TBCN

襤褸は着ててもロックンロール

『子規全集』(講談社)

(承前)

ハサミ男』の巻末の参考文献はけっこういいかげん、というか、あるいは、おそらくわざと曖昧に書かれている。実際に元にあたろうと思ったら、いくつかハードルがあることは否めない。
 たとえば、

『子規全集』(講談社

 1975年から78年にかけて講談社から刊行された正岡子規の全集は本巻22巻+別巻3巻の計25冊で構成されているため、何巻の何を参考にしたのか? ということがわからない。それは

 

『ハイネ散文作品選集』(松籟社

 や、

『世界文学大事典』(集英社

 なども同様で、実はどちらも全六巻本である。

 さらに厄介なのは、

結城昌治『公園には誰もいない』(講談社文庫)

 で、この小説の講談社文庫版には2バージョンある。すなわち、1974年の文庫版初版と、1991年の改訂新版で、後者では作中の風俗が微妙に改変されているのだが、これだといったいどちらのバージョンなのかが不明になってしまう(どちらかでもいいということか)。
 初版止まりで一つのバージョンしかない本ならともかく、ロングセラーの古典がリストに連なると確かに、どの版でいつ刊行されたものか、それをどう統一的に表記するか、微妙な煩雑さが伴う。しかしともかく、例の「参考文献」にはかなり空白があるといっていい。

 藤野古白(1871-1895)は正岡子規(1867-1902)の従弟(叔母の息子)で、作中では終盤の対決シーン、医師の台詞によって言及される。

「きみね、腹なんか撃ち抜いたって、痛いだけで即死なんかしないよ。映画なんかで、よく銃口をこめかみにあてて自殺するシーンがあるけど、あれもうまく死ねるとはかぎらないらしい。知ってるか?正岡子規の従弟の藤野古白は拳銃自殺したんだが、前頭部に一発、後頭部に一発撃ち込んだあと、四、五日ほど生きていたらしい。明治時代の医療技術でこれだから、現代なら生還できたかもしれないね」

 文学志向のあった古白は生前、俳句のほか小説や戯曲もものした。その死亡時、子規は従軍記者として広島から大陸に旅立つところだった。訃報を聞いた28歳の子規は衝撃を受ける。
 子規の晩年の日記『仰臥漫録』は元々、二冊のスクラップブックに書かれた記述や絵をまとめたもので、その第一冊の最終部に有名な一節がある。脊椎カリエスをわずらい寝たきり(仰臥)状態の子規は、妹と母から介護を受けていた。状態はひどかった。身体に穴が開いていて、毎朝行なわなければならない包帯の取り替え(主に妹が担当した)は文字通り神経に障り、近隣に叫び声が響き渡るほどだった。二人がたまたま外出していたある日(1901年10月13日)、かたわらに刃物を発見して(これがあれば死ねる)と思う。

この家には余一人となったのである 余は左向に寐たまま前の硯箱を見ると四、五本の禿筆一本の験温器の外に二寸ばかりの鈍い小刀と二寸ばかりの千枚通しの錐とはしかも筆の上にあらわれて居る さなくとも時々起ろうとする自殺熱はむらむらと起って来た 実は電信文を書くときにはやちらとしていたのだ

以下、煩悶が二頁分ほど続き、

心の中は取ろうと取るまいとの二つが戦って居る 考えて居る内にしゃくりあげて泣き出した その内母は帰って来られた

 結局未遂に終わって助かるのだが、そのことをふりかえって仰臥したまま自分一人の秘密の日記にねちねちと書き連ねる子規の筆(確か誰か「しりとりのような思考」と評していた)には異様な迫力がある。この場面には小刀と錐の自筆絵も添えられている。

f:id:kkkbest:20180207154905j:plain

 この「古白曰来」の「古白」が、先述の従弟。しかしこの日記には彼についての記述は他に一カ所もない。だから読者は、別の本を読まなければ古白とは誰なのかわからない。実際は子規にとってフシギな距離感の人物であったらしい。古白の死去から二年後、子規が編集した『古白遺稿』を読むとそう思う。同書を収録した講談社版全集第20巻に付された参考資料中、河東碧梧桐の書簡が最期の日の様子を伝えている。

明治28(1895)年4月14日子規宛碧梧桐書簡
長々の御無音御海容被下度候 扨て此度古白子の珍事につきてハ嘸かし御吃驚の事と奉推察候(……)
(4月7日)音きこえけり 此度は小供も共に朝飯をくひ居られければ何やらんとていそぎ古白子の部屋に入りて見玉ひしに古白子ハ左手にピストルをもち寝衣臥褥皆汗血にまみれ殆んど死状を呈し居たり 皆々事の意外に驚き直ちに警察へ届け(……)是より先町医堀沢とかいふ人来り一応疵口(眉間に一つ、後頭ぢぢんこあたりに一つ)に姑息の手あてしたりしが入院後(入院の手続など凡て内藤先生の尽力による)当直医も亦た血どめ位の手あてにてやみぬ(……)
小生と高浜ハ最初より毎日夜伽に参り居候ひしが十日の夜より手足の運動漸く弱はり煩悶よりは安眠の時間長くなりたるの感あり 十一日の夜二時頃より寝て朝七時起きて見しに昨夜よりは又瓦羅離と変りたるの思ひあり 色漸く両眼瞼に下りし血液色黒く紫となりて瞳孔の動きようよう鈍く口も閉づる事能はざるに到れり 医師も亦其危篤を告ぐ 乃ち急に人を走せて諸人を呼び来りしが十二日の午後二時終に溘然として逝きぬ(……)

