TBCN

襤褸は着ててもロックンロール

昨日までその気はなかったんですが以前パブーに載せたのを修正してカクヨムに投稿しました。

https://kakuyomu.jp/users/anttk

というのは「矢尾通信」を久しぶりに読み返したら作中の擬似SNSシステムが懐かしく思い出され(私は大学一回の時入った近所の古本屋で数度見かけただけですが近いものが実際にあった)、やっぱりこういうのはもっと活発なSNSに投稿せねば!と感じたためです。

大きな修正点としては同作のラストの変更(実質的なカット)とか、自分でもよくわからないままCMの二次創作をした「スノー・マジック・ファンタジー」後半のかったるい会話シーンを整理したりしています。

あとは去年ここに載せた「日記について」のラストをフィックスしたら手持ちはなく、その後は未定です。

「叙述トリック」についてのメモ(6)

今更ではあるが、以下の議論に一度、目を通していただきたい。

ここで「叙述トリック」という言葉が何を指すのかについては、その言葉について、じっくりと考えたことのある者でなければ、かなり混乱してしまうのではないだろうか(私がそうだった)。
ここで我孫子武丸が述べていることは、実にシンプルだ。世間では、「どんでん返し」というテクニックそのものを「叙述トリック」と同一視してしまう傾向があるが、実際に「叙述トリック」という概念が含む範囲はもっと限定的だ、ということだ。しかし様々な人物が様々な論点を持ち込んで別個に私見を述べているため、まとめでは議論が錯綜して見える。少なくとも私の見る限りでは、映像/小説、三人称/一人称、故意/過失、現実/幻想、という要素がゴッチャに入り混じって整理が共有されていない。それを個人的な参考のためにもほぐしてみたい。
映像・小説・一人称
先のまとめで議論の始まりは「映画における叙述トリック」とは何か、である。人称において、映像と小説の最大の差は一人称にある。映像では純粋な一人称=主観ショットのみで出来た作品はほとんどなく、小説に比べれば圧倒的に少ない。一人の主人公を持つ映画はたいてい、出来事における主人公の顔を映す。しかし人間は鏡などを用いなければ自分の顔を見ることは出来ないから、主人公の顔を映す映像は主人公自身の主観ではない。ゆえに映像で多く用いられているのは、三人称の視線である。主人公による一人称的性格を強めるために、モノローグが音声として入ることがあるが、それは音声という言葉を副次的に用いているのであって、映像そのものが一人称であるということではない。
叙述トリックはよく「映像化不可能」といわれる。叙述トリックは何かを「言い落とす」ことによって効力を発揮するのだが、情報量の少ない言葉においては比較的たやすい「言い落とし」の余地が、雄弁な映像においては乏しいからだ。しかしもちろん映像においても、叙述トリックというものは存在する。
どんでん返しと言い落とし
上で、〈世間では、「どんでん返し」というテクニックそのものを「叙述トリック」と同一視してしまう傾向があるが、実際に「叙述トリック」という概念が含む範囲はもっと限定的だ〉と述べた。どんでん返しというのは物語における技法の一つだ。なぜ「どんでん返し」と「叙述トリック」が同一視されがちなのというと、あらゆる「どんでん返し」は「言い落とし」を原理とするからだ。叙述トリックも夢オチもメタトリック(実は作中作だった、とわかるようなもの……これはいま仮に名付けた)も、「言い落とし」が基本にあることにおいて共通する(どんでん返しの例はそれだけに限らないが、特に混同されがちなこの三つをここでは取り上げる)。いずれもある事実を伏せておき、後になってそれをひっくり返しことには変わりない。
ではそうした夢オチやメタトリックと「言い落とし」を共有する叙述トリックは、どこに差異を持つのか。それは、「作中現実の次元において虚偽の叙述をしない」という点にある。
夢オチ(ここでは幻覚や幻想も含む)やメタトリックとは要するに、「作中現実だと思わせて実は次元が異なった」と後でわかる「どんでん返し」に力点がある。叙述トリックはそうではない。作中現実の次元は変わらないまま、ある事象をまったく別の事象であるかのように、嘘をつかずに混同させるのが叙述トリックだ。
私が整理するところでは、叙述トリックには二つの原理がある。それを仮に、叙法型と構成型と名付けよう。
「消防署のほうからやってきました」といって消防署員だと思わせるとか、女性に「僕」と自称させて男性だと思わせるというのが叙法型。
ひるがえって、複数のパートの構成によってある事象を錯覚させるのが構成型。
叙述トリック」をここで、「言い落とし」を基本としつつ、作中現実のある事象を叙法ないし構成によって別の事象に混同させるテクニックである、と定義してみよう。
むろん実際には作中作と組み合わせた叙述トリック、更には夢オチと組み合わせた作中作と組み合わせた叙述トリック、というような複雑なものもあるのだが、その場合もやはり、それぞれの仕掛けが効力を発揮する点は異なる。
叙述トリックの歴史的意義について最も詳しく書かれた本は、笠井潔『探偵小説と叙述トリック』(東京創元社、2011)だと思われる。次回からは、その中で取り上げられている作品をいくつか見ながら、考えていきたい。
 
