、真逆の側から単に断罪し切り捨てるだけでは済まないことも知っている。『浮世の画家』のこうした構図は、二重三重に仕掛けられながらしかし非常にクリアーだ。実際に戦争をくぐり抜けた作家が書けば、もっと混沌としているようにおもう。そして朝鮮戦争がもうすぐ始まる、というところで小説は終わる。
終盤に、ちょっとしたどんでん返しがある。これによって、全体の辻褄が合わなくなってしまったのではないかと私はおもう(あれだけ高い地位にあったなら、受ける処罰が軽すぎる)。先にも書いたように、今作の語り手はめちゃくちゃイヤな奴である。自己欺瞞的で、嫌味たらしく、深いところがなんにもない。あまり深く付き合いたいとは思わせない。だがこういう人物は、今でもそのへんに掃いて捨てるほどいるのではないか、例えばそう――これを読んでいる自分なんか。そんな親近感を植え付けられるためか、読者(特に日本の)の中で語り手の小野を一方的に断罪する人は少ないだろうし、また、どんでん返しの瑕疵(?)を突いて本作を批判することもなんとなくしにくい。
まあ何が言いたいかといえば、一番の悪人はカズオ・イシグロなのだ。

 

浮世の画家 (ハヤカワepi文庫)

浮世の画家 (ハヤカワepi文庫)

 

 

 

一、二、三、そして〈遊ぶ〉ことの奥義――『殊能将之未発表短篇集』(4)

(承前)

夢と現実のはざまに生きる者だけが、真摯に夢を、現実を生きようとするのだ。(「空耳通信1 押井守あるいは半分は予感でしかない通信」/『Before mercy snow』所収)
単なる三人称でも一人称でもない、その二つの「はざまに生きる」言葉について考えてみよう。
「ディック自身は遊ばないんだな」という躓きは、なまなかのものではない。なぜならディックの『暗闇のスキャナー』という小説は、その意味においては凄まじい作品だから。
刊行は1977年だが、作品の舞台は1994年。カリフォルニアでは物質Dというドラッグが流行しており、主人公の捜査官フレッドはアークターという売人の監視を命じられる。アークターは複数のジャンキー仲間と住んでおり、その家に監視装置(スキャナー)が設置される。しかしアークターとは実はフレッドの囮捜査官としての別名である。かくしてフレッドは自分自身を監視しながら、敵にも味方にも仕掛けられた罠を探るうち、中毒症状が悪化の一途を辿る。この小説はディック自身のドラッグ体験を反映しているとされ、友人をモデルにした登場人物たちの哀切さと悲惨さを伝えて衝撃的である。
田波青年が引用した〈なにかべつの遊び方でかれらみんなをふたたび遊ばせ、楽しい思いを味わわせてあげたい〉という言葉は、「作者のノート」のラスト一文であり、その前には次のような言葉が連なっている(以下、飯田隆昭訳、サンリオSF文庫版、1980年より)。
もし、なんらかの〈罪〉があるとすれば、それはこうした人びとがいつまでも楽しく時を過ごそうと願ったことであり、それがために罰せられたのです。だが、たとえそうであったにしても、その罰たるやあまりにもひどかったと思います。で、わたしはそれをギリシア的に、あるいは道徳的には中立の単なる科学として決定的な因果関係としてむしろ考えたいと感じるのです。わたしはかれらすべてを愛していました。わが愛を捧げる人びとのリストをここに掲げます。
ゲイリーン 死亡
レイ 死亡
フランシー 不治の精神病
キャシー 不治の脳障害
ジム 死亡
ヴァル 不治の重度脳障害
ナンシー 不治の精神病
ジョアン 不治の脳障害
マレン 死亡
ニック 死亡
テリー 死亡
デニス 死亡
フィル 不治の膵臓障害
スー 不治の血管障害
ジェリー 不治の精神病および血管障害
 ……等々。
 ここに哀悼の意を表します。かれらはわたしの同志でした。これほどすばらしい同志はいません。かれらはわたしの心に残っています。そしてわたしは敵をけっして許しはしません。〈敵〉とは遊び方を誤ったことです。なにかべつの遊び方でかれらみんなをふたたび遊ばせ、楽しい思いを味わわせてあげたい。

