TBCN

襤褸は着ててもロックンロール

 急に早川書房の「異色作家短篇集」を読み直すことになったので、こちらに備忘録を書いておくことにする。

 以下は初刊時の作家17人の生没年月日をコピペして年長順に並べ直したもの。

ジェイムズ・サーバー(James Thurber 1894年12月8日 - 1961年11月2日)
ジョン・コリア(John Collier 1901年5月3日 - 1980年4月6日)
マルセル・エイメ(Marcel Aymé 1902年3月29日 - 1967年10月14日)
フレドリック・ブラウン(Fredric William Brown 1906年10月29日 - 1972年3月11日)
ダフネ・デュ・モーリア (Dame Daphne du Maurier 1907年5月13日 - 1989年4月19日)
ジョルジュ・ランジュラン(George Langelaan 1908年1月19日 - 1972年2月9日)
ジャック・フィニイ(Jack Finney 1911年10月2日 - 1995年11月16日)
ロアルド・ダール(Roald Dahl 1916年9月13日 - 1990年11月23日)
スタンリイ・エリン(Stanley Ellin 1916年10月6日 - 1986年7月31日)
シャーリイ・ジャクスン(Shirley Hardie Jackson 1916年12月14日 - 1965年8月8日)
バート・ブロック(Robert Albert Bloch 1917年4月5日 - 1994年9月23日)
シオドア・スタージョン(Theodore Sturgeon 1918年2月26日 - 1985年5月8日)
レイ・ブラッドベリ(Ray Douglas Bradbury 1920年8月22日 - 2012年6月5日)
レイ・ラッセル(Ray Russell 1924年9月4日 - 1999年3月15日)
リチャード・マシスン(Richard Burton Matheson 1926年2月20日 - 2013年6月23日)
ロバート・シェクリイ(Robert Sheckley 1928年7月16日 - 2005年12月9日)
チャールズ・ボーモント(Charles Beaumont 1929年1月2日 - 1967年2月21日)

うーん、一番離れているサーバーとボーモントは34歳も違うのね。知らなかった。

柾木政宗『NO推理、NO探偵?』

【本書の趣向に触れている箇所があります】

 第53回メフィスト賞受賞作。
 読み始めればすぐにわかるが、本作はメタフィクションだ。2000年前後の一時期、メタフィクション(あるいはメタミステリ)が持ち上げられる傾向があったが、メタフィクションだから新しい、とか、メタフィクションだから過激、というわけでは今更勿論ないのは、誰もが知っている通り。メフィスト賞にはメタフィクションの系譜があり、例を挙げれば、清涼夷院流水『コズミック』、積木鏡介『歪んだ創世記』、真梨幸子『孤虫症』、深水黎一郎『ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!』などが連なる。『歪んだ創世記』『ウルチモ・トルッコ』において惜しかったのは、作品の性質上、メタ要素としてその作品が「新人賞応募作品」である必要はないということ。今回はその必要性に焦点を当てている点が目を引く。

 読み終えて、私の頭にはふと、サミュエル・ベケット作品が論じられる際のキーワードである「唱和」の世界という言葉が浮かんだ。
 先日、堀江貴文『多動力』という本に触れたが、これはNewspicks Booksというシリーズの一巻で、その著者と編集方針にはある共通性がある。私の理解する限りでのその一点をひとくちでいえば、それは共同作業の称揚ということにある。これまでの出版物の単著というものはだいたい、著者と編集者の人格が一対一で、つまり二人三脚で作られていた。しかし我々は、いやこれからはそうではない。執筆も編集も販売も複数人によるチームの作業で行なって良い。つまり人格の多核化。同シリーズの一巻である西野亮廣『革命のファンファーレ』ではそれをこういう。自作である絵本『えんとつ町のプペル』執筆時、なぜ絵本(絵と文)を一人で作らなければならないのかと思いあたった。たとえば映画を一人で作ることはほとんどない。映画を作るようにして絵本を作ればいいのではないか(そこでクラウドファンディングやオンラインサロンの話になる)。進行状況を共有する範囲を従来よりも広めて、それまでの消費者を共犯者として巻き込んでしまえば良い、共犯者は多ければ多いほど、応援者になってくれる、……云々。
 私は別に回し者(しかしこの「回し者」という言葉を使うのもずいぶん久しぶりだ……唱和ならぬ昭和の感じがする)ではないからここらでやめる。何がいいたいかといえば、私はこの「唱和」と「共同作業」という概念を併置した上で(元の意味からはズラした上で)、この『NO推理、NO探偵?』を眺めてみたいということだ。
 本作のアイデアは基本的に、「新人賞を受賞させてくれという土下座を作中で行なう」というものだ。しかし作者個人がそうしたことをいっても通常は何の効果もない(それは作品の価値に何ら関係がないから)。しかし本作が特異なのは(普通やらねえだろ! と思われるのは)メタフィクションの要素を用いて、終盤のある一点において土下座をするところだ。それも、作品世界「で」土下座をするのではない。作品世界「が」土下座するように作られている。つまり単なる作者個人ではなく、終盤まで読み進めてきた読者(編集部)が登場人物たちに多少なりとも情がうつってきた上で、その登場人物たちが土下座(さっきから連呼してますが比喩です)するのだ。
 そしてそこには、あの走馬灯効果が働いている。走馬灯効果とはある一時点の回想において、過去のあれこれが奔流のようにして一挙になだれこむことで人の感動を喚起するという現象で、日常的には卒業アルバムや結婚式の手紙朗読などで用いられる。ミステリにおける連作短編集が引き起こすオドロキ(別個の事件だと思われていた数々が実は長編としてつながっていた)も同様の効果である。つまり本作が用いているのは、連作短編集として最終話に長編化するのみならず、無関係と思われていた人物までもが再登場してこちら(編集部)を向き、土下座する(くりかえしますが比喩です)、連作短編集×唱和という二重の走馬灯効果だ。

 思えば、新人賞応募作品がメタフィクションの仕掛けを用いて選考者に目配せを行うことは、これまでにもいくつかあった。講談社の小説でいえば、たとえば阿部和重アメリカの影』には、映画評論家のH(蓮實重彦)は頑張っているというフレーズがあり、その時の群像新人賞の選考委員は蓮實に近い柄谷行人後藤明生だった。中井英夫の『虚無への供物』も乱歩賞に送られたものだが、乱歩への言及があり、落選したにもかかわらず二倍に加筆して刊行された。こうした目配せはふつう、イヤらしい媚びになってしまい、選考者を「共犯者」化させるところまではなかなかいかない。それを土下座にまでエクストリーム化したところにこの小説の賭があった。
 すぐれた小説は、必ずしも一人のみからは生み出されない。『虚無へ供物』の完成には洞爺丸事故や尾崎左永子の存在が不可欠だった。関西弁監修を塚本邦雄に頼んだり、ファッション監修を尾崎に頼んだりといった「共同作業」も私は、その一つだと思う。