 

ある方に勧められて清水義範ドン・キホーテの末裔』。著者自身を思わせる作家が、『ドン・キホーテ』をモチーフにした小説を書くというメタフィクションで、作中作の他にも講演、エッセイ、小説論などいろいろな文体で構成される。「現代においてパロディによる『ドン・キホーテ』的な突破はいかに可能か」という試みが中心にあり、とりわけ終盤、セルバンテス(?)との会話の中でセルバンテスに「あなたが後続に文句をつける権利はない」と突きつけるくだりは面白い。

読みながらまず連想したのは小島信夫の『美濃』で、小島も『ドン・キホーテ』に深い関心を寄せた作家だったからいろいろなところでセルバンテスについては触れている。1981年刊のこの小説は当初エッセイとして始まったが途中で小説になったもので、「古田信次」という作者をモデルにした人物についての私小説を書く小島、という体裁で進行していくのだが両者の区別はユルユルで、「別に古田という人物を出さなくても良かったんじゃないか」というようなツッコミを随所で誘うわかりにくいユーモアを全体的に発しつつ、「小島が危篤状態になったので弟子である私がこの小説を完成させる」と急に代作者まで出てき、「お前誰やねん」という感じで終わる。『美濃』を読んだ時は『ドン・キホーテ』については特に連想しなかったが、『ドン・キホーテの末裔』を読むとなぜか『美濃』を連想した。
『末裔』の語り手は作中のあちこちでパロディ論を述べる。私自身は後藤明生小島信夫などを読んできてパロディ論というのは嫌いではないどころか考え方の中心にあるのだが、世間的にはやはりパロディという方法論はなかなか蔑視されるところもあるのかもしれない。実際、パロディというものには大きな罠も潜んでおり、陥る人間も少なくない。(私は「パロディ」という言い方はあんまり好きくなくて、後藤的に「模倣」と言いたい)
偶然だが本作品連載中の2006年に小島信夫は亡くなった。『末裔』はそうした小島や後藤の後にやってきた作品として、彼らに比べるとだいぶ整理・洗練されていて非常に読みやすく、わかりにくいところは少ない。だからラストはちと物足りない気持ちもあった(とはいえその伏線回収は面白かった……叙述トリックと言えるかもしれない)。
最後に、もう一つ思いついたことを書いてこの記事を終わろう。晩年の小島や中井英夫は、どう見ても身辺雑記としか思えない作品を「小説」と銘打って(もちろん単なる書き散らしではなく語りの技巧は発揮されている)雑誌掲載したことがあった。あるいは逆に、随筆体であったり私小説ふうに始まってどう見てもフィクションとしか思えない出来事が混じってくるタイプの作品もより一般的に広く書かれている。私はどちらもたいへん好きなのだが、これはなぜなのだろう。思うに、「どう見ても非小説(あるいは小説)であるのに、小説(あるいは非小説)であると言い張っている」という、「言い張ることの力」があるのではないか。前にメモした「これはミステリではない」という呪文にも通じるところがあるかもしれない。どう見てもAであるものを、にも関わらず、Bとして眺める。この時、対象から立ち上がるイメージは二重化する。これはまさにドン・キホーテ自身がやっていたことだ。正気と狂気の、虚と実の境に立つことだ。そこにどうも秘密があるのではないか?
 