このサンリオ文庫版の解説で、山田弘美(のちの川上弘美)は、ディックのインタビューを引用している。

——僕は、この作品を書いているあいだじゅう悲しくてたまらなかった。ゲラ校正を二週間前にやった時も、悲しくてたまらなかった。ゲラ校正が終わってから、二日間泣き続けた。この物語を読み返すたびに、僕は涙を流してしまうのだ。
作品を取り巻くこうした言葉の数々は重い。にも関わらず、「ディック自身は遊ばないんだな」と微妙な間隙を田波氏は指摘する。この小説は確かに、「memo」の作者が好みそうな一編だ。追う者と追われる者の同化/分裂。ストーリーを停滞させる馬鹿話にまみれた日常の対話。そうした対話をテレビモニターで監視しながらのツッコミ。その裏に張り付いた、精神がしだいに変容してゆくことへの恐れ。こうした手法のいくつかは、『ハサミ男』の執筆の際に参考にしたのではないかとすら思わせる。いやもう一つ、さらに重要なのは、友人を作中に登場させる、という点だろう。これは『美濃牛』を思い出させる。
ハサミ男の秘密の日記」を読むと『美濃牛』の執筆は、1999年4月には開始されていた。つまり、デビュー前からすでに着手していた『ハサミ男』『美濃牛』では、どちらも主要人物のモデルに「田波正」の友人が当てられているのだ。古い友人を作中に出演させたり、実体験をエピソードに流用したり、それによって「見聞きしたことしか書けない」と評されたり。実はそれらのすべては、「夢と現実のはざまに生きる」=「遊ぶ」の実践だったのではなかろうか。そして、「田波正」から「殊能将之」が誕生するにあたっては、「なにかべつの遊び方」で「かれらみんなとふたたび遊び」きるという唱和の力、他者からの力を借りることを必要としたのではないか?
完全に偶然でしかないのだが、『未発表短篇集』には三つの短篇とともに、「ハサミ男の秘密の日記」という元は私信だったものが収められている。しかし短篇とレイアウト上の区別がまったくない以上、「秘密の日記」は小説として読むこともできる。このことについてちょっと深読みをしてみよう。
先にジョルジュ・ペレックの未完の遺作『53 Jours』についての評を引用したが、同じ項のその前にはこういう言葉もあった。(「reading」2006年7月24日)
『「五十三日間」』は未完の作品なのだ。完成させる前、1982年にペレックは癌で亡くなった。
 読んでいくうちに、だんだん本作が未完であることが必然であるように思えてくる。「タイプ原稿はここで終わっている」というただし書きさえ、作者が意図的に挿入したかのように感じられる。事実でも真相でもないことはまちがいないのに、メタ作者の存在がほのかに見えてくる。
 このあり得ないメタ作者を神様とか、運命とか、ペレックの才能と呼ぶこともできるだろう。わたしにはなにかよくわからない。ただ、手元に『「五十三日間」』という書物があり、その書物が他の多くの書物につながっていることだけは事実だ、とぼんやり思うだけだ。
All morning, an inexplicable intuition has been nagging at my mind: that the truth I am after is not in the book, but between the books. That may sound senseless, but I know what I mean: that you have to read the differences, you have to read between the books, in the way you read "between the lines".
 午前中ずっと、説明しがたい直感が頭につきまとった。探し求める真実は書物の中ではなく、書物の間にあるのだ。たわごとに聞こえるかもしれないが、わたしにはわかる。違いを読まなければならない、書物の間を読まなければならない、「行間」を読むように。
「精霊もどし」の最終ページをめくると、〈死後の世界なんて、あるわけがないでしょう。あたしが言うんですから、信用してください。〉というラスト二行の戦慄的な台詞が目に入る。この言葉はどういう意味なのか。
ここから、私の推測はいささか妄想的な領域に入り込む。