 碧梧桐から報せを受けた当時の心境を、子規は『古白遺稿』にこう記す。

余は明治廿八年三月三日(古白の死に先つ一ケ月)を以て東都を発し軍に従はんとす。前夜古白は余の寓に来り余のために行李を理す。挙動快活なり。翌日手を新橋に分ちて余は広島に赴く。広嶋に居ること一ケ月明日早旦を以て発せんといふ其前夜古白危篤の報あり。意外の凶報に驚きたりといへども、孤剣飄然去つて山海関の激戦を見んとする余の意気込は未だ余をして泣かしむるに至らざりき。金州の舎営に在りて訃に接したる時も、只仕方無しと思ひたるのみ。戦は平和に帰し余は病を獲て還る。神戸病院に養ふこと二ケ月、はかなき命を辛く取りとめて身は衰弱の極度に在る時、碧梧桐は余のために古白病中の状況を詳に話しぬ。其後は傍に人無き折々古白の事を想ひ出だしては我身にくらべて泣きたる事あり。骨と皮とをのみ余したる我身の猶涙の源尽きざるを怪みぬ。病やや癒えて郷里に帰り始めて古白の墓に謁でしは同じ年の秋の初なり。惘然として佇むこと少時、
  我死なで汝生きもせで秋の風
後東都に帰りて複褥に臥す。さめざめと雨ふる夜の淋しさに或は古白を思ふことあり。古白の上はわが上とのみ覚えて、古白は何処に我を待つらんといと心細し。(……)彼は自ら文学者を以て任じ余等には劣らじと誇りながら、生存競争に於て余に負けたるは古白の長く恨を抱く所ならん。されども余も永く勝を制する者ならじ。

 古白本名藤野潔(きよむ)という人は気難しかったようで、同文中で子規は、幼い頃から孤独癖が強かった、とか、勤め人に向いてなかった、とか、アイツの俳句も最初は良かったけど後でダメになった、とか、大文学者になるとか言ってたのに一作書いて反応がなかったくらいで弱気になっちゃった、とか、オレが活躍するのを妬んで生きるのがイヤになっちゃったんじゃないかなまあオレも先は長くないけど、などと、わりあい冷徹に書いている。手加減のなさも含めて愛情なのだなあと思わされる。同書巻末に収めた哀悼詩「古白の墓に詣づ」では、

何故汝は世を捨てし
 浮世は汝を捨てざるに
 我等は汝を捨てざるに
汝は我を捨てにけり(……)

 古白の厭世の理由についてはいくつか説があるようだが、その従弟(古白の父の兄の息子)の服部嘉香という人は、「〔古白の自殺の原因〕」(同20巻)で、恋愛問題が大きかったとしている。

早稲田文学」に発表した苦心の戯曲「人柱築島由来」が思いの外に反響がなく、ひどく失望しました上に、実は恋愛問題が非常に大きかったのですね。その失恋問題があまり表われておりませんのです。しかも、失恋の相手が叔母なんですね。叔母ですから結婚はできない、それに煩悶があったのです。古白の母の十重は古白七歳の時に死亡しましたが、妹の五つになる琴というのもおりますので、父の漸は京都の士族栗生家から後妻に十四歳も若いいそを迎えましたが、その妹のすみというのが古白の恋人なのです。(……)複雑な家庭の事情があったかと、暗にまま母であるということのせいではないかと、そういうほのめかし方、論じ方をする向もあるのでありますが、これは絶対にそういう気配は私たちの見る範囲においてはありませんでした。

 ……きりがないので、このへんでやめておく。

 あらためて上の場面を読み返してみる。古白が来いといっている。この「古白曰来」という四字は以来、『仰臥漫録』の読者にとって印象的な有名なフレーズとなる。

 子規の死去はそれから一年半後、1902年9月19日。「古白曰来」からさらにいたる心境は、亡くなる二日前まで連載していた随筆『病牀六尺』に特に詳しい。

ピエール=ルイ・マチユ『象徴派世代』(窪田般彌訳、リブロポート)

 同人誌の感想はいくつかいただいたんですが、nemanocさんの
〈孔田さんは(……)必要な文献をていねいにあたり、フィードバックして、複雑な殊能世界をときほぐしていきました。〉
 という過分な言を目にして、そういえば参考文献について、スペースの関係でいくつか書き漏らしたことがあるなと思ったので、思い出せるうちに記しておくことにします。

 ピエール=ルイ・マチユ『象徴派世代 1870-1910』(窪田般彌訳、リブロポート、1995)はいわゆる「象徴派」について主に美術の面から解説した本で、大判正方形200頁強の書物はさながら画集の趣きを持つ。
ハサミ男』作中、ミートパイが何度か登場する店として印象を残す喫茶店「おふらんど」についてこういう記述がある。