カズオ・イシグロの第二作『浮世の画家』(An Artist of the Floating World、1986年/ハヤカワepi文庫)を読んだ。イシグロ作品を読んだのは『夜想曲集』以来二つ目。舞台は1948年から1950年にかけての日本。語り手は大戦中に戦意高揚絵画を描いてかなりの地位までのぼりつめたが戦後すぐ引退した小野という画家で、次女の見合い話に自分の過去の行為が影響しないかヤキモキする、というのが大筋である。彼がなんのためにこの話を語っているのかは不明だが、回想録ふうな進み方で、現在時(戦後の日常)と過去の記憶(幼少時から画家として大成するまでのいきさつ)とを行ったり来たりする。
作者は小津安二郎成瀬巳喜男の映画が好みらしく、見合い話を中心とした話の進め方や家庭の描写は確かに共通する雰囲気があり、しっかりした技術で書かれているので、凄く巧い。いやらしいくらい巧い。しかし作者が幼少時に日本を離れたという先入観ゆえだろうか、実際の日本とはどこか違うのではないかという浮遊感もある。
イシグロといえば信頼出来ない語り手による一人称――といわれる。今回の語り手はもう、めちゃくちゃイヤな奴である。自分は頑迷ではないとか、自慢はしたくないとか、他人が自分をどう思っているかは気にしないなどと、度量の広い人間であることを繰り返し述べつつ、実際はそうではないことがよくわかる。周囲の人間が彼に対し感じているであろうイライラぶりもビシビシ伝わってくる。彼のそうした「語りたいこと(=彼が意識的に描いた自画像)」と「語られていること(=自画像から無意識的に漏れ出てくるズレ)」との乖離、ダブルイメージが本書の読みどころということになるのだろう。その点は教科書的なくらい見事に書かれている。
その乖離は端的にいって、会話文と地の文とのズレに表れている。現在時の会話文はそのまま切り取ってきたように即物描写的であり、「現実」とのズレは比較的少ない。それを地の文で取り囲み言い訳し装飾し解釈していくというのが、本作の基本的なスタイルである(回想場面での会話は自身言及しているように、より都合の良い脚色が施される)。したがって現在時の場面では会話文(=他者性)と地の文(=自意識)との間に常に強い緊張関係が見られ、そこにおいて表れる語り手の無意識に、読者は彼の性格を読み取ることができる。会話文の後、その対話が指す意味について地の文に主人公が連ねた解釈に感じる、「いや、そうじゃないだろ」「さっき地の文で言ってたことと違うだろ」という違和感が蓄積されることで、物語は推進していく。
しかしこうした乖離について、語り手自身も実際は頭の隅では気づいている。それは物語の核心部分、かつての弟子への裏切りと(最初から読んでくると唖然とする)、かつての自分の作品についての記述がクライマックス直前に置かれることにも表れている。つまり、何も気にしていないふうの好々爺を装いつつ、恥部については言いたくないからこそ後回しにされる。そこに登場する彼の画風は、説明を読むだけでもどうしようもないほど悲惨である。戦後の視線からすれば、彼にとっても直視したくないほど酷いクズだったに違いない(戦後に孫が作品を見たいと言うが、全部しまってあるとかで一枚も取り出されない)。しかし、一時はそれを正しいと信じ、本気(マジ)で追究しようとしたのだ。この戦前/戦後という視線の乖離と、自分は無縁であると言うことは難しい。
記号(会話文・絵画)は何も変わらない。記号の持つ意味を変えるのは、それを眺める者の意識である。なぜ同じ記号を眺めながら、違う意味を、時には正反対の意味を読み取ってしまうのだろう。戦意高揚画は、戦中には誇るべきものだった。しかし戦後にあっては、唾棄すべきゴミでしかない。語り手の子供世代(長女の婿)は語り手に激しい敵意を向けるが、現在の我々は、戦中に一般的だったであろう心情を、真逆の側から単に断罪し切り捨てるだけでは済まないことも知っている。『浮世の画家』のこうした構図は、二重三重に仕掛けられながらしかし非常にクリアーだ。実際に戦争をくぐり抜けた作家が書けば、もっと混沌としているようにおもう。そして朝鮮戦争がもうすぐ始まる、というところで小説は終わる。
終盤に、ちょっとしたどんでん返しがある。これによって、全体の辻褄が合わなくなってしまったのではないかと私はおもう(あれだけ高い地位にあったなら、受ける処罰が軽すぎる)。先にも書いたように、今作の語り手はめちゃくちゃイヤな奴である。自己欺瞞的で、嫌味たらしく、深いところがなんにもない。あまり深く付き合いたいとは思わせない。だがこういう人物は、今でもそのへんに掃いて捨てるほどいるのではないか、例えばそう――これを読んでいる自分なんか。そんな親近感を植え付けられるためか、読者(特に日本の)の中で語り手の小野を一方的に断罪する人は少ないだろうし、また、どんでん返しの瑕疵(?)を突いて本作を批判することもなんとなくしにくい。
まあ何が言いたいかといえば、一番の悪人はカズオ・イシグロなのだ。