「死後の世界なんて、あるわけがないでしょう」という台詞は、死者・真知子のものである以上、作中において「死後の世界」は「この世界」と別にあるのではなく、「この世界」そのものであるのだとも読める。考えてみれば、――『黒い仏』においても、『キマイラの新しい城』においても、フィクションの世界は「現実」と別にあるのではなく、連続するものとしてあった。そこにあるのは、見える者/見えない者という「ズレ」の非対称性であって、両者とも同じ世界にいることには違いがない。『鏡の中は日曜日』においてもまた、石動がフィクションとして考えていた「名探偵・水城優臣」の世界は、石動の「現実」と連続するものだった。殊能ワールドとは、そうした混淆が起こってゆく場所なのだ。
『鏡の中』では一箇所、作者らしき人物が登場する場面がある。石動がかつての事件関係者の一人で文芸評論家の柴沼を訪ねて文学賞のパーティにホテルークラへ赴く場面。
「受賞者のやつ、へらへら笑いながら、ぼくのそばにすりよってきたな。先生のファンなんです、先生のご高著は全部拝読してます、と言ってね。ぼくに取り入りたいらしい。フェミニスト・サイコスリラーで人間の心の闇を鋭く描ききった俊英が、あんな俗物でいいのかね」
「その方、確か、謎の覆面作家と言われてる人ですね。いっさい顔写真を出さないことで有名な……」
 石動は少し興味を覚えて、そう訊ねた。
「確かに写真は断ってたな。でも、顔を出さないのは、話題づくりのための計算だよ。編集者の入れ知恵じゃないか。新人のくせして、世慣れたもんだ。あるいは、よほどルックスに自信がないのかもしれない」
もちろん実際には、2001年7月7日に殊能将之がなんらかの賞を受けた訳ではない。メフィスト賞の授賞式というのは行なわれない(しかも年代は2001年だからデビューの1999年とはズレる)し、『美濃牛』は第一回本格ミステリ大賞の候補になったが式は6月だし会場もホテルオークラではない。なぜ作者はこのようなことを書いたのだろう。もう一編、小説外に重要なテクストがある。文庫化の際『IN★POCKET』2005年6月号に掲載した「殊能将之に抗議する 鮎井郁介(殊能将之)」である。ここにおいて、作中人物・鮎井郁介は『梵貝荘事件』の扱いに関し、殊能将之に抗議した……とある。しかし『鏡の中』で鮎井郁介なる人物は2001年に死んだはずなのだから、文庫化に抗議できるわけがない。当然ながらこのコラムも鮎井のフリをした殊能筆によるものと、常識的には考えられている。しかしもしそれを真面目に受け取り、「死後の世界なんて、あるわけがないでしょう」という言葉と突き合わせるならば、作者と作中人物の会話は作品の持つ論理において不可能ではなくなる。
そして、〈なにしろ、磯君は『ハサミ男』の主人公だからね〉という言葉。この一編を読む大方の読者は、すでに『ハサミ男』を読み終えているだろうから、1999年当時の手紙の唯一の読み手=磯君の驚愕を、まるでオイディプス王の姿を見るように想像することができる。「ハサミ男の秘密の日記」というタイトルは、作者が自分自身を「ハサミ男」に重ね合わせるかのようだ。
しかし、「罠」はそれだけでは終わらなかった。
〈なにしろ、磯君は『ハサミ男』の主人公だからね〉という言葉で、作者は古い友人たちを作中へ招き入れた。それによって、「殊能将之」は誕生した。以降、小説の外においては公式サイトをクラブのようにして、無数の読み手を日夜「秘密」の共有関係に巻き込む。内においては、複数のフィクション世界を混淆させ、リアルな現代日本の風俗という「現実」を相対化する。そうした二重戦略を実践した。
そして「ハサミ男の秘密の日記」が短篇と変わりないレイアウトで並列され一冊の本として公刊されるということは、その作中世界にはもちろん、わたしも、あなたも、彼女も含まれている。〈なにしろ、磯君は『ハサミ男』の主人公だからね〉という結末にたどり着いた瞬間、虚実は裏返る。ノコノコとこの本に吸い寄せられてやってきた無数の読み手たちは皆、アリスが穴を通り抜けるようにその他の小説群とも連続して、殊能ワールドの住人となってしまう。これこそが、最後の罠だった――作者の手を離れても作動するよう、「あり得ないメタ作者」あるいは「運命」、「才能」が仕掛けた。
 まったく無害に思えたのですね。これまでのページには、どんな確かな原理も含まれず、どんな教義も広めず、どんな信念も侵害しない、と……。
 しかし、槌は振り下ろされ、もはやすべては遅すぎるのです。
 皆様にお伝えしましょう。罪はいずこにあったのか?
 皆様の罪です。
 皆様はわたくしたちに耳を傾け、この場にとどまり、「印」をごらんになりました。
 いまや皆様はわたくしたちのもの、あるいは、呪文は逆向きにもつづられ、わたくしたちは皆様のもの……永遠に。(James Blish“More Light”より『黄衣の王』第二幕、殊能将之訳/『黒い仏』)
(つづく)という言葉が、アルファにしてオメガだ。一、二、三。三、二、一。