(第「17」節――久しぶりに喫茶店を訪れた場面)
壁には写真複製の絵画が数点飾られていた。わたしは美術にはうといので、誰のなんという絵かは知らない。
 遠目に一枚の絵を見やると、紗がかかったような色調で、雪山に横たわった女性が描かれているようだった。眠っているのか、死んでいるのか、両目をつぶっている。雪山遭難を描いた絵なのだろうか。それにしては、女性の衣服が薄着すぎるように思えた。

 ここで「わたし」は〈誰のなんという絵かは知らない〉と述べるのだが、由紀子との夢の語らいでは、

(第「20」節――夢の場)
 ねえ、食べないの?
 食べるさ。ここのミートパイは絶品だ。店主が勧めるだけのことはある。
 不思議な絵ね。彼女は自分のミートパイには手をつけずに、壁の複製画をながめていた。
 雪山のなか、女の人があおむけになって、宙に浮かんでいる。いったい、なんの絵かしら。
 ジョヴァンニ・セガンティーニの「淫蕩の罪」だ、とわたしは解説した。十九世紀末の象徴主義の画家だよ。彼はイタリアに生まれ、インドにあこがれ、スイスの高山にこもり、山小屋で若くして死んだ。このコレクションから察するに、どうやら、店主は象徴主義がお好きらしいね。

 ここでいうジョヴァンニ・セガンティーニの「淫蕩の罪(涅槃のプリマ)」はこういう絵。

f:id:kkkbest:20180207161955j:plain

 リアルな雪山を背景に、宙に浮かんだまま眠る二人の女性がファンタスティックかつ異様な印象を与える(「堕胎の罪」を表しているのだという)。

 ジョヴァンニ・セガンティーニ(Giovanni Segantini、1858-1899)はイタリアの画家で、アルプス山脈を斬新に描いた数々の作品で知られる。『象徴派世代』ではこう書かれている(少し長くなりますが……)。

ジョヴァンニ・セガンティーニ「邪淫の懲罰」
 画家はインドのバンジャービー語の詩篇から着想を得たこの主題に、数点の油絵を寄せている。《はるかの高み、青みがかった無限の空間のなかに、涅槃が光り輝いている……かくして邪悪な母は、一本の枝も緑とならず、一輪の花も咲かない、永遠の氷に鉛色となった谷で、たえず転がりまわる……あの女を見よ、一枚の葉さながら、不安げにさまよう。そして、彼女の苦悩のまわりでは、一切が沈黙している》。

「エンガディンでの死――ジョヴァンニ・セガンティーニ
 画家ジョヴァンニ・セガンティーニ(1858-1899)は、悲惨主義小説の主人公となりえたかもしれない。ごく幼少のときに孤児となり、殆んど無学文盲であったが、それでも何とかブレラ・アカデミーの講義を受けられるようになり、その画業の当初からヴィットーレ・グリュビチに注目された。(……)
 当時からすでに一種の伝説に包まれていた彼の生涯と作品は、一人の画家を扱った、ごく初期の精神分析研究の対象となった。フロイト側近の弟子の一人カール・アブラハム博士は、たえず死の観念に取りつかれていた人間における一種の自殺願望を、この夭折にはっきりと認めている。
 芸術家はミレーの影響を受けて画業にふみだしたが、主題の感傷的レアリスム(羊飼いや羊の群れ、農民生活の風景)によってだけでなく、様式からも、彼はこの高名なバルビゾン派の画家に近い。隠れ家のなかで、セガンティーニは非常な教養をつんだが、こうして1891年以後、ニーチェ――彼は『ツァラトゥストラはかく語りき』のイタリア語版に挿絵を描きさえもした――や、その根本のペシミズムが彼の深部の自我と通じあうものがあったショーペンハウアーの著作を発見した。ショーペンハウアーを読んだことで、彼は輪廻を信じ、インド文学に霊感源を求めるようになった。1893年に彼はこう書いている。《そう、真の生活は唯一つの夢にすぎない。可能な限り遠くにあって、高められ、物質の消滅にまで高められた理想へと、次第に近づいていく夢である》。
 こうした瞑想から、1891年から1897年にかけて、邪悪な母たちの運命を想起させる一連の作品(初版「邪淫の懲罰」)が生み出された。このなかで芸術家は、母性よりも邪淫を選んだ女たちに運命づけられた刑罰を、いささか、ダンテ『地獄篇』風に描写している「バンジャービー文学」のインド詩篇の数節――氷の広大な空間の永遠の彷徨――を絵としている。奇妙な主題に加えて、セガンティーニはこれらの油絵において、技法上の非常な独創性を発揮したが、それは分割技法のタッチにだけではなく、万年雪のなかで風景を写生するように彼をかり立てたその根源的な自然主義に帰するべきである。このような作品の深層の意味に関しては、カール・アブラハムが、若きセガンティーニの自分自身の母親に対する無意識的な抑圧の表現であると、正当な解釈を下した。

 小説の夢の場面では、セガンティーニへの言及の後、次のように続く。

〈おふらんど〉という店名も、ポール・ヴァレリーの「消えた葡萄酒」の一節からとったのかもしれない。
 わたしは少し考えた。あるいは、ミステリファンなのかな。同じ一節から題名をとった、有名なミステリがあるから。
 あなたって博識なのね。彼女は笑った。

 このポール・ヴァレリーの「消えた葡萄酒」に絡めて言及される「ミステリ」とは、もちろん中井英夫の『虚無への供物』を指す。
 Paul ValéryのLe Vin perdu第一連を引こう。

J'ai, quelqe jour, dans l'Océan,
(Mais je ne sais plus sous quels cieux),
Jeté comme offrande au néant,
Tout un peu de vin précieux...