 

浮世の画家 (ハヤカワepi文庫)

浮世の画家 (ハヤカワepi文庫)

 

 

 

一、二、三、そして〈遊ぶ〉ことの奥義――『殊能将之未発表短篇集』(4)

(承前)

夢と現実のはざまに生きる者だけが、真摯に夢を、現実を生きようとするのだ。(「空耳通信1 押井守あるいは半分は予感でしかない通信」/『Before mercy snow』所収)
単なる三人称でも一人称でもない、その二つの「はざまに生きる」言葉について考えてみよう。
「ディック自身は遊ばないんだな」という躓きは、なまなかのものではない。なぜならディックの『暗闇のスキャナー』という小説は、その意味においては凄まじい作品だから。
刊行は1977年だが、作品の舞台は1994年。カリフォルニアでは物質Dというドラッグが流行しており、主人公の捜査官フレッドはアークターという売人の監視を命じられる。アークターは複数のジャンキー仲間と住んでおり、その家に監視装置(スキャナー)が設置される。しかしアークターとは実はフレッドの囮捜査官としての別名である。かくしてフレッドは自分自身を監視しながら、敵にも味方にも仕掛けられた罠を探るうち、中毒症状が悪化の一途を辿る。この小説はディック自身のドラッグ体験を反映しているとされ、友人をモデルにした登場人物たちの哀切さと悲惨さを伝えて衝撃的である。
田波青年が引用した〈なにかべつの遊び方でかれらみんなをふたたび遊ばせ、楽しい思いを味わわせてあげたい〉という言葉は、「作者のノート」のラスト一文であり、その前には次のような言葉が連なっている(以下、飯田隆昭訳、サンリオSF文庫版、1980年より)。
もし、なんらかの〈罪〉があるとすれば、それはこうした人びとがいつまでも楽しく時を過ごそうと願ったことであり、それがために罰せられたのです。だが、たとえそうであったにしても、その罰たるやあまりにもひどかったと思います。で、わたしはそれをギリシア的に、あるいは道徳的には中立の単なる科学として決定的な因果関係としてむしろ考えたいと感じるのです。わたしはかれらすべてを愛していました。わが愛を捧げる人びとのリストをここに掲げます。
ゲイリーン 死亡
レイ 死亡
フランシー 不治の精神病
キャシー 不治の脳障害
ジム 死亡
ヴァル 不治の重度脳障害
ナンシー 不治の精神病
ジョアン 不治の脳障害
マレン 死亡
ニック 死亡
テリー 死亡
デニス 死亡
フィル 不治の膵臓障害
スー 不治の血管障害
ジェリー 不治の精神病および血管障害
 ……等々。
 ここに哀悼の意を表します。かれらはわたしの同志でした。これほどすばらしい同志はいません。かれらはわたしの心に残っています。そしてわたしは敵をけっして許しはしません。〈敵〉とは遊び方を誤ったことです。なにかべつの遊び方でかれらみんなをふたたび遊ばせ、楽しい思いを味わわせてあげたい。