 もう一つ、「メタ発言」について思うところを述べる。メタフィクションには幾つかの種類があり、作中作を扱うタイプもあれば、作中人物が作品世界がフィクションであると認識している発言を行うというタイプもある。本作は後者だ。ところでこうした「メタ発言」は、ふつう小説にはあまりない。ゆえに、「お約束」への「おちょくり」というかたちをとりがちであり、多ければ多いほど読み手はたいてい冷めてしまう。『三つの棺』の「メタ発言」は、作品の流れとはなんの関係もないにもかかわらず、なぜこれほどまでに言及されるのか。それはまさに、その少なさゆえに他ならない。実にさりげなく、一度だけ言及されるからこそ、かえって印象に残る。それは調味料のようなものだ。どれほど上等のネタでも、鮪を醤油抜きで食べ続けるのはなかなかつらい。少々の醤油があってこそネタの味が引き立つ。しかし、度を過ぎてベトベトにしてしまっては台無しだ。
 本作はどうか。構えとして、『三つの棺』のような少量タイプではない。むしろ出ずっぱりであり、「メタ発言」こそがメインであるといっていい。それはコントよりも漫才に近い。コント(フィクション)において客席の存在は作中世界に組み込まれていないが、漫才においては、客席への語りかけという構えをとるのが普通だ。本作の「メタ発言」は聞き手への語りかけに、先の「土下座」は客いじりにあたる。コントと漫才半々という演目スタイルがあるが、そういう感じだと捉えれば、本作への評価としてそう外してはないと思う。考えてみれば、完全コントにおいては作り込まれたセットがその虚構性を掻き立てるが、半コントにおいてはセットはむしろ邪魔になる。言葉と所作のみによって架空の情景を造っては壊し造っては壊しという激しい切り替わりが必要になるからだ。そう思えば、描写される作中世界の書き割りのペラペラさも、半コント半漫才というスタイルが要請するものなのだろう。
 
 そろそろ締めくくりにかかる。本作には核となるアイデアが二つある。「NO推理」と「メタフィクション」がそれだ。しかし、実はその二つはうまく連携していない。私の感触としては、最終的に「メタフィクション」の方に振ったために、せっかくの「NO推理」というアイデアが、十全に開花されないままに終わってしまったのではないかという気持ちがある。一篇のミステリを成立させるには様々な要素(パラメータ)があって、これを着脱可能な構成要素と見なす実験はすでに、たとえば麻耶雄嵩がこの十年ほど行なってきた。『貴族探偵』二冊や『さよなら神様』『化石少女』『あぶない叔父さん』で示されてきたのは、ある要素をゼロにしてなおかつミステリとして成立させるならどうなるのか?という実験だった。それはバンドがある縛りを設けてコンセプト・アルバムを創るような、あるいはギターレスなりベースレスなりボーカルレスなりドラムレスなりノーエフェクトノーダビングなりで一作を構成してみようという発想に近いものだといっていい。
 ひとくちに「推理」といっても、そこには、事件の探究という理論的・抽象的側面と、それを作中で演説するという物理的・具体的側面の二面がある。つまり、「考えること」+「話すこと」=「推理」だ。それを無くすと一体どうなるのか? この発想はすばらしい。「名探偵が推理を演説する」という行為の本質的要素とは何か。その一つは、語り手として聞き手を説得させるということだ。声(言葉)によって風景が塗り替わる。そこに全ての「推理」の醍醐味がある。助手役の語り手・ユウは冒頭、探偵役のアイの演説(話すこと)が長時間にわたるあまり、聴衆である容疑者たちが退屈している様子を見て、「推理って、別にいらなくない?」という疑問を持つ。ここに罠がある。「考えること」と「話すこと」は別だからだ(それは名探偵コナン麻耶雄嵩の諸作を読んでもわかる)。考え上手+話し下手なら、ふつう、考え上手+話し上手というふうに目指すだろうところを、ユウは考え無し+話し無し=推理無しという思い切った発案をする(そこへ都合よく催眠術の得意な犯人が現われ、アイをNO推理状態に陥れる)。しかし、そこに一度きりしか使えない「メタフィクション」という要素を先の半コント・半漫才スタイルでとりこんだがために、中途半端になったのではないか。具体的にいえば、ユウは「日常の謎」とか「旅情ミステリ」とかいったジャンルへの「擬態」を提案するのだが、なぜそのように急に提案するのか、読者は「説得」されない。NO推理とはNO説得なのだ。
 思うに、ここには先行世代への反発がある。一昔前、「推理」の弱体化を示すと思われた作品群を笠井潔がすでに「脱格系」と呼んだ。「格」とはいわば、芸事における「型」であって、その習得は一朝一夕でできるものではない。そうした型=伝統を権威的・体育会系的なものと見做して、「持たざる者」としてのパンク的な行き方があった。これは私の考えでは、語の正しい意味における反知性主義(Anti-intellectualism)的反発だったと思う。その時期も過ぎ、「脱格」と呼ばれた作家も生き残っている人はそれなりに自分なりの方法を育ててきた。今後も「推理」の全体的な弱体化(というか、拡散化)は進みこそすれ、かつての「新本格ムーヴメント」ほど強化はしていかないのではないかと思う。
 話を戻すと。ユウはきちっとした説得をしないので、なんとなくなあなあで話は進んでいく。そこには「日常の謎」とか「エロミス」とかいった(サブ)ジャンルを根底的におちょくってやろうというようなラディカルさは当然、ないし、「あ、ちょっと軒先お借りしてます」と単に乗っかる感じ(殊能将之ならそうはしなかっただろう)。推理が無いので、真相は「向こうからやってくる」というか、「こちらから当たりに行く」というか、そういう「身体」を使った「体当たり」的展開になる。つまり、第四話までで身体=100、頭脳=0というパラメータにしておいて、最終話「安楽椅子探偵っぽいやつ」で身体=0、頭脳=100という振り分け方をして、その対比(ギャップ)によって読後感を良いものにしようという方法になる(雨の日のヤンキー子犬理論)。最終話には「読者への挑戦」も挿入され、いざ「推理」の解放へ、という展開になるのだが、この「推理」が思うに、きちっとしていない。全ての事件は解決済みなので、「後から思えば」という、既に結果の出た「事後」の蓋然性の積み重ねであって、解決前の「事前」にこれらのことごとが推理できたかというと、かなり無理がある、というか、「その時点でその可能性まで推理しきるのは無理でしょう」という推論があまりにも多い(最後に付け加えていえば、「メタ」という用語の使い方において、一部誤用あると思うし、また解決編に問題編の伏線部分の頁数を示すというのも、倉阪鬼一郎サン他に作例があると思います)。