……どうやら私は、妄想を逞しくしすぎたようだ。しかしタワゴトと思われてもいい、こうした読みも可能ではないかということを単に、あなたに伝えたかっただけなのだ。
最後に、1999年当時の状況を整理して、この長すぎた駄文を締めくくることにしよう。(つづく)

一、二、三、そして〈遊ぶ〉ことの奥義――『殊能将之未発表短篇集』(3)

承前

かつて『Before mercy snow 田波正原稿集』(名古屋大学SF研究会、2013)を読んだ際、私はフィリップ・K・ディックヴァリス』論の次の一節に目が留まった。

たったひとつの言葉が気にかかる。本は『暗闇のスキャナー』、「作者のノート」。
「なにかべつの遊び方でかれらみんなをふたたび遊ばせ、楽しい思いを味わわせてあげたい」。
これを読んで、ああ、ディック自身は遊ばないんだな、と、ふと思った。「かれらみんなとふたたび遊び」ではないのだ。「遊ぶ」のではなく、「遊ばせる」こと。おそらく傷つきやすい、エゴイスティックな、ナルシスティックな魂がここに見られる。ディックは「遊ばせる」者、つまり神を希求した。いや、神になろうとした。
しかし旧約の神だけが神ではたい。神とはむしろ「遊ぶ」者ではなかろうか。(「ヴァリス狩り」)

そこを引用し、いろいろ述べた上で私はこう書いた。

言葉=論理によってフィクションの論理を貫徹し、他者と遊ぶこと。そうして作品という場に一瞬の〈超越=救済〉を招き寄せること。そのような刹那性を肯定する一方、しかし、SF(に限らないが)にできるのはそれだけのことだという不完全さに対する苛立ちのような感情もまた、『BMS』には漂っている。

それでは、小説の実作者となるにあたって、〈超越〉という不可能な問題との再対決はいかに行なわれたのだろうか?

 とすれば、田波正から殊能将之が誕生するにあたっての「問題」との再対決の刻印が、この『未発表短篇集』には含まれているはずである。

「ディック自身は遊ばない」という指摘。「イーガンは一人称で書く。しかも、一人称の語り手にどっぷり感情移入して、センチメンタルに書いてしまう」という指摘。では、そのように指し示す者の姿はいったい、どこにあるのか。

その前に少し寄り道を。
一昨年の暮れ、『Before mercy snow』と稲生平太郎『定本 何かが空を飛んでいる』(国書刊行会、2013)を立て続けに読んだ。『BMS』と稲生の表題作はどちらも同人誌に発表されたもので、博識の書き手が趣味の親しい読み手に呼びかける文体に共通したトーンを感じた。
失われたサイト「mercy snow official homepage」に書かれた、小説以外の膨大な文章は、基本的に田波時代からのものと思われる。ここで「memo」2002年10月後半の記述を引用したい。

 なんとなくウォーレン・ジヴォンの2枚組ベスト《I'll Sleep When I'm Dead: An Anthology》をずっと聴いている。いや、追悼ってわけじゃないです。まだ死んでないし、ジヴォンは追悼なんて大っ嫌いだろうから。

 リーフレット収録の自作解説を読んでいたら、「内緒だけど、イギリスの安っぽいテクノのレコードが好き」("my secret fondness for sleazy English techno records")という一節を発見し、ますますジヴォンが好きになった。最近読んだ本のなかに「コンピューターがでっち上げた重低音のリズムが響き、何 を言っているのか聞き取れない呪文のようなラップがそれに被さって、ひっきりなしに音響が渦巻いている」というくだりがあって、この著者とは音楽の話できねえなあ、と思ったから、なおさらである。
 べつに最新のテクノ・ミュージックを理解するジヴォンの感性の新しさを称賛しているわけじゃないよ。テクノから影響を受けたと称する〈Real or Not〉という曲はたんなる駄作で、なんか勘違いしているとしか思えないし。自分が好きで聴いている音楽や読んでいる本や見ている映画が新しいか古いか、 最先端か否か、いまキテるかどうかなんて、どうでもいいじゃん。とにかく「テクノが好き」と語るジヴォンが好き。それだけ。 

 サトシ・トミイエ(富家哲)がどこかのインタヴューで興味深いことを語っていた。

 Masters at Work(という有名なDJチームがニューヨークにいるのだが)の曲を聴きにクラブに行く人はいない。そうじゃなくて、クラブに遊びに行くと、いつもかっこよくて気持ちいい曲がかかっている。それがMasters at Workの曲なのだ。
 この話を「作家性の否定」で、だから「新しい」というふうに受けとってはならない。そういうのは80年代ポストモダニズムの感覚。要するに、かっこよくて気持ちいいことが大切、ということ。いまクラブで流れているのがMasters at Workの楽曲であることを知っているか否かは、どうでもいいのだ。その曲を「気持ちいい」と感じることが大事。もちろん、Masters at Workの曲じゃなくてもいい。ウォーレン・ジヴォンでも、ジョン・ケージでも、コール・ポーターの曲でもいい。「いまどきコール・ポーターを聴くなんてダサイ」と思うやつがいちばんダサイっす。