このサンリオ文庫版の解説で、山田弘美(のちの川上弘美)は、ディックのインタビューを引用している。

——僕は、この作品を書いているあいだじゅう悲しくてたまらなかった。ゲラ校正を二週間前にやった時も、悲しくてたまらなかった。ゲラ校正が終わってから、二日間泣き続けた。この物語を読み返すたびに、僕は涙を流してしまうのだ。
作品を取り巻くこうした言葉の数々は重い。にも関わらず、「ディック自身は遊ばないんだな」と微妙な間隙を田波氏は指摘する。この小説は確かに、「memo」の作者が好みそうな一編だ。追う者と追われる者の同化/分裂。ストーリーを停滞させる馬鹿話にまみれた日常の対話。そうした対話をテレビモニターで監視しながらのツッコミ。その裏に張り付いた、精神がしだいに変容してゆくことへの恐れ。こうした手法のいくつかは、『ハサミ男』の執筆の際に参考にしたのではないかとすら思わせる。いやもう一つ、さらに重要なのは、友人を作中に登場させる、という点だろう。これは『美濃牛』を思い出させる。
ハサミ男の秘密の日記」を読むと『美濃牛』の執筆は、1999年4月には開始されていた。つまり、デビュー前からすでに着手していた『ハサミ男』『美濃牛』では、どちらも主要人物のモデルに「田波正」の友人が当てられているのだ。古い友人を作中に出演させたり、実体験をエピソードに流用したり、それによって「見聞きしたことしか書けない」と評されたり。実はそれらのすべては、「夢と現実のはざまに生きる」=「遊ぶ」の実践だったのではなかろうか。そして、「田波正」から「殊能将之」が誕生するにあたっては、「なにかべつの遊び方」で「かれらみんなとふたたび遊び」きるという唱和の力、他者からの力を借りることを必要としたのではないか?
完全に偶然でしかないのだが、『未発表短篇集』には三つの短篇とともに、「ハサミ男の秘密の日記」という元は私信だったものが収められている。しかし短篇とレイアウト上の区別がまったくない以上、「秘密の日記」は小説として読むこともできる。このことについてちょっと深読みをしてみよう。
先にジョルジュ・ペレックの未完の遺作『53 Jours』についての評を引用したが、同じ項のその前にはこういう言葉もあった。(「reading」2006年7月24日)
『「五十三日間」』は未完の作品なのだ。完成させる前、1982年にペレックは癌で亡くなった。
 読んでいくうちに、だんだん本作が未完であることが必然であるように思えてくる。「タイプ原稿はここで終わっている」というただし書きさえ、作者が意図的に挿入したかのように感じられる。事実でも真相でもないことはまちがいないのに、メタ作者の存在がほのかに見えてくる。
 このあり得ないメタ作者を神様とか、運命とか、ペレックの才能と呼ぶこともできるだろう。わたしにはなにかよくわからない。ただ、手元に『「五十三日間」』という書物があり、その書物が他の多くの書物につながっていることだけは事実だ、とぼんやり思うだけだ。
All morning, an inexplicable intuition has been nagging at my mind: that the truth I am after is not in the book, but between the books. That may sound senseless, but I know what I mean: that you have to read the differences, you have to read between the books, in the way you read "between the lines".
 午前中ずっと、説明しがたい直感が頭につきまとった。探し求める真実は書物の中ではなく、書物の間にあるのだ。たわごとに聞こえるかもしれないが、わたしにはわかる。違いを読まなければならない、書物の間を読まなければならない、「行間」を読むように。
「精霊もどし」の最終ページをめくると、〈死後の世界なんて、あるわけがないでしょう。あたしが言うんですから、信用してください。〉というラスト二行の戦慄的な台詞が目に入る。この言葉はどういう意味なのか。
ここから、私の推測はいささか妄想的な領域に入り込む。