 くりかえせば、本作のメタフィクション趣向は一度きりのものだ。一方で、「NO推理」という趣向はまだ完全に試されきっていない。催眠術師との対決も終わっていないし、「NO推理」の命脈はきっとまだ絶たれてない。

 著者の今後の飛躍を祈願します。

 

NO推理、NO探偵? (講談社ノベルス)

NO推理、NO探偵? (講談社ノベルス)

 

 

文學界」2018年9月号に、金井美恵子が『「スタア誕生」』刊行記念で6月にB&B野崎歓と行なった対談が載っているのを読んだ。
 面白かった。
 しかしこの対談は様々な話題が数珠つなぎ式につながっているので、いざ紹介しようと思うと、なかなか部分だけでは取り出しづらい。少し長くなるが、たとえば以下のような箇所の物腰には、有無をいわさぬ硬い核のような感触があり、(さすがだなあ)と思い、また勇気づけられもする。

 まずは冒頭、芸術選奨を受けた『カストロの尻』について。

金井 芸術選奨というのは、この間亡くなった朝丘雪路さんももらっていて、略歴を見ていると、朝丘さんはその後も勲章を二つもらっているんです。だから、勲章をもらうための第一歩らしいですね。芸術選奨の三十万円という賞金がいかに安いかってことを書いた「50年、30年、70歳、30万円」の載った「新潮」を、文化庁の役人に送っておくようにと新潮の人に言っておいたので、勲章とかを今後もらうことはないわけです(笑)。
野崎 まあ、役人がちゃんと読めば、の話ですけれど(笑)。ともあれ、今までも数々の金井作品があったなかで、『カストロの尻』が芸術選奨を取るというのは痛快ですね。とにかく「尻」にはびっくりしました。スタンダールの『カストロの尼』というのは、ロマンチックな、パッション溢れる傑作ですよ。「恋愛はすべてを許す、しかし身を引くことだけは許さない」という調子の絶対恋愛主義の極地です。金井さんも間違いなくお好きですよね。それが、ある男が「尼」を「尻」と読み違えてしまったことから、全く印象の異なるタイトルが生まれて……。でも、この男に僕は惚れましたね。(……)金井さんのエッセイで触れられているとおり、この『カストロの尻』でお取りになった芸術選奨は七十歳を超えると対象にならない賞なんですね。どういうわけで、あのような年齢制限があるんでしょう。百歳まで生きても驚かないという時代に、暗に小説家には七十歳での引退を促しているんでしょうか(笑)。
金井 七十すぎたら芸術院賞、芸術院会員、という階級制度があって文化勲章で死ぬ(笑)というシステムだからでしょう。ちなみに大岡昇平は『レイテ戦記』で芸術院賞を断っていますね。大岡さんみたいに大々的に言いふらさないのですけど、瀧口修造さんから芸術選奨を断ったという話を伺ったことがあります。断りたい、という気持ちも当然ありましたけど、話の種ね、もらおうかと(笑)。七十歳という決まりがあったし、私は五十周年ということで小説を出したわけだし、賞をもらったのが三十年ぶりで、賞金が三十万円、すぐに、「50年、30年、70歳、30万円」という語呂のいいタイトルを思いついて、このタイトルを思いついたのが嬉しかった。これが万一、野間文芸賞で三百万円なんてもらっていたら、タイトルに決まりがつかないですもんね。三十万っていうのが、いかにもみじめでいいですね(笑)。

溝口健二の失われた映画『血と霊』をめぐって。

金井 「『スタア誕生』」を書きながら『成瀬巳喜男の設計』を時々読み返したんです。同時期に『カストロの尻』の連作も書いていたんですけれど、「新潮」の二〇一五年九月号に、四方田犬彦さんが「大泉黒石表現主義の見果てぬ夢:幻の溝口健二『血と霊』の挫折」を書いていらして、なかなか刺激的な文章でした。(……)四方田さんの文章に「溝口健二研究家の佐相勉は、背景部にいた久保一雄と渡辺造酒三が担当した可能性が高いと推理している」と引用されている佐相勉さんの本というのが、『1923 溝口健二「血と霊」』(筑摩書房)なんです。けれど、佐相さんの文章を読めば、推理という消極的なものではなくて、(……)これには続きがあって、久保一雄の「映画美術」という雑誌に載った回想を引用して、この映画を撮った年に大震災がガラガラと来て、向島の日活の大道具の人に「てめえらが変なひん曲がったものを作ったからあんな地震が来たんだ」とよく言われていたという(笑)エピソードも引用しています。
野崎 無茶な言われようだなあ(笑)。
金井 朝鮮人が虐殺された震災だったわけですからね。無茶ですよね。四方田さんが引用している佐相勉さんの本は、『成瀬巳喜男の設計』の翌年に、同じリュミエール叢書から出ているんです。けれど、四方田さんはお読みになっていないようですね。
野崎 僕は今挙がった本は一応全部読んでいるんですけど、仰ったようなことはさっぱり覚えてないですね。本当に情けない。今、隣で拝見していて、金井さんがいろいろメモをお取りになっているもの、それから切り抜き、それから書物、これらをつなぎ合わせながらお話しになる、これはまさに「金井美恵子の現場」を目の当たりにしたようで、興奮しました。

 十四年続いた時評「目白雑録 ひびのあれこれ」の連載が終わったのはもう三年近く前のことで、ある種のメディア批評の性格を持っていたこの連載は、2011年の東日本大震災の頃から微妙にトーンが変わった。「メディア」というもの自体の構造も変わった。私はこの連載をゼロ年代時評の三本指に入ると思い、また相当にいろいろなことを教わったと思う(他の二本は殊能将之「memo」と山城むつみ「連続するコラム」)。そのことを忘れないように、ここに記しておくことにする。

 

文學界2018年9月号

文學界2018年9月号

 

 