 「mercy snow official homepage」を訪れていた読者にとって、そこはMasters at Workのいるクラブのようなものだったのではないだろうか。むろんクラブと個人サイトでは「作家性」云々において持つ意味合いは違う。しかし作者の意図としては、どこかにそういうつもりもあったのではないか。そこに行けば、「いつもかっこよくて気持ちいい」言葉があって(しかも日に何度も更新される膨大な量)、たとえ知らない話題であっても、なんとなく楽しめる。少なくとも私はそうだった。十年近く、朝晩の一日二回は見てたものね。〈知人に90年代以降でデイヴィッド・I・マッスンの小説を読んだただひとりの男と呼ばれてしまった〉と始まる「reading」に登場した作品の大部分は、発表数十年を経たオールドタイムなものだったが、それからゼロ年代のSF・ミステリの翻訳状況はクラシック・ブームとも呼ぶべき状況を呈した。何が流行るかは誰にもわからないのだから、ひたすら自分が好きなものを語り続けたら、いつの間にか最新流行になってしまった……というのが「reading」ではないか。つまり、『BMS』に通底していた「論理的であること」の実践といえる。

若島正は『殊能将之読書日記』(講談社、2015)の巻末解説で、次のように書いた。

引用した個所とそっくり同じ個所をしてしまった、という珍事は、不思議を通り越して怖いほどである。こういうときに、わたしは何か殊能氏の一部分と交感したような、幸せな錯覚を起こすのだ。殊能的なるものは、こうしてわたしたち読者を楽しませながら教育して、どんどん増殖していく。しばしば愛読者は、殊能氏のことを「シュノーセンセー」と呼んでいた。彼らは、自分たちの好みが殊能氏によって教育されたことを、心のどこかで自覚していたに違いない。

 奥野健男はかつて太宰治の小説について、直接語りかけるような文体で読者を引きずり込んで離さない「潜在二人称の文学」を唱えたが、「mercy snow」のおしゃべりめいた調子(ジヴォンについての上記引用箇所の「~聴いている」「ないです」「~である」「~じゃないよ」「~いいじゃん」とめまぐるしく移っていく語尾にご注目あれ)の奥にも何かそうしたクールな熱っぽさ、すなわち鍛えられた散文と、それが捕らえる我々の見慣れた(はずの)日常との距離=ズレからたちのぼる詩と批評があった。もちろん向こうは私のことなど何も知らないわけだが、しかしどこか「秘密」を共有したような感覚に読む者は陥ってしまう。

スタジアムライブのような一回性ではなく、クラブの日常性によって感化させてしまう――これは〈遊ぶ〉ことの奥義の一つ。とはいえ、小説外においてだ。ならば小説内では?(続く)

 

殊能将之 未発表短篇集

殊能将之 未発表短篇集

 

 

一、二、三、そして〈遊ぶ〉ことの奥義――『殊能将之未発表短篇集』(2)