「死後の世界なんて、あるわけがないでしょう」という台詞は、死者・真知子のものである以上、作中において「死後の世界」は「この世界」と別にあるのではなく、「この世界」そのものであるのだとも読める。考えてみれば、――『黒い仏』においても、『キマイラの新しい城』においても、フィクションの世界は「現実」と別にあるのではなく、連続するものとしてあった。そこにあるのは、見える者/見えない者という「ズレ」の非対称性であって、両者とも同じ世界にいることには違いがない。『鏡の中は日曜日』においてもまた、石動がフィクションとして考えていた「名探偵・水城優臣」の世界は、石動の「現実」と連続するものだった。殊能ワールドとは、そうした混淆が起こってゆく場所なのだ。
『鏡の中』では一箇所、作者らしき人物が登場する場面がある。石動がかつての事件関係者の一人で文芸評論家の柴沼を訪ねて文学賞のパーティにホテルークラへ赴く場面。
「受賞者のやつ、へらへら笑いながら、ぼくのそばにすりよってきたな。先生のファンなんです、先生のご高著は全部拝読してます、と言ってね。ぼくに取り入りたいらしい。フェミニスト・サイコスリラーで人間の心の闇を鋭く描ききった俊英が、あんな俗物でいいのかね」
「その方、確か、謎の覆面作家と言われてる人ですね。いっさい顔写真を出さないことで有名な……」
 石動は少し興味を覚えて、そう訊ねた。
「確かに写真は断ってたな。でも、顔を出さないのは、話題づくりのための計算だよ。編集者の入れ知恵じゃないか。新人のくせして、世慣れたもんだ。あるいは、よほどルックスに自信がないのかもしれない」
もちろん実際には、2001年7月7日に殊能将之がなんらかの賞を受けた訳ではない。メフィスト賞の授賞式というのは行なわれない(しかも年代は2001年だからデビューの1999年とはズレる)し、『美濃牛』は第一回本格ミステリ大賞の候補になったが式は6月だし会場もホテルオークラではない。なぜ作者はこのようなことを書いたのだろう。もう一編、小説外に重要なテクストがある。文庫化の際『IN★POCKET』2005年6月号に掲載した「殊能将之に抗議する 鮎井郁介(殊能将之)」である。ここにおいて、作中人物・鮎井郁介は『梵貝荘事件』の扱いに関し、殊能将之に抗議した……とある。しかし『鏡の中』で鮎井郁介なる人物は2001年に死んだはずなのだから、文庫化に抗議できるわけがない。当然ながらこのコラムも鮎井のフリをした殊能筆によるものと、常識的には考えられている。しかしもしそれを真面目に受け取り、「死後の世界なんて、あるわけがないでしょう」という言葉と突き合わせるならば、作者と作中人物の会話は作品の持つ論理において不可能ではなくなる。
そして、〈なにしろ、磯君は『ハサミ男』の主人公だからね〉という言葉。この一編を読む大方の読者は、すでに『ハサミ男』を読み終えているだろうから、1999年当時の手紙の唯一の読み手=磯君の驚愕を、まるでオイディプス王の姿を見るように想像することができる。「ハサミ男の秘密の日記」というタイトルは、作者が自分自身を「ハサミ男」に重ね合わせるかのようだ。
しかし、「罠」はそれだけでは終わらなかった。
〈なにしろ、磯君は『ハサミ男』の主人公だからね〉という言葉で、作者は古い友人たちを作中へ招き入れた。それによって、「殊能将之」は誕生した。以降、小説の外においては公式サイトをクラブのようにして、無数の読み手を日夜「秘密」の共有関係に巻き込む。内においては、複数のフィクション世界を混淆させ、リアルな現代日本の風俗という「現実」を相対化する。そうした二重戦略を実践した。
そして「ハサミ男の秘密の日記」が短篇と変わりないレイアウトで並列され一冊の本として公刊されるということは、その作中世界にはもちろん、わたしも、あなたも、彼女も含まれている。〈なにしろ、磯君は『ハサミ男』の主人公だからね〉という結末にたどり着いた瞬間、虚実は裏返る。ノコノコとこの本に吸い寄せられてやってきた無数の読み手たちは皆、アリスが穴を通り抜けるようにその他の小説群とも連続して、殊能ワールドの住人となってしまう。これこそが、最後の罠だった――作者の手を離れても作動するよう、「あり得ないメタ作者」あるいは「運命」、「才能」が仕掛けた。
 まったく無害に思えたのですね。これまでのページには、どんな確かな原理も含まれず、どんな教義も広めず、どんな信念も侵害しない、と……。
 しかし、槌は振り下ろされ、もはやすべては遅すぎるのです。
 皆様にお伝えしましょう。罪はいずこにあったのか?
 皆様の罪です。
 皆様はわたくしたちに耳を傾け、この場にとどまり、「印」をごらんになりました。
 いまや皆様はわたくしたちのもの、あるいは、呪文は逆向きにもつづられ、わたくしたちは皆様のもの……永遠に。(James Blish“More Light”より『黄衣の王』第二幕、殊能将之訳/『黒い仏』)
(つづく)という言葉が、アルファにしてオメガだ。一、二、三。三、二、一。