山村正夫『断頭台』

 表題作を読んで、かつてスタンリイ・エリン『特別料理』の1982年版訳者(田中融二)あとがきにあった「よほどバカでもないかぎり二ページも読めば作者が何を書くつもりでいるのか見当がつくので、徹頭徹尾ムードで、読ませる作品」という言葉を想起した。そうか、これは山村版異色作家短篇集なのかなあ、と(その時点では)思った‬。
 ‪親本の帯に「異常心理の世界」とあるように、この本の短篇は概ねHOWよりもWHYに力点がある。発表は1959年から70年までだから、ほぼ1960年代で、いわば高度経済成長の、東京五輪大阪万博の時代。集中で「異常心理」を持つとされるのは、だいたい若者たちだ。この時期、社会状況において古いものと新しいものとが急激に移り変わりつつある対照が、作品のあちこちで見てとれる。大平洋戦争の記憶もまだ遠くはなく、しかし科学は進歩しつつあり、月に向かって有人ロケットだって飛んでいる……すなわちここでいう「異常心理」の正体とは実は、そうした状況における「いま生きているこの社会はどうもヤだ」という「息苦しさ」ではないか。そう見ることは可能なはずだ。
 今やこの作品群が書かれた1960年代も「ノスタルジア」の対象となっているが、しかしここでの彼ら若者たちは、だいぶ鬱屈している。どうすれば良く生きていけるのか。それがわからない。ある男主人公はこう嘆く。戦中世代なら自分も特攻隊にでもなれて目的に向かってパッと生命を燃焼できただろうが、今の生はまったくアヤフヤで手ごたえがない……。実は普遍的なその「心のスキマ」に(80年代のミュージックまではもうすぐだ)、フランス革命や古い打掛やマヤ文明や特攻隊といった、森村誠一いうところの「タイムスリップ」要素が、あるいは犯罪が入り込み、殺人として表現される‬。6篇に共通しているのは、このスタイルだ。
 こうした日常の「心のスキマ」に付け入る胡散臭いモノを、怪奇的な道具立てに用いる小説ないし物語は、この頃の流行りだったのだろうか。本書は狭義の「ミステリ」というよりも、SFやサタイアやホラーなどにもまたがった、「異色作家」や「トワイライト・ゾーン」や「異端作家ブーム」の流れにあるように見える。
 巻末対談では森村・山村とも、時代状況の変化による捜査方法のリアリズム描写の難化について苦慮しつつ、「心理」方面の探究の将来について、だいぶん期待しているように見える。しかし一口に「異常心理ミステリー」といっても、本書の短篇には差がある。たとえば表題作は、こういう設定を出せばもうこうとしか書けない、というたぐいのもので、実は「異常心理」について、他の短篇のようには必ずしも説明されていない。しかし、中盤の「短剣」や「天使」は違う。WHYの説明について、もっとフリーな領域に出ている(私にはこれらの真相は少々無理があるように見える)。
 この事態を最もわかりやすく説明するのは、最終話「暗い独房」だろう。少し詳しく記せば、この短篇の少年は、他人から干渉されるのがイヤだった。独りでいた方が心安らぐ。だから最終的に殺人を犯した。それを取り調べの刑事は、「実の母親が死んで愛情に飢えていたんだろ?」とわかりやすく「翻訳」しようとする。現在ならば「他人から干渉されるのがイヤ」という動機に容易に納得する読者も多いだろうが、作中現在の取り調べ室においてそれは通じない。それは「異常心理」であって、「異常」でない心理に翻訳せよ、と法の(つまり公的領域の)言葉は求めるのだ。それはいってみれば、「オマエのコトバは訛りがキツすぎて何をいっているのかわからない。もっとキチンとした標準語で喋ろ」という強要=暴力だ。ゆえに、ラストは必然的なものとして導かれてくる。
 こういうふうに考えてくれば、ここでの山村の作風はしごく「まっとう」だ。少なくとも、その三、四十年後にしばしば目についた、「さあ、ゲームの始まりです」と犯人に言わせることで「異常心理」を片付けようとした作り手の態度に比べれば(その「まっとう」さが逆に物足りない、という人もいるだろう)、これらの小説には「異常」なところなど、どこにもない。
 しかし、時間が経ってみれば、執筆時には「通常」だったかもしれない「心理」も、現在ではいささかフシギに見えてくるところはある。たとえば6篇中、自分を強姦した男に惚れる強姦された女が二人(2篇)、出てくる。これなど「そういうもの」として(たとえば「クロロホルムを嗅がされた人間はすぐ気絶する」とか「テニスボールを脇に挟んで寝たふりしておけば発見者は死体として扱ってくれる」ぐらいのいかにも昭和ミステリ的ローカルルールのイージーさで)さらっと流されているように見えるが、本当にそうなのだろうか。そこでスルーされているように見えるある心理にこそ、個人を超えた時代状況の「異常」さが、巨大な暗がりにわだかまってはいないだろうか。
 各篇の執筆時から約半世紀が経過した今、そんなようなことを感じさせられた。