  すなわち、「おふらんど」とはoffrande(ささげもの)の意で、「虚無への供物(offrande au néant)」をひらがな表記すれば、さしずめ「おふらんど・お・ねおん」などとなるだろう。

「ひとつだけ質問していいですか」

「なんでしょうか 」

「〈おふらんど 〉って、どういう意味なんですか 。辺鄙な土地、かな」

「なるほど、〈オフ・ランド〉ですか。そういう解釈は初めて聞いたな。はやらない店には、そのほうがふさわしいかもしれない」

 店主は感心したように笑って、

「じつはフランス語なんですよ。〈捧げ物〉という意味です」

 わたしにとって、店主から得た情報は、欲しくもない捧げ物だった。(第「17」節)

「ミートパイ」は「葡萄酒」の対として登場するのだろうか

 磯達雄さんへのインタビューでも申し上げたのだけれど、私は、中井英夫と殊能作品とは微妙な関係があると思っていた。

 (……)中井英夫という作家もこうした作り方をするところがあります。作者本人の志向としては、完璧なフィクションを作りたい。それもコンスタントに発表したい。しかし、いざ書くとなると、どうしても現実的な素材が入り込んでしまう。このあたり、殊能さんと似たものを感じていたところ、この前『BMS』を読み返していたら、冒頭あたりで「私は中井英夫はあんまり好かんので」と仰られていて、おお、と思いました。二人とも若い頃から批評眼が鋭く、大学を中退して編集者になり、ミステリ作家として出発し、詳細な日記をつけ、テレビが大好き。親しいお姉さんもいらっしゃいます。そういった経歴や読み手としての好みは二人とも近いように感じていたんですけれども、作風ないし文体は微妙に(いやかなり?)異なります。

 ここで挙げなかった点がもう一つある。「ユリイカ」1999年12月号での作者インタビューにおいて、

三年間家に籠ってブラブラしていて、暇だから昼のワイドショーをよく観ているんです。去年の八月くらいに、テレビを観ているうちに、『ハサミ男』の話が出来ちゃったんです。出来たと同時に、書き出しや途中やクライマックス、結末まで分っていて、これは完成した、と思ったんです。それでしょうがないから……。

 この「デビュー作の構造を自然に思いついた」という発言は、中井のあの有名な自注を彷彿とさせる。

 昭和三十年一月に鎌倉で太田水穂氏の葬儀があり、「短歌研究」編集長の私はぜひとも出掛けねばならない。当時の鎌倉はひどく遠い所に思えたので、往復の車内で読む本を何にしようかと考えた。結局貸本屋からディクスン・カア『ユダの窓』を借り、楽しく読み進んで行くうち、何とそれ(早川ミステリー)は肝心なトリックの説明部分がそっくり欠けている落丁本だった。私はがっかりもしたが、そこまでは楽しくてならなかったので、自分でそのトリックをあれこれ推理してみた。その中で、いくら何でもこんなお粗末なオチではないだろうなと考えた、そのお粗末が完本を読むとまさに同じだった。
 軀から火を噴くという言葉はあっても、頭から火を噴くことはない。しかしその時の私はまったくそうだった。本当に一瞬の裡に、この長編の隅から隅までが出来上った。(『中井英夫作品集』第10巻、三一書房、1987)

 中井が『ユダの窓』を読んだのは、まだ三十代の始め。『虚無への供物』は完成までに十年を要したが、ほぼ同じ年頃で着想された『ハサミ男』の執筆はもっと短かったようだ。
 また、デビュー作における『虚無への供物』へのささやかな言及といえば、もう一つのつながりをどうしても連想する。『ハサミ男』の作者が実際に目にしていたかどうかは知らないが、おそらく執筆の最中であっただろう、1998年9月にハルキ文庫から復刊された、連城三紀彦『変調二人羽織』巻末の法月綸太郎の解説だ。

サンプリングとカットアップ(コラージュ)を自在に駆使し、さらにリミックスを施したような「変調二人羽織」の破格の構成を掌るキーワードは二つある。伊呂八亭破鶴の売り文句「八方破れでございます」と、狂言回し役の亀山刑事が洩らす「どうやら私は今度も結果の後の人生を生きてしまった」という一行がそれだ。(……)右のように言うのは、具体的には『虚無への供物』のことを指している。新人賞の選考委員に、中井英夫が名をつらねていたせいかもしれないが、「変調二人羽織」の作者は、明らかに黒鳥館主人こと塔晶夫の語り口を意識した書き方を選んでいる。新聞記事や登場人物の地の語りを交えた多彩な話術の妙、二転三転する真相と「解決篇だけの推理小説」という逆説的な言い回し、なかんずくエピローグにそっと書き込まれた「アリョーシャ」という人名――こうした符号が偶然でないとすれば、大晦日の東京の空をいずこへともなく飛び去る一羽の鶴、という映像的な書き出しは、『虚無への供物』の名高いラストシーン、漆黒の翼を震わせて闇へと翔び立つ凶鳥のイメージをネガポジ反転したものと見なすことができるだろう。