……どうやら私は、妄想を逞しくしすぎたようだ。しかしタワゴトと思われてもいい、こうした読みも可能ではないかということを単に、あなたに伝えたかっただけなのだ。
最後に、1999年当時の状況を整理して、この長すぎた駄文を締めくくることにしよう。(つづく)

一、二、三、そして〈遊ぶ〉ことの奥義――『殊能将之未発表短篇集』(3)

承前

かつて『Before mercy snow 田波正原稿集』(名古屋大学SF研究会、2013)を読んだ際、私はフィリップ・K・ディックヴァリス』論の次の一節に目が留まった。

たったひとつの言葉が気にかかる。本は『暗闇のスキャナー』、「作者のノート」。
「なにかべつの遊び方でかれらみんなをふたたび遊ばせ、楽しい思いを味わわせてあげたい」。
これを読んで、ああ、ディック自身は遊ばないんだな、と、ふと思った。「かれらみんなとふたたび遊び」ではないのだ。「遊ぶ」のではなく、「遊ばせる」こと。おそらく傷つきやすい、エゴイスティックな、ナルシスティックな魂がここに見られる。ディックは「遊ばせる」者、つまり神を希求した。いや、神になろうとした。
しかし旧約の神だけが神ではたい。神とはむしろ「遊ぶ」者ではなかろうか。(「ヴァリス狩り」)

そこを引用し、いろいろ述べた上で私はこう書いた。

言葉=論理によってフィクションの論理を貫徹し、他者と遊ぶこと。そうして作品という場に一瞬の〈超越=救済〉を招き寄せること。そのような刹那性を肯定する一方、しかし、SF(に限らないが)にできるのはそれだけのことだという不完全さに対する苛立ちのような感情もまた、『BMS』には漂っている。

それでは、小説の実作者となるにあたって、〈超越〉という不可能な問題との再対決はいかに行なわれたのだろうか?

 とすれば、田波正から殊能将之が誕生するにあたっての「問題」との再対決の刻印が、この『未発表短篇集』には含まれているはずである。

「ディック自身は遊ばない」という指摘。「イーガンは一人称で書く。しかも、一人称の語り手にどっぷり感情移入して、センチメンタルに書いてしまう」という指摘。では、そのように指し示す者の姿はいったい、どこにあるのか。

その前に少し寄り道を。
一昨年の暮れ、『Before mercy snow』と稲生平太郎『定本 何かが空を飛んでいる』(国書刊行会、2013)を立て続けに読んだ。『BMS』と稲生の表題作はどちらも同人誌に発表されたもので、博識の書き手が趣味の親しい読み手に呼びかける文体に共通したトーンを感じた。
失われたサイト「mercy snow official homepage」に書かれた、小説以外の膨大な文章は、基本的に田波時代からのものと思われる。ここで「memo」2002年10月後半の記述を引用したい。

 なんとなくウォーレン・ジヴォンの2枚組ベスト《I'll Sleep When I'm Dead: An Anthology》をずっと聴いている。いや、追悼ってわけじゃないです。まだ死んでないし、ジヴォンは追悼なんて大っ嫌いだろうから。

 リーフレット収録の自作解説を読んでいたら、「内緒だけど、イギリスの安っぽいテクノのレコードが好き」("my secret fondness for sleazy English techno records")という一節を発見し、ますますジヴォンが好きになった。最近読んだ本のなかに「コンピューターがでっち上げた重低音のリズムが響き、何 を言っているのか聞き取れない呪文のようなラップがそれに被さって、ひっきりなしに音響が渦巻いている」というくだりがあって、この著者とは音楽の話できねえなあ、と思ったから、なおさらである。
 べつに最新のテクノ・ミュージックを理解するジヴォンの感性の新しさを称賛しているわけじゃないよ。テクノから影響を受けたと称する〈Real or Not〉という曲はたんなる駄作で、なんか勘違いしているとしか思えないし。自分が好きで聴いている音楽や読んでいる本や見ている映画が新しいか古いか、 最先端か否か、いまキテるかどうかなんて、どうでもいいじゃん。とにかく「テクノが好き」と語るジヴォンが好き。それだけ。 