 元版はカイガイ・ノベルス1977年刊、文庫版は角川書店1984年刊。
 収録作は
「断頭台」:「宝石」1959年2月。あるパッとしない俳優(元少年飛行兵としてラバウルの刑務所に二年収容され還ってきた)が、フランス革命の斬首刑執行人サンソンの役をあてがわれ、役柄に打ち込んだことからサンソンの人格が転移(?)し、現代と過去が融合してゆく話。過去のフランスと現代日本の場面転換がある(この辺はちょっとフレドリック・ブラウンの「さあ、きちがいになりなさい」を思わせる)。作中、日本の時間は「1963年」と初出時より未来の設定になっているんですが、これは元々そうだったんでしょうか(ここで読めます)。江戸川乱歩は「この作品は日常の現実は架空となり、架空の夢が現実となる転倒心理を描いている。私のいわゆる『うつし世は夢、夜の夢こそまこと』の系列に属するものであろうか」と評したという。しかし、サンソンの心理は描いても、俳優の心理はまったく描いていないところに、実はこの短編のミソがあるように思う。
「女雛」:ある地方に赴任してきた新聞記者が、男同士の心中を祀るべく建てられた比翼塚を訪ねたことから、十年以上前に起こったその事件に疑問を抱き調べ始める。歴史ミステリ+ワイダニットの形態。婚姻の夜に新郎が死ぬというと『本陣殺人事件』を想起するが、これは新郎が宴を抜け出して別の男と心中する、という謎。事件後、新婦を調査に訪ねると立ち小便をしていた、というような描写がなんとなく印象に残る。肝心のWHYはすぐ予想がつくけれど、それをなぜこんな事件にする必要が?という点はうまく説明されていないのではないか。「宝石」1963年3月。日本推理作家協会編『推理小説ベスト24 1964年版』選出。
ノスタルジア:金ができると自然の中で野宿をする、というワイルドライフを送っているヒッピー風の男が、新薬実験用の犬を育てている人物の家に盗みに入り、なぜか古代マヤの骨笛を入手したことから、古代マヤの生贄男の生と交錯してしまう。現在と過去を交錯させる「断頭台」の方法のバリエーション(過去による侵入の契機として、あちらが役への没入なら、こちらはドラッグによる幻覚と謎の「骨笛」がキーになる)。しかしこうなるともう、骨笛が誘い出すトワイライト・ゾーン的フシギ現象の方が主に展開をリードしているので、「異常心理」的なWHYの理屈はほとんど描かれていない。大阪万博への言及有り。「推理文学」1970年10月。
「短剣」:母親の仇への復讐を誓う少年だったが、復讐相手は刑務所で死んでしまい……という話。過去を担うキーとなるのは、タイトル通り特攻隊に配られた短剣だが、こちらはWHYの方に主眼が置かれ、幻想は出てこない(ラストに匂わされる程度)。日本推理作家協会編『推理小説ベスト24 1966年版』選出。1999年に映画化もされている
「天使」:文庫版で100頁に及ぶ、集中最も長い中篇。戦後、黒人米兵と日本人女性の間に生まれた混血児童を集めたキリスト教系孤児院の院長が殺害される。一点の曇りもない人物による理想的な院の光景(善)と、理想的に見えた院関係者の裏の顔(悪)は……という対比に神学的なドラマチックな効果を狙ったもの。きちんとフーダニットしています。ラストの「真相」は匂わされる程度だが、ドラマ的な対比の方を優先しすぎて、必ずしも説得されない(今ではこういうWHYは書けない)。「宝石」1962年5月。日本推理作家協会編『推理小説ベスト24 1963年版』選出。
「暗い独房」:人の善意に堪えられない少年が殺人を犯すまでの心理を、取調室を舞台にして追う話。これは逆に心理の方はまったく現在にも通じる話だが、通じすぎて現在ではむしろ「通常」に感じられてしまう、という逆転現象が起こっている。「宝石」1960年3月。日本推理作家協会編『推理小説ベスト24 1966年版』選出。
 以上六篇。こう見ると、山村の1960年代ベストともいえる代表作を集めた短篇集だが、まとまめられるのはけっこう時間がかかったんですね。

断頭台 (角川文庫 (5715))

断頭台 (角川文庫 (5715))

ゴーストライター、ゴーストシンガー

 たまにはベストセラーでも立ち読みして現世に対する怒りの力を取り戻すかと思い、書店の自己啓発コーナーで堀江貴文の『多動力』という本をパラパラめくっていたら、フシギな記述に遭遇した。
 この本の割と最初の方で、堀江は自分の執筆方法について解説している。最近の自著は大抵、話したことをライターがまとめたものであり、十時間話せば一冊ぶんになる。ただ、最近ではもうそれにも飽きた。新しく言いたいことなど出てこない。30万部突破した『本音で生きる』という新書はそれまでの自著から発言をまとめてもらったもので、自分は書くどころか一秒も話してない。こういうことをいうとゴーストライターがどうのと批判するヤツがいるが、これは単なる名義貸しではない、こういう分業こそが新時代のスキルなのだ……云々。
 実際、この『多動力』という本も自分ではまったく書いていないらしい。巻末のスタッフクレジットを見ると、自分のオンラインサロンの人間や出版社の編集部の名前が書いてある。いわば「堀江貴文」という固有名は単なる枠(フレーム)であり、その器を満たす作業は多数の別の人間が行なっている。
 このブログを読んでいただいている方はお気づきのことと思うが(そういえばもう先月で十周年だ……既にmemoの継続年数を超えてしまった……十周年企画を何かやろうと思っていたのにすっかり忘れていた……)私は小説における「語り」の仕組みに関心がある。だからその意味で「フシギ」と感じたことを以下に記す。
 文字記号(テクスト)主体の書物は、断片的な記述の集積である辞書などを除けば大抵、始め(スタート)と終わり(ゴール)が明確に設けられて内容が構成されている。文章がページに刻んだ何千もの折れ曲がりは書物という器が要請する仕様であって、そのシワシワを伸ばせば一本の線(ライン)というか流れ(ストリーム)になる。もちろん、どこからどう読んでも読者の自由なのだ。しかし構えとしては、始めから終わりまでのプロセスを段階的に読者は辿るよう想定されている。この「本には構えがある」ということは他の部分にもいえて、たとえば編著ではなく単著の場合、しかもこういうビジネス書の場合、著者の声(ボイス)のみが唯一の声として想定される。対談本のような共著なら複数の声がワイワイガヤガヤしている様子をイメージしながら読者は読み進めるが、単著なら一つの声をイメージするのが普通だと思う(講義を受けているような感じですね)。この声の単一性(というイメージ)を支えるのがカバー周りにおける著者の写真だ。こういうビジネス本の場合、有名人であればあるほど、著者の写真が載っている。それが、「個人としてのワタシが個人としてのアナタに向かって語っているんですよ」という幻想を与える。いくら実際は編集チームのスタッフで作っているからといっても、スタッフの写真は載らない――それがたとえ、「この本はみんなで作りました」という共同作業性を新奇なものとして称揚するような内容であっても。「著者=声は一人」という幻想がなければ単著は成立しないのだ。
 するとどうなるか。本当は合唱で、しかもそのことが聞き手にバレているにもかかわらず、架空の独唱を目の前でムリヤリ演じられ、それでいて都合の悪い部分についてはうまく適当に忘却を要求されているような、フシギな感触が読者には残る(ボーカロイドとかVtuberみたいな感じですね)。いまオマエが読んでいる=聞いているこの声、この本の著者はオレということになっているが、オレは書いていない。話してもいない。この声は別人がかき集めてそれっぽく仕立て上げただけのものだ。今後のオレの本は大体そうなっていくだろう。残骸。リサイクル。オレbot。それで充分じゃないか? 何が不足なのか? オレはオレという個人の輪郭をほどきたいのだが、そうすると既存の書物という形態においてはいろいろ不都合があるから仕方なく、今こうやってまるで一人の人間であるかのようなフリをしているのだ……。
 聞こえてくるのは、そういう声である(誤解を招くといけないので慌てて付け加えますが、私はそれが悪いことだとはまったく思っていません)。
 立ち読みしながら、私は、ナボコフの『目』や『青白い炎』のことを思い出していた。ビジネス本(しかしここでいうビジネスとは何だろう)に擬態した小説というのはジョルジュ・ペレックの『給料をあげてもらうために上司に近づく技術と方法』を始めすでにあるのだろうが(小説仕立てのビジネス本ということではなく、ビジネス本に擬態した小説、ということ)、まだまだいろいろ語りの仕組みを工夫すれば面白いことが起こるのではないかなあ、とフト思った。