承前
この本を最後まで読むと、作者は生活のために、前の三編のような短篇を量産しなければならなかったのではないか、という思いが多少なりとも誰の胸にも湧くと思う(失礼な言い方をお許しあれ)。しかし、現実にはそうはしなかった。依頼を断っていたのか、「キラキラコウモリ」以外の作品がまだ他に眠っているのかは判らないけれど。
テッド•チャンだって年十八編発表すれば、駄作も書けるようになるって。(「編者に聞く」2005ウェブ掲載/アヴラム・デイヴィッドスン『どんがらがん』河出文庫、2014所収)
と言い放ったことがあるからには、「ではなぜ先生は駄作が書けるくらい年十八編書かなかったんですか」という疑問が生まれても不思議ではない。短篇の執筆にあまり意味を感じていなかったのだろうか。三編とも確かにうまい。旧作のあちらこちらを様ざまに連想させもする。その意味で、デビュー前夜のアイディアが胚胎されたデモテープ的一冊としても読める。
ここでは、「犬がこわい」「鬼ごっこ」「精霊もどし」のうち唯一、一人称が用いられている「精霊もどし」を詳しく見てみよう。
「精霊もどし」は問題作といってよく、作品に思い入れのふかい読者ほど、戦慄を感じてやまないこととおもう。先のディッシュと絡めて、グレッグ・イーガンの一人称について言及している箇所を引用しよう。
 わたしは不勉強なもので、グレッグ・イーガンの長編を読むのは『万物理論』が初めてである。
 短編を読みはじめたのも遅く、『20世紀SF(6)1990年代 遺伝子戦争』(山岸真中村融編、河出文庫)で「しあわせの理由」を読み、たいへん感心したのがきっかけだから、2001年9月のことだ。とりあえず、『祈りの海』(山岸真編訳、ハヤカワ文庫SF)を読むことにした。
『祈りの海』は非常に不思議な短編集で、収録作品がすべて一人称で書いてある。最初は編者の意図的な選択かと思ったが、読んでいくうちに、イーガンが一人称で書くのが好きなのだと悟った。
 たとえば、「キューティ」という小品がある。
「子供が欲しくて欲しくてしかたない男がいて、生んでくれる女がいないので、人造ベビーを買って自分で生んだ」
 というのは、わたしの目にはほとんどギャグ的発想に思える。トマス・M・ディッシュなら、このアイディアを三人称で書いて、爆笑ブラックユーモア短編に仕上げただろう。
 しかし、イーガンは一人称で書く。しかも、一人称の語り手にどっぷり感情移入して、センチメンタルに書いてしまうのだ。個人的にはどうも肌に合わず、気色悪い書き方である。(「memo」2004年11月後半)
仮に、ディッシュ=三人称的/イーガン=一人称的という構図をとるならば、自分はディッシュ=三人称的である、ということになる。実際、小説ではない「ハサミ男の秘密の日記」などを読んでも、三人称的に書くのが好みだったのだろうことがうかがえる。
ではなぜ「精霊もどし」では一人称が用いられているのか。それはこの短篇が、死者の蘇りを題材にしているからだ。死んだはずの女・真知子の姿は、主人公・宮崎の目にしか見えない。真知子の姿を客観描写できないことは、『ハサミ男』において〈医師〉の姿が「わたし」にしか見えないのと同様だ。どうして真知子は宮崎の目にしか見えないのだろう。その原因はまったくわからない。ただ、家事をこなしたり電話をかけるといった物理的な行為だけが、間接的にその客観性を証明するものとしてある。
この語り手の「宮崎」の視点は、極めて三人称に近い。

広永はそのまま病院に連れていかれ、心因性鬱病と診断されて、しばらく入院することになった。傷害事件を起こしたには違いないが、妻の死がストレスとして蓄積された結果、一時的に精神錯乱状態になった、と判断された。(……)被害者の側も事を荒だてる気はなかったので、刑事事件にもならず、いたって穏便に決着がついた。

 この「被害者の側」というのは自分(宮崎)自身のことなのだから、通常なら「わたしのほうも事を荒だてる気はなかったので~」などと書きそうなものだが、そうはしない。こうした自分を他人のように書くやり方は、続く「ハサミ男の秘密の日記」における、〈殊能将之が投稿した長編ミステリ『ハサミ男』がどうなったか、ずっと気になっていたのだ〉あるいは〈わたしは殊能将之とかいう新人作家のファンになったね〉だとか、また『ハサミ男』の有名な書き出し〈ハサミ男の三番目の犠牲者は、目黒区鷹番に住んでいた〉などにも通底している。たとえば先の書き出しを〈ハサミ男の三番目の犠牲者が出たと聞いて、わたしは驚いた。目黒区鷹番に住んでいた女の子だという〉などとすれば、より普通の一人称的ではあるけれど、しかし何かが決定的に違ってしまう。

あるいはラスト近く、友人に襲いかかられる修羅場の部分。
出血した部分を右手で押さえながら、最後の懇願をした。広永は無表情のまま立ちつくし、包丁を逆手に握りなおした。
そのとき、パトカーのサイレン音が聞こえてきた。サイレン音はうるさいほど大きくなり、やがてキッチンの窓に赤い回転灯の光が投影された。
自動車が停まる音。人の走る足音。「通報があったのはここか?」「はい」という話し声。そして、玄関のドアが乱暴に開けられ、何人かの人間が駆け込んでくる音が響いた。
ここをたとえば、
出血した部分を右手で押さえながら、宮崎は最後の懇願をした。広永は無表情のまま立ちつくし、包丁を逆手に握りなおした。
そのとき、パトカーのサイレン音が聞こえてきた。サイレン音はうるさいほど大きくなり、やがてキッチンの窓に赤い回転灯の光が投影された。
自動車が停まる音。人の走る足音。「通報があったのはここか?」「はい」という話し声。そして、玄関のドアが乱暴に開けられ、何人かの人間が駆け込んでくる音が響いた。
と三人称に書き換えても違和感はない。たいていの一人称小説は三人称に書き換えても実は違和感のないものが多いが、ここは自分の生死がかかっている箇所なのだから、本来もっと動揺が現われてもいいと思う。しかしそうなっていない。作者のミスなのか。というよりは、作品全体にわたってこの語り手の「宮崎」という人物は、存在が希薄に思える。「ぼく」という主語は地の文には実は一度も登場せず、会話文において三回使われているのみだ。そうした恐ろしいまでに冷えきった視線でありながら、にも関わらず滲み出てくる哀切な感覚はなんなのだろうか。『ハサミ男』の「わたし」の文体は、都市観察者としてのハードボイルド探偵ふうのそれだから、〈わたし〉という主語はそれなりに多用されるのだが、どこか似た空気を感じてしまう。とりわけ、修羅場から病室へ、というラストのシークエンスの連なりにおいて。(続く)