 そういえば『ハサミ男』の冒頭でも鷹が飛んでいたなあ(想像の中でだけど)、それに確か当時のメフィスト賞には、『虚無への供物』を文庫化させた宇山日出臣サンがいたはずだし……などと連想してしまうわけですが、まあそこまでいくとコジツケすぎかしら、と思わなくもない。

 この無名の新人のたくらみは、大胆不敵としか言いようがない――中井英夫が自作を「アンチ・ミステリー」と命名することで、「探偵小説の終焉」を宣言したとするなら、連城三紀彦は「最後の探偵小説」が終った地点から、その終りを始まりへと反転させることによって、自らのミステリー作家としての経歴をスタートさせたのだから。そしてこうしたたくらみが一度きりの思いつきではなく、確信犯的な「反復」の意志に裏打ちされていたことは(……)

 終わった場所から始めること。反転と反復――。
『虚無への供物』の刊行は1964年で、殊能と法月がこの世に生まれ出た年でもある。つまり、
 殊能将之(1964年1月19日)
 『虚無への供物』(1964年2月29日)
 法月綸太郎(1964年10月8日)
ハサミ男』の作者は、執筆時にこの解説を意識していたか、否か? もししていたとすれば、どの時点で?(受賞決定後に、あるいは帯文の推薦者が決定した後に書き加えたという可能性もなくはない)……しかし仮にそれが「偶然」に過ぎなかったとしても、その結びつきは、ある種の小説的「必然」として読むことができるとおもう。

ポー、カー、メナール、アルテ

◯ある方の示唆で松田道弘「新カー問答」を読んでいたら、カーが初期のバンコランものでフランス人を探偵役に、パリを舞台にしたことを「エキゾチシズム」と評していたのが印象に残った。というのは少し前に、ボルヘスの文章でポーがデュパンものをパリに設定したことを「エキゾチック」と呼んでいたので。ポーとカーという二人のアメリカ人がフランスをその探偵小説の舞台に設定した理由についてはいくつかの見方があるが(いち早く警察機構が整っていた国だ、いやそれよりも外国だから英語読者にはアラがわかりにくかったのではないか、云々)、「フランス」と「エキゾチック」という語の結びつきは一般的なものなのでしょうか。
ボルヘスの随筆風短篇「『ドン・キホーテ』の作者、ピエール・メナール」で「車輪の再発明」としての長篇執筆をあえて行なう登場人物ピエール・メナールはフランス人だ。短篇の語り手は『ドン・キホーテ』の文体について、17世紀のセルバンテスが書けば当時のスペイン語(母国語)をのびのびと使用しているが、20世紀のピエールが同じように書けばそれはフランス人がスペイン古語(外国語)を無理して使っているのだから同じテクストでも持つ意味合いは異なる、というふうなことを述べる(ボルヘス自身はスペイン/カスティーリャ語母語とするアルゼンチン人)。ここでポーとカーとボルヘスにおいて「フランス人」が共通の扱われ方(エキゾチシズム)がされていることになる。
◯すると私の中ではどうしてもあの有名な「フランス人の勘違い」という評言につながっていく。『殊能将之読書日記』のポール・アルテ評価(「偽物を書くことによって独自性を獲得している」)はピエール・メナール的だから。この辺の、言語と国の関係は重要だとおもう(ちなみに若い頃、ポーはロンドンに、カーはパリに暮らしていたことがある――カーはその後1946年までロンドンで小説を書く等、けっこう移動している)。
新倉俊一『詩人たちの世紀 西脇順三郎エズラ・パウンド』(みすず書房、2003)とボルヘス『無限の言語 初期評論集』(旦敬介訳、国書刊行会、2001)を並行して読んでいたら、西脇順三郎(1894-1982)とボルヘス(1899-1986)の境涯がしぜんと比較されてきて興味ふかかった。すなわち、両者とも若い頃にヨーロッパへ遊学して複数の言語に接したのち、母国へ帰る。文学者のキャリアとして考えると、西脇は日本の詩壇に海外の風をもちこみ、後年、江戸趣味が目立ってくる。ボルヘスは逆に、母国でのナショナリズムの盛り上がりに熱狂し、後年、より普遍的なコスモポリタンな作風へといたる。そこには母国の政治状況も反映しているとおもう(あと二人ともノーベル賞候補うんぬんといわれたとかいうのはまあ、オマケみたいなものですが……)。
◯全然関係ないけど、「新倉俊一」という文学研究者は同時代にお二人いらっしゃるんですね。
 新倉俊一 (フランス文学者。にいくら・しゅんいち。1932-2002)
 新倉俊一 (アメリカ文学者。にいくら・としかず。1930-)
不勉強ながら初めて知りました(『詩人たちの世紀』はもちろん、アメリカ文学者の方のほう)。