 

多動力 (NewsPicks Book)

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青白い炎 (岩波文庫)

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給料をあげてもらうために上司に近づく技術と方法

給料をあげてもらうために上司に近づく技術と方法

 

 

ウィリアム・ギャディス『カーペンターズ・ゴシック』

 ウィリアム・ギャディスカーペンターズ・ゴシック』(木原善彦訳、本の友社、2000)。この小説の邦訳書がほしいなあと思いながら数年探してもまったく手に入らないので、しょうがないから図書館で借りて読んだ。といっても、どういう内容だか事前には全然知らなかった。まず訳者あとがきを見ると、現代アメリカ社会の病的な姿云々というような文言がある。難解で辛気臭い話なのかな……と思ったら、その懸念は見事に裏切られた。
 ウィリアム・ギャディス (William Gaddis, 1922-1998)の40年以上におよぶ小説家としてのキャリアにおいて、長篇は5作しかない。本書は3作目で、しかも一番短い小説らしい。英語圏では巨匠とされているようだけれども日本では訳書がこれ一冊しかない。だから今後紹介が更に進んでほしいと思うけれど、最もコンパクトな本書でさえ相当重量級のカロリーが詰め込まれているのは明々白々であるから、そう簡単にはいかないだろうなとも思う(でも他のもぜひ読んでみたいです)。
 この小説は一度で全部を把握しようとさえしなければ、割合スラスラ読めると思う。というのは、舞台はある夫婦が住む一軒の家に限られ、そこで一カ月近くの昼夜、十人足らずの男女が繰り広げる会話劇がテクストの大半を占めるからだ。シーンが変わる毎に、そこへ微細な風景描写が挟まれる。会話の内容はおおよそ世俗的で下世話な――つまり金銭にまつわるもので、ある種の共感(そうそうお金ってなんでこんなに入るのは少ないのに周囲からは細々と請求されてしかもそれがそれなりの説得力をもって迫ってきて結局は渋々支払わざるをえなくてでもなんとなく綱渡り状態で生活は続いていかないこともないんだよね、というような)さえ覚えることができる。では何が難解なのかというと、この会話に企業や人物といった固有名がいっぱい出てきてそれが複雑に絡み合ったネットワークを成しているからだ。
 主な登場人物である妻(エリザベス/リズ/ビブ)はある時、飛行機事故で身体を悪くした。航空会社に対する裁判が控えていて、自分側の医者と会社側の医者双方に診断を受けなければならず、でもこの医者どもが実にいい加減で妻は延々とたらい回しにされ、その都度細々と金額を請求されている。夫(ポール)はあるユード牧師という人物を政界進出させ自分はその選挙参謀におさまろうとしていて普段から各地を飛び回っており、そのために金が必要だからなんとか賠償金をふんだくりたい。前半で繰り広げられるのはこの夫婦の金銭をめぐるすれ違いにすれ違った会話という言語ゲームだ。金銭の支払いについて、あるいは家の中のルールについて、二人は常に言い争っている。相手を説得したい。言い負かしたい。支配したい。料理しながら。飲酒しながら。書類を整理しながら。愛撫しながら。長く延々と続くテニスのようなこのディベート合戦において面白いのは、相手の急所を突いたと思いきやそれが打ち返され、さらに打ち返して決まった相手に対するその勝利が現状改善のなんら役に立たず、かえって生活の無慙さをあらわにする瞬間だ。

 ――ねえ、窓を掃除しろって言うから、あの人が。窓はちゃんと掃除してある! 人は一生懸命働いて、それに対して私たちは報酬を払うのよ。あの人たちには、労働力しか売るものがないの、だから、私たちは引き換えに報酬を払う。払わなければあの人たちは。私たちが自分でするしかない。前と全然変わらないって言うのなら、自分で掃除すれば!
 ――いや、おい、待てよ、リズ、聞け……
 ――いえ、あなたこそ聞いてよ! 九百ドル、あの墓の中の、石の入ったあなたの箱、あんなの墓に入れといた方がいいわ。ほら、そっちの、手に持ってるもう一枚の方の請求書、二百六十ドルの花? 何の花、どこ? 半日かかって窓を掃除してる人間がいるのに、花束に二百六十ドル?
 ――いったいお前どうした、リズ……ゆっくりと擦り切れたラブシートに座り、苛立ちを押さえて膝に乗せた靴は、磨いて房をつけることで上品さを模倣していた。――ちゃんと見たのか? 請求書を開いて、広げて見せたその顔は履物と同じ程度には真に迫っていた。――誰に贈ったか見た? セティー・ティーケルって?
 ――私、いえ、私……
 ――話す時間がなかったけど、お前の名前で贈った。話す時間がなかったんだ……そして、安物の新しい靴と同じ程度に心を込めて女を見つめ、女が息を整え、厚めに輪郭を描いた唇をさらに引き締めるのを見て――お前が心配してることを伝えたがってるんじゃないかと思って……。
 ――いえ、ポール、ごめんなさい、(……)
 ――ときどき、お前は俺より優位に立とうとするよな、リズ。

 セティーというのは有力者の娘でリズの友人。現在、遠く離れた場所で意識不明の重体で入院している。夫のヤロー、清掃業者への支払いにはうだうだ言うくせに花束なんかに260ドルも使いやがって、と憤っていたら自分の親友に対する心遣いだったのでエリザベスはトーンダウンするのだが、後でこれがウソだったことが判る。

 ――同じ、リズ、同じこと、結論に飛びつく。お前があの花屋に電話をかけたりしなけりゃ……
 ――私じゃない、向こうがこっちに電話してきたのよ! 白いカーネーションで作った、百八十センチもある十字架の請求書のことで、電話してきたのよ。セティーに贈った花。そんな変なもの想像もできないって言ったら、カードを添えて贈りましたって。ユード牧師の心からの何とか、キリストのはらわたの中の何とか、吐き気がした、何もかも本当に吐き気がした。
 ――おい、お前からの花束ってことになってなかったのは悪かったって謝っただろ、きっと花屋が注文を間違えたんだ、花屋が……
 ――ああ、良かった、私が贈ったことになってなくて。私の名前で花を贈ったって言ってたわよね、あの、ぞっとする花、まるで葬式みたいな花。どうしてあんな嘘。ティーケル上院議員と手を組むんなら、あんなことしないで、どうしてそう言わないの。セティーを利用しないで。