 

殊能将之 未発表短篇集

殊能将之 未発表短篇集

 

 

一、二、三、そして〈遊ぶ〉ことの奥義――『殊能将之未発表短篇集』(1)

発売のアナウンスがあった時は「短篇が執筆されていたのか?」と目を疑ったけど、『殊能将之未発表短篇集』(講談社、2016)には短篇が三つと、私小説ふう日記エッセイ一つが収められている。短篇のうち、「犬がこわい」は犬恐怖症の男とその近所に現れた巨大犬をめぐるやや日常の謎を思わせる話で、「鬼ごっこ」はヤクザらしい追う者と追われる者との疾風怒濤のバイオレンス・アクション、「精霊もどし」は生きている死者を題材とするどちらかといえばホラー寄りで、後者二つは自身フェイバリットを公言していた黒沢清の感じに近い。いずれも純然たるミステリというよりは、いわゆる「奇妙な味」というか、『異色作家短篇集』『奇想コレクション』などに入っているようなタイプ。かつての日記「memo」「reading」にあったような志向からすれば、こういった作品は確かに、書かれていてもおかしくはなかった。
とはいえこれまで著者の短篇といえば、『樒/榁』(講談社ノベルス、2002)はシリーズものの短篇二つのカップリングだけれど合わさることで意味を持つ、形式的には中篇だし、ほかにはリレー短篇連作『9の扉』(マガジンハウス、2009)に参加した「キラキラコウモリ」(「ウフ。」2008年5月号)一編しかない。だから短篇というとどのようなものなのか、まったく知られていなかった。その意味で、これまでの作品を読んできた人ならば、まずこわごわと手にし、ついでまぎれもないあの質感に安堵、そして面白く読むことができるとおもう。

「短篇」と聞いたときに私は、「reading」に書かれた次の一節を思い出した。

 中村融山岸真編『20世紀SF (3) 1960年代 砂の檻』(河出文庫)にトーマス・M・ディッシュ「リスの檻」が収録されていたので、うれしくなった。
 わたしはディッシュが好きで、短編集を4冊持っている。暇なときに、ぽつりと1編読むのが実に楽しい。(したがって、まだ全部は読んでいません)
White Fang Goes Dingo(1966; Arrow, 1971)
Under Compulsion (1968, Granada 1970)
Getting Into Death and Other Stories (1976; Pocket,1977)
The Man Who Had No Idea (1982, Bantam)
 ほかにももう1、2冊短編集があるはずだが、まだ買っていない。
 ディッシュという人は、典型的な短編型作家で、長編はあまりうまくない。どうやら長編の構成ができないらしく、長めの中編の感覚で一気に進められるショートノベル(例・『人類皆殺し』ハヤカワ文庫SF)はまだいいが、ぶ厚い長編になると、いくつかの短編がつながったような話になってしまう。長い物語をゆうゆうと語る資質に欠けているんだろうと思う。
 そのかわり、短編はものすごくうまい。もう、信じられないくらいうまい。わたしは弟子になりたいくらいだ。なんだったら、ニューヨークまで行って、アパートメントの玄関口で土下座して待っていてもいい。(「reading」2001年2月7日)

 「弟子になりたい」という言葉は、チラとでもトマス・M・ディッシュふうの短篇を書こうと志向しなければ出てこない言葉だろうから、私はずっと気になっていた。今回の収録作はエッセイ「ハサミ男の秘密の日記」含め、すべて1998~99年(つまり34~35歳ごろ)に執筆されたと推定されている、ごく初期のものである。長篇ほど革新的ではなくとも、クオリティは高いのだから、もしこうした短篇群が次々と書かれていれば、……と夢想してしまう。