フランスとアメリカ。同じ文字でも意味が違う、という、ムリヤリな示唆をいちおう見出しておいて、本日はこれにて。

言葉のデトックス

昨日ぐらいからインターネット上でニガテなタイプの文章に立て続けに出くわしてしまい、アタマの防衛本能なのか、ゾゾゾ―っという拒否感が抜けないので、私自身のデトックスのためにこちらに箇条書きに放置しておくことにします(それぞれの項目は互いに別個の事象で、その間に関係はありません)。というとなんだか不幸の手紙というか、毒物の連鎖みたいですが、まあいちおう先にその旨明記しておくことにして、……。

◯小学生か中学生のころだったか、ちゃれんじを読んでいたら、編集部からのメッセージで「すぐキレることでモテようとする男子がたまにいるけどすぐキレるのはホントは恰好よくない」と書いてあった(たぶん木村拓哉主演の何かのドラマが流行っていた頃)。大人になっても有益なアドバイスだなあとおもう(しかしインターネット上ではしばしば、沸点の低い人がけっこうモテたりする)。
◯ふとしたことから有料記事購入を促すnoteにたどりつき、その冒頭をパラパラ見ていたら、twitter上では日々即マウンティングとも見えるような人物(フォローはしてないけどよく流れてくる)が急にへりくだるトーンになったので、客商売の現実と、レイアウトのキレイなキラキラ感と、テクストの内容のドヤ感のアマルガムが一挙に押し寄せてきて、ウアアアーという感じになってしまった。
◯漫画やアニメやゲームを論じるのにアカデミックな書物をもちだしてくるという所作が一時期流行った(昔からあったのかもしれないが十代までそれが真似できるぐらい2000年代以降流行った。と思う)。論じる対象の面白さを引き出す傍証としてそういうホンをもちだすのは勿論アリだけれど、「偉い人が高い本の中でこれこれこういう頭の良さそうなことを言っている(そしてそれは正しい)」「制作者は気づいていないかもしれないがこの作品には偉い人がいった正しい要素がナントカカントカのかたちで見受けられる」「だからこの作品は○○←結論(そしてそれを指摘できる自分もまた偉い)」というドヤ感が無言の内に透けて見えると、(ダサいなー)と思う。むかし保母大二郎だったかが「ミュージック・マガジン」で使った表現でいうところの「田舎の軽音部がコピーでやるファンタスティック・プラスティック・マシーン」みたいというか。いや田舎の軽音部がファンタスティック・プラスティック・マシーンやっても勿論いいんだけど、その両者が組み合わさった時にはどうしてもあるアトモスフィアーが醸し出されてくるので、そのすかしたアトモスフィアーを逆手に取って独自の表現を編み出すぐらいのことはしてほしい。偉い人がこんなことをいってるんですよ!あなた、それに気づいてないでしょう!じゃあ、僕が仲介してあげましょう!(そんなことに気づいてあげられる自分は名誉偉い人だ!)みたいな構図はなんかこう、いやーな感じがする。しかもそれをアカデミック風(あくまで風)文体でやったりすると最悪である。筒井康隆が「ポスト構造主義による『一杯のかけそば』分析」(『文学部唯野教授のサブ・テキスト』文藝春秋、1990)を書いた頃ならまだギャグとして通用したのかもしれないが(リアルタイムじゃないので知りませんが……)、それ以降になると、内容もパロディ、形式もパロディ、で、戦略としては弱すぎる。本当にその作品を大事に思っているなら、偉い人なんか二番手、三番手だろう。もしその偉い人が同時に大事な人でもあるならば、唯一できることは(そしてそれはもしかしたら最高のことかもしれない)、仲人としての務めを果たすことだろう。
◯30代くらいまでの若い人が書いた小説を読んでいると、たまにどうしてもこう、翻訳文体がしみついているというか、(あらま、ずいぶん新潮クレスト・ブックスと白水社エクス・リブリスと早川SFと国書刊行会で日本語作文のお勉強をなされたのですね)という感じが気になって仕方がなくてツライ、という時がある。さっきのFPMの比喩を引き継いでいうと、なんだろう、大学の軽音サークルのポスト・ロックバンドが作るオリジナル曲(ボーカルレス)のいけすかない感じ、とでもいうか……。もちろん思春期の頃はたいてい、前世代の音楽はキライである。私も民謡やフォークよりはFPMやポスト・ロックの方が好きだった。しかしいざ自分がパフォーマンスする番となると、FPMやポスト・ロックでは別種のダサさが醸し出されてしまう。ある存在が周知された共同体の中でそのフォロワーをやると、どうしてもダサさが自然に生じる。それを避ける道は三つある。1.まったく新しい形式をとること(これは最も難しい)。2.その共同体の中ではマイナーな外部の形式をもちこむこと(しかしこれは外部から見れば田舎のFPMに見える可能性がある)。3.もう一つは、いけすかなさ・ダサさを逆手に取って、外部でも内部でもない独自の胡散臭さにまで昇華させる方法〔しかしどうやって、……)。

以上述べてきたことはすべて、文章の内容には立ち入らない、形式の問題にすぎない。形式の問題もまた、古くて新しい、扱うに現在的な繊細さを要求する問題だ(たとえば最悪の場合これは今トーン・ポリシングと呼ばれる)。
以上のように書き始めた最初は、知らず知らず摂取したそうした毒物をやや乱暴に忘れる――排出するためだったはずなのに、いつの間にか、自分のための覚え書きのようになってしまった。すなわち、そうした繊細さをできるかぎり忘れないために、これを書いてしまったようだ。