 実はリズの名前で花を贈ったというのはウソで、それも選挙活動に利用していたのだ。これにはリズも激おこ(当たり前だ)。

 リズは大会社の元社長の娘だ。父親は不審死を遂げ、どうもそこには陰謀が絡んでいるらしい。遺産はあるんだかないんだかよくわからないがとりあえず管理者が仕切っていて自由に使えないことは間違いない。二人姉弟で弟(ビリー)がいるのだが、彼もなんだかフラフラしていてしょっちゅう姉のもとへ金をせびりにくる。ヒロインにたかっているという意味では似た者同士である夫はそれをよく思っていないから、そのことでもまたなんだかんだと三人の間で言い争いが起きる。
 私は舞台の基本構造について、アラン・ロブ=グリエの『嫉妬』をちょっと思い出した。ある家の内部をずうっと眺めている視線。ただ『嫉妬』においてはそこに心情が絡んで、時間と空間が区別のつかないままに混沌たる心象風景として延々と記述されるのだとすれば、本作はいってみれば、読者にとって舞台劇を眺めているような明快さがある。固定アングルが捉えた映像と会話という、「描写」のみですべてが成り立っているからだ(ここに語り手の心象風景や幻覚が入り混じってくるとヤヤコしくなるのだが、そういう心配はない)。ただそこで繰り広げられる会話の内容は相当複雑なので、あれこれと想像して自分で補足しなければならない。
 おおシャーデンフロイデ。他人の不幸は蜜の味。なるほど、これは確かに手のこんだ「現代批判」だ……。前半でそう納得しかけていた私は、後半部を読んでさらに驚いた。
 夫婦の住む家は借家で、不在がちの大家(マッキャンドレス)は謎の人物だ。何かヤバイことをやって誰かに追われているような気配もする(大家に帰ってこれないヤバイ事情があるとしたら家賃払わなくてよくね? それってラッキーじゃね? と夫はゲスな推測をする)。その彼がある日とつぜん現われる。そしてあっという間にリズと一夜を共にする。このさりげなさは思わず見逃しそうなほどあまりにも呆気なくて驚くのだが(大家が姿を現わして知り合いと喋り終わったと思ったら場面が変わってもうベッドの上にいる、というぐあい)、このセクシーシーンはなんともすばらしい。
 ギャディスの前作『JR』を日本で最も激賞した一人であられる殊能将之先生は、小説というものにおけるセクシーシーンの書き方には一家言あって、マンディアルグの『満潮』についてかつてこう書かれていた。……と思って、「memo」「reading」を検索してみたのだが、全然引っかからない。えーっと、私の覚え違いだろうか? twitterを探すと近い言葉を仰られていたけれど……。

  つまり、高尚めかしたエロは虻蜂取らずでダサい。エロならエロに徹したほうがかっこいい。ということですね。
 ところが、『カーペンターズ・ゴシック』のエロはエロに徹していないのになんとなく心地良い。ずっと読んでいたいような気持ちになる。

男は女を引き倒し、自分の横に真っ直ぐに寝かせて――いえ、いえ、違います、女の背中をたどっているその手と同様に、男の声は穏やかで、それもまた永遠のナンセンスの一つにすぎないんです、すべてのナンセンスは、復活と、輪廻と、天国と、カルマと、そういうタワゴトから来てるんです。――すべて、恐れなんですよ、と言って――考えてみてください、この国の四分の三の国民が本当に信じてるんです、イエスは天国で生きてるって。そして三分の二の国民が、イエスは永遠の生命へのチケットだと信じてる。指先が、息のように軽く、割れ目のてっぺんの周囲を囲むように進み、その縁をたどりながら下り、存在しなくなるって考えただけでパニックを起こしてしまうから、生まれ変わったときには同じモルモン教徒の妻と家族に再会するとか、審判の日に皆が集まるとか、大イマームシーア派の最高指導者)と共に戻ってくるとか、チベットのどこかの掃き溜めで両親を選んでダライ・ラマとしてこの世に戻るとか、何になってもいいから戻ってくること――犬でも、蚊でも、二度と戻ってこないよりましだから。どっちを向いても、同じパニック。どんなものでもいい。夜をやり過ごすだめの、狂った作り話。そして、現実離れしてればしてるほど好都合。人生で絶対に避けることのできない唯一の問題を避けられるものならなんでもいい――指が探るように割れ目の縁をたどり、その下へ、さらに深く、絶望的な作り話です、不滅の霊魂だとか、いまいましい赤ん坊たちが生んでもらうために、生まれ変わるために、押しかけてくるとか、湿り気を帯びた手の幅まで割れ目を広げ――生まれ変わるためならコンドルに生まれ変わりたい、昔、フォークナーがそう言ったそうです。コンドルなら、憎まれもせず、望まれもせず、必要ともされず、妬まれもせず……
 ――あ! 女は身を引き離して、恨みがましいことを言われた肘をついて再び起き――フォークナーはたくさん読んだ?(……)
 ――その、交尾してるところを見たことある? バッタとか、カマキリとか、なにかそういうの。とても、とても、精妙な……女の指先は骨をなぞり――素敵な足首、毛が生えてなくて、きれいで、すべすべして、ずっとこっちの方まで……ふくらはぎを越えて、まさぐりながら膝を過ぎ、さらに上の方へ、男の上に乗り、女の指に大事そうに包まれた陰毛の盛り上がりは、取り囲まれた中で膨らみ――以前、テレビで見たの、とても、とても、エレガント……上がったり下がったり、下がったり上がったりする女の手は、木の葉に遮られながら女の肩口から登り女が体を下げると下りてくる日の光のように、上がったり、下がったり、女の指先はたけり狂っている亀頭の裂け目まで膨れ上がった血管をなぞり、その先では女の舌が光るビーズ細工のような細い線を引いて、そこに女の肩越しに差してくる陽光が当たり、ふと止まって、焦点を合わせているかのようにそれを離して持ち――これ何……そして――これ何……そして、舌の先で、爪の先で――ほら、ここのところ、小さなかさぶたができてたみたい……
 ――そう見えるんなら、そうなんでしょう! もう、何だろうと知ったことじゃありません。戦争のときの傷ですよ、板切れにピンで留められたバッタみたいな格好をさせられて、これは何かしら、あれは何かしら、いちいち体を調べて……