短篇はすべて執筆時の現在、つまり前世紀末の日本を舞台にしているが、携帯電話とインターネットがないことを除けば、時代的な古さは感じさせない。現代の日常的な風俗を対象にすることは、『ハサミ男』から「キラキラコウモリ」に至るまで、欠かせない重要なモチーフだった。そしていずれの短篇も、日常の中にある超常的な存在が示唆されていることを考えれば、これは『美濃牛』から『黒い仏』への“飛躍”を、連続したものとして捉える補助線ともなる。もしこれらがその間(つまり実際に編集部と掲載に向けたやり取りをしていた2000~01年頃)に「メフィスト」に発表されていたならば、作品が読者へ与えるイメージは、また違っていたかもしれない。

『未発表短篇集』というタイトルはいかにも無愛想で、そのまま刊行されるのだろうか、と思っていたら、本当にそのまま出た。まだ読む前、内容紹介を見て、「犬がこわい」「鬼ごっこ」「精霊もどし」からもしメインタイトルを選ぶとすると「精霊もどし」かな、所ジョージの曲名にあるけど、『鏡の中は日曜日』『子どもの王様』もイタダキものの書名だし、『キマイラの新しい城』は『ハウルの動く城』みたいだし……と思っていたら、「精霊もどし」の120頁ラスト2行を読んでブッ飛んだ。そうか、これをメインに据えると、別の意味を持ってしまう……というわけで、半分は納得した。
この本がまとまるまでには、おそらく水面下で多くの議論があったことと思う。そんなことを臆測してもしょうがないが、しかし、かつて次のように書かれたことを思い出す人も多いのではないか。

 作家や芸術家が早逝すると、「まだこれから傑作を創造したかもしれないのに」という反応が出るのがつねだが、わたしはこれが嫌いである。

 永田耕衣という俳人がいて、阪神大震災被災したあと、老人ホームに入って、そこで息を引きとった。
 耕衣の弟子という人がたびたび面会に行っていたのだが、この人は、耕衣が痴呆状態になったあと、老人ホームを訪れるたびに、ベッド脇のテーブルの上を探しまわったらしい。
 もしかしたら新しい俳句を書いたんじゃないか、と考えたのだ。
 この話はその弟子自身が書き記していて、ご本人は「耕衣文学を後世に残すための崇高な使命を果たした」つもりでいるらしいが、わたしが耕衣なら、こんなやつには見舞いに来てほしくないよ。ろくなもんじゃないよね。
 リンダ・マッカートニーが亡くなったとき、日テレの某女子アナが番組で、
ポール・マッカートニーがすばらしい追悼の曲を書いてくれることを期待します」
 とコメントしたので、わたしはテレビの前で激怒した。
 たぶん、このバカ女はエルトン・ジョンの〈キャンドル・イン・ザ・ライト〉のことが頭にあったのだろうが、あれは昔の曲の替え歌だ。新しく作曲したわけじゃない。本当に悲しいときに曲なんか書けるかっ!
 わたしはこういう連中が大嫌いである。才能があろうがなかろうが、創造力が枯渇していようがしていまいが、たんに死を悼みたいと思う。(「memo」2002年10月)

 あるいは、『樒/榁』の冒頭で、未発表原稿掲載にあたっての編集部からの説明がやや揶揄気味に挿入されていたことなど。

作者と作品を峻別した人らしい発言だと思い、また非常にもっともだとも思う。もちろん、没後刊行の作品すべてを否定するものではないはずである。ジョルジュ・ペレックの未完の遺作『53 Jours』を読み終え、〈この本を編集したハリー・マシューズとジャック・ルーボーは偉いね。ペレックへの深い友情を感じたな。〉(「reading」2006年7月24日)などと評価しているくらいなのだから。

今回の三つの短篇は公表を期して届けられたもので、「秘密の日記」のほうもおそらくは外部の目を意識した文章になっているのだから、相応のエクスキューズはある。そうした事々を考え合わせると、やっぱり三年という時間は必要だったのかもしれない……とおもう。

(続く)

 

 

殊能将之 未発表短篇集

殊能将之 未発表短篇集

 

 

詳細は不明ながらnuitoの新作が出るらしく、新しい音源が上がっている模様。

ひらう on Twitter: "そろそろなので進捗報告・宣伝用にバンド垢つくりました
https://t.co/68f6PdXPDJ"

https://soundcloud.com/nuito-1

ファーストが2009年だから七年ぶりの新譜ということで、新曲は以前とも違う雰囲気だけどやっぱり良いですね。

bluebeard、元AS MEIASの高橋良和率いるRENAという新グループも来月に初音源が出るそうです。

http://bewaterrecords.bandcamp.com/releases

diskunion.net