たまに「毒吐き注意」と自己紹介欄に書いてしまう人物がいて、そうした所作は世間ではひたすらそっと遠い視線を送られる対象として扱われてしまうわけですが、(しかしそうした方々もやはりあまりにもハードな日常の中で自然と溜まってしまったポイズンを排出せざるを得ないのかもしれない……)と考えると、初めて、寛容的な気持ちになることができ、自分でも驚いた。

一年の計

この前の正月にボルヘスの本をいくつか読んでいたら、様々な想念が去来した。以下はその雑多な念を覚え書きとして書き付けるものである。

 幼い子供に「こんな勉強、して何の意味があるの? 大人になっても使わないでしょ?」と聞かれたらどう答えるか。今の私の実感としては、「それは筋トレだから、やっといた方が良いのだ」という答えが最も腑に落ちる(そう返された子供の方がどう思うのかはわからない)。
 目の前の現実というのは可能的な世界の一面にすぎないのであって、その一面の処理のみに最適化した生存モデルをとると、不測の事態が起こった時(現実の別の一面の顕在化)に対応できない。だから備えとしては、最低限対応できるくらいの広さの筋肉を開発しておいた方が良いとおもう。

 しかしこうした感覚というのは、幼い頃はなかなか腑に落ちない。それはおそらく、幼い頃には、作業量の全体を把握するという経験に乏しいからだと思う。長じれば誰でも、大なり小なり作業に追われている。まず締め切りが設定される。そこから作業量の全体推測があり、作業日程の逆算が始まり、必要なペース配分が割り出される。こうした全体把握(上位階層/マネジメント)ののち、実務(下位階層)にとりかかり、以下、変更の必要に応じて階層移動がくりかえされ、作業は達成される。この時、「目的」は上位階層であり、「手段」は下位階層である。効率的な目的達成のためには、手段は交換可能である。また目的/手段という関係自体も、階層の位置関係によって決定される相対的なものであって、より上位の「目的」にとって、下位の「目的」は「手段」にほかならないから、下位の「目的」もまた必要に応じて交換可能になる。
 誰もが日々、こうした階層移動を意識的無意識的に行うことで何らかの作業を達成しているのだが、上位から下位を眺めた際の全体把握ということはそれを何度か経験しないとなかなかわからない。子供には目の前の現実現在が全てであって、上位も下位もない。なんとなく快いことを続けていたら、いつの間にか作業が終わっていた……そんな砂山のトンネル掘りの贅沢だけでは、資本主義社会においては全員が生きてはゆけないのである。

 大人になったからといっていつでも必要な全体把握(上位移動)が行えるとはかぎらない。大人は時にある一面のみを全体だととりちがえ、それが変更できないことに苦しんでしまう。一般人向けの禅のトレーニングではまず、目の前の現実現在に意識を集中せよ、という。そのことによって雑念・妄執という、「今、ここ」には存在しない、頭の中だけの「ニセの現実」を断ちきるのだ。

 現実現在への集中ということは、そもそも子供の時に誰もががやっていたことだ。なぜそれができなくなるのだろう。それは作業に追われ、仮の全体把握をくりかえすうちに、そうした下位の全体の総量を世界=全体そのものと取り違えてしまう、つまり、ニセの現実にとりつかれてしまうからではないか。

「一年の計は元旦にあり」などという。この時、年頭に立つ人は、年中の自分に対し上位階層、マネジメント的視点に立っている。
  年頭の自分=上位階層
  年中の自分=下位階層
「さー今年は年中の自分(下位階層の自分)を思うさま使役してあんなことやこんなことをやるゾ」などという期待にワクワクと胸をふくらませるが、年中になるとそうした期待はしぼみがちである。それはおそらく、(自分は今、下位階層にいて、ツマラナイことをしている=させられている)と感じるからではないか(もちろん、やってみないとわからない様々な予期しない障害もまた次々とやってくる。それで結局脱線してしまい年末にマネジメント的視点に立った時には「今年の自分は……」などと「後悔」してしまう)。こうした「期待」を持続させるには、「目的」の側から眺めることでそれ自体には意味のうすい「手段」のもつ意味を充填させること、すなわち階層移動が必要になるのではないかとおもう。

 人はなぜフィクションを体験するのだろう。それは体験する時間を現実現在のものとして、つまり目の前の作品内部において起こっていることに意識を集中させて、その体験を楽しむこと自体を第一の目的として楽しみたいからだ。ここには作品の内/外という階層移動があるのだが、体験を二義的なものとして、すなわちこなすべきタスクという手段(下位)として扱うとき、人はその体験から引き出せる楽しみを減じさせてしまう。締め切りがあり、ある小説の書評を書かなければならない。この時、書評執筆は目的(上位)であり、読書は手段(下位)である。さらに、執筆はより上位階層にある「収入」に対する下位手段なのかもしれない。フィクション体験が目的ではなくこうした手段として扱われる時、結局のところそれは下位のもの、交換可能なものでしかないのだから、何らかの「雑念」が入りこんできてもそうおかしくはない。(こうした経験をくぐり抜けた人は「好きなことを仕事にしてはいけない」「初恋の人とは幸せになれない」「他者を手段ではなく目的として扱え」「◯◯ちゃんとは仕事を抜きにしてプライベートで仲良くなりたい」などと口にする)