 サトシ・トミイエ(富家哲)がどこかのインタヴューで興味深いことを語っていた。

 Masters at Work(という有名なDJチームがニューヨークにいるのだが)の曲を聴きにクラブに行く人はいない。そうじゃなくて、クラブに遊びに行くと、いつもかっこよくて気持ちいい曲がかかっている。それがMasters at Workの曲なのだ。
 この話を「作家性の否定」で、だから「新しい」というふうに受けとってはならない。そういうのは80年代ポストモダニズムの感覚。要するに、かっこよくて気持ちいいことが大切、ということ。いまクラブで流れているのがMasters at Workの楽曲であることを知っているか否かは、どうでもいいのだ。その曲を「気持ちいい」と感じることが大事。もちろん、Masters at Workの曲じゃなくてもいい。ウォーレン・ジヴォンでも、ジョン・ケージでも、コール・ポーターの曲でもいい。「いまどきコール・ポーターを聴くなんてダサイ」と思うやつがいちばんダサイっす。

 「mercy snow official homepage」を訪れていた読者にとって、そこはMasters at Workのいるクラブのようなものだったのではないだろうか。むろんクラブと個人サイトでは「作家性」云々において持つ意味合いは違う。しかし作者の意図としては、どこかにそういうつもりもあったのではないか。そこに行けば、「いつもかっこよくて気持ちいい」言葉があって(しかも日に何度も更新される膨大な量)、たとえ知らない話題であっても、なんとなく楽しめる。少なくとも私はそうだった。十年近く、朝晩の一日二回は見てたものね。〈知人に90年代以降でデイヴィッド・I・マッスンの小説を読んだただひとりの男と呼ばれてしまった〉と始まる「reading」に登場した作品の大部分は、発表数十年を経たオールドタイムなものだったが、それからゼロ年代のSF・ミステリの翻訳状況はクラシック・ブームとも呼ぶべき状況を呈した。何が流行るかは誰にもわからないのだから、ひたすら自分が好きなものを語り続けたら、いつの間にか最新流行になってしまった……というのが「reading」ではないか。つまり、『BMS』に通底していた「論理的であること」の実践といえる。

若島正は『殊能将之読書日記』(講談社、2015)の巻末解説で、次のように書いた。

引用した個所とそっくり同じ個所をしてしまった、という珍事は、不思議を通り越して怖いほどである。こういうときに、わたしは何か殊能氏の一部分と交感したような、幸せな錯覚を起こすのだ。殊能的なるものは、こうしてわたしたち読者を楽しませながら教育して、どんどん増殖していく。しばしば愛読者は、殊能氏のことを「シュノーセンセー」と呼んでいた。彼らは、自分たちの好みが殊能氏によって教育されたことを、心のどこかで自覚していたに違いない。

 奥野健男はかつて太宰治の小説について、直接語りかけるような文体で読者を引きずり込んで離さない「潜在二人称の文学」を唱えたが、「mercy snow」のおしゃべりめいた調子(ジヴォンについての上記引用箇所の「~聴いている」「ないです」「~である」「~じゃないよ」「~いいじゃん」とめまぐるしく移っていく語尾にご注目あれ)の奥にも何かそうしたクールな熱っぽさ、すなわち鍛えられた散文と、それが捕らえる我々の見慣れた(はずの)日常との距離=ズレからたちのぼる詩と批評があった。もちろん向こうは私のことなど何も知らないわけだが、しかしどこか「秘密」を共有したような感覚に読む者は陥ってしまう。

スタジアムライブのような一回性ではなく、クラブの日常性によって感化させてしまう――これは〈遊ぶ〉ことの奥義の一つ。とはいえ、小説外においてだ。ならば小説内では?(続く)

 

殊能将之 未発表短篇集

殊能将之 未発表短篇集