 いわゆる学習法の本なんかに時々、ドストエフスキーシベリア体験が出てくる。人間にとってもっとも辛いことは無意味な作業をこなすことだ、ゆえに自分で掘った穴を自分で埋める、という労働はもっともつらく、シベリアアウシュヴィッツの収容所ではこうした刑罰が行われた、しかしドストエフスキーはここから出ていつかこのことを書くという目的(上位)のためにこうした作業をこなす自分を下位にあえて引き下げることで過酷な刑罰をのりこえることができた、だから目標をもつことは大切なのだ、……云々。
 穴掘り&穴埋めが楽しくて仕方ないという子供(作業=目的)なら、こうした作業も苦ではない。逆に作業が苦であるなら、何らかの目的の位置から手段に意味が充填されなければツラくて仕方がない。
 すると目の前の苦を乗り越えるには二つのルートがあることになる。一つはそれそのものを目的=楽しみとすること。もう一つはそれを目的のための手段とすること。ただし、この二つの乗り越え方はその苦が避けられ得ない場合に限るのであって、避けられる苦を避けられない苦(現実)と捉えた時、人は逆に「ニセの現実」に捉えられている。

 目的/手段という階層化は、目の前の現実を何らかのかたちで乗り越えるそれ自体仮の手段であって、こうした階層移動(世界内にいながらにして世界外に視点を仮に位置づけ世界全体の総量を測量し、目的と手段を結びつけてゆく技術)を必要とする感覚は、実際にその技術をこなしてみないとわからないということがある。願い(目的)のイメージの仕方にも上手下手があり、それはそうした経験をくぐり抜ける……過去の自分に対して上から目線で批評的距離をとることで、つまり自分を上位と下位に分離する経験によって実感される。で、わかると、現在という将来(上位)の時点から過去(下位)をふりかえって、「もっと時間がある時にあのへんのことを勉強(筋トレ)しておけばよかった……しかし今ではもう、そんな時間は自分には残されていない(だから、同じ轍を踏ませないよう、若いモンには勉強=筋トレせよ、と説教するゾ~)」などと後悔するのだが、しかしこの後悔自体もまたニセの現実である可能性がある。現在もまた過去になれば下位化するからだ。過去の自分は本当に単にボケッとしていたのだろうか。あるいは、現在の自分は本当に余裕などないのだろうか。……そういう疑いは拭いきれない。しかしこれは雑念だろうか。

 ……月初めに考えたことを月末にメモっている時点でいろいろ思うところあるのですが、まあメモらないよりはマシだろうと思い書いてみました。長くなってしまったので、ボルヘスについてはまたいずれ。(ちなみにこれは去年買おうと思っていたポメラ用にflashairを先週買ったので、ポメラで書いて→evernoteに保存→evernoteからはてなアプリで投稿してみたものです。)

『立ち読み会会報誌』第一号(改訂再版)についての情報

『立ち読み会会報誌』第一号の改訂再版についての詳細が固まったので、お知らせします。

表紙は以下の通りです。

f:id:kkkbest:20180111110656j:plain

配色は前回の新訳版『ナイン・ストーリーズ』イメージからガラッと変えて、邪神イメージにしてみました。

また今回は、誤字脱字の修正の他、初版よりも12頁分、情報を追加しています(全160頁→全172頁)。目次は以下の通りです。

【目次】
序 立ち読み宣言
巻頭インタビュー 磯達雄氏に聞く
第〇部 二〇一三年三月三十日~四月三日
第一部 『ハサミ男』を読む
第二部 『美濃牛』を読む
第三部 『黒い仏』を読む
追記 ポー・ラヴクラフト殊能将之
改訂再版のためのボーナストラック
編集後記

初版をすでにご購入いただいた方のために、追加部分の内容をこちらで紹介しようと当初考えていたのですが、チト懸念材料が出てきたため、別の方法を検討しております。スミマセン。(また追って記します)

通販は前回に引き続き、盛林堂さんにお願いしました。

http://seirindousyobou.cart.fc2.com/ca4/365/p-r-s/

この改訂再版は今後、文フリなどでも頒布していくかもしれません(次回の出店は私の余裕的に無理そうなのですが)。

引き続きよろしくお願いします。

 横田創による七年ぶりの新刊は短篇集『落しもの』(書肆汽水域、2018)

『落としもの』横田創 – 書肆汽水域

『埋葬』(2010)以降いくつか書かれていた短篇も「丘の上の動物園」(「すばる」2013年12月号)以来発表がなかったので気になっていたのですが、収録作はいずれも2007~2009年つまり約10年前のものです。

 雑誌に発表されたきりの短篇というのはもちろん2002年以降、それ以外にもかなりあるので、

横田創 - Wikipedia

 収録時期が固まっているのは何か理由があるのかなあ、というのが、興味ふかいところです。(あと近況情報)

 

落としもの

落としもの