 こういう調子で20頁近く続く。このシーンが読んでいて気持ちがいいのは、地の文と台詞に区別がない手法もさることながら、会話の内容、記憶と現在、映像と音声がさまざまなレベルでアナーキーに解け合っているからだと思う。しかしここを読んで驚くのは、夫によれば、リズは飛行機事故のせいで「夫婦の儀式」が遂行できなくなった(から航空会社はそのぶん賠償せよ)という扱いにそれまでおかれていたからだ。この場面には、浮世のヤヤコしくてメンドーな話がひたすら綴られていた作中にあって稀なオアシスのような晴れやかさがある。いや、それだけではない。その朝は、リズの人生の全時間においても、最も幸福な時間だったのだ(と、後で判る)。だから、そこへとつぜん弟が闖入者としてやってき、その光に満ちた静謐な朝をぶち壊す時、あるいは後日、大家が再びやってきてしかし今度は口論となり、その朝の記憶さえもが冴えない色に塗り替えられてしまう時、それは現代小説としては当然の流れ(特権的な存在など何もない)でもあるのだが、かえってこの場面の幸福な印象は強まる。
 一篇の圧巻をなすのは、クライマックスでのリズとマッキャンドレスの口論シーンだ。読者はここで、どうもこれまで断片的に読んできた世間話がすべて繋がっていて実に壮大かつ周到な陰謀をなしているらしいことを窺い知る。ここでのディベート合戦は、推理小説における探偵の長広舌にあたるといってよく、もちろん本作においては全ての謎解きがいっぺんに行われるのではなく数々の伏線がそのまま放置されるのだとしても、語りのテンションとしては類まれな熱量がこもっている。対話のキーの一つとなるのは、アメリカの宗教と政治(たとえばサムシング・グレート教育)だ。大家の本職は地質学者で、かつてある本のために教科書的記述を用いた原稿を書いた。ところが今や進化論は州の科学教育から排除されようとしており、代わりにアホーな宗教的説明が採用されつつある。彼は諦念を抱き、ニヒリスティックな立場から大衆批判を繰り広げる。ところが、リズはそんな彼の立場をも痛烈かつドラスティックに批判するのだ。この時、わずか数日前には出会って数時間で熱烈な一夜を共にした二人が、まるで全地球の運命が今この時に懸かっているかのようなカタストロフ的ディベート泥仕合を繰り広げているその展開に震撼とさせられる。
 ディベートが終わって大家は去る。そして――あまりにも無情な展開。と思いきや振り下ろされる、いきなりのフィニッシングストローク。これには驚かされる。ええっ? いやいや、いったい、何が起こっているのか……。

 こうしたパズルの複雑さと風俗小説的推進力のタフさを併せ持つところが、ウィリアム・ギャディスの面白さなのかなあと思いました。
 というわけでオススメです。

『JR』が訳されたらみんなで買いましょう。

澤木喬『いざ言問はむ都鳥』

   1

  さいとうななめ改め織戸久貴サンが以前言及していたから評判だけは知っていて(いま検索したらその言及はもう四年前だった)、フト思いたって読んだら大変すばらしかった。
 著者は1961年生まれというから親本刊行時(1990年)は28~29歳だったのではないかと推察されるけれど、その年齢にしてこれほど完成された文体と構築力を持っていたというのがまずすごい。「文体」と書いたが、それは単に気の利いた短いアフォリズムめいたフレーズを並べることができるというような程度のものではない。放っておけば単調になりがちな散文の流れに硬軟とりまぜたリズムを生み出し、思索と世界観と知識とをツギハギが目立たないように溶け込ませて、テクスト全体を統御する。語りとは何よりもまず芸なのだ。そう思わされる。
 この「芸」がどのように成り立っているか。それを少し紹介してみよう。

 

   2

 この作品には四つの話があり、そこにおおよそ一年の四季の時間が含まれている。語り手は三十代半ばの男性植物学者・沢木敬だ。ふだんは大学に勤めているから、しぜん勤務先の同僚や上司、学生、隣人知人が登場し、その界隈が舞台となる。作中に「那珂川」が出てくるから、たぶん栃木とか茨城とか、そのあたりに大学のモデルがあるのだろうか。作中では植物学の該博な知識が全編にわたって重要な役割を果たし、あえて括ればこれは「ボタニカル・ミステリ」なのだといってよい(作者には植物関係の書籍を編集した経験もあるらしい)。
 巻頭の表題作「いざ言問はむ都鳥」の書き出しはこうだ。

 山は一つの別世界なのだ、などと思いながら帰ってきた。
 久しぶりに見る高山植物群落は、自分と同じ次元に属する存在とは思えないほど精緻な、この世の驚異の全てを凝縮した結果のように見えたのだ。

 

 七月下旬から八月上旬にかけての二週間を、ぼくは文字通り雲の上で過ごしてきた。大学院時代以来すっかりご無沙汰していた鳥海を訪れ、山頂に居座って高山植物群落の変化を眺め暮らしてきたのだ。学生の頃はこういう贅沢をずいぶん簡単にしていたような気がするが、すまじきものは宮仕えである。考えてみれば、こうして樹林限界を越えて高山帯にまで上がったのは、実に何年かぶりのことだった。夏休みとは名ばかりに諸事多忙な昨今、こういう時間が取れたのは、実のところ奇蹟に等しい幸福と呼んでいい。

  語り手の素性を知る暇もなく、いきなり「山は一つの別世界なのだ」という断定がスパッと下され、続けて、くだくだと雑感が記される。しかしよく見ると、そこでは語の微細な配置が施されている。私は先に、「文体におけるリズム」と書いたが、あえてズバリといえば、ここでの文体におけるリズムの秘密とは、「対比」のテクニックのことである。上の二段落を詳しく見てみよう。
 山―別世界
 同じ次元―精緻・驚異
 贅沢―簡単
 学生の頃―宮仕え
 夏休み―諸事多忙
 昨今―奇蹟・幸福
プラスとマイナスとで互いに値の異なる語が、リズミカルにポンポンポンと結び合わされ配置されてゆく。この演奏のような呼吸。ここに秘密がある。むろんそれは単に反対の言葉を並べていけばいいというようなものではない。饒舌にして抑制の効いた語りは「すまじきものは宮仕え」といった野暮ったくなりがちな慣用句をものともせず乗りこなす。加えて「高山植物群落」「樹林限界」といった専門用語を説明無しにシレッと紛れ込ませている点も見逃せない。専門用語とは、門外漢にとっては、いってみれば異言語の一種だ。自分の知らないしかし確固たる知識体系があるということ。それに触れることは知らず知らずのうちにエキゾティシズムを掻き立てる。さらに行動のレベルでいえば、ここですでに「驚き」が産出されるメカニズムも提示されている。語り手は、学生時代には未だこの「奇蹟に等しい幸福」を知らなかった(それがあまりにも当り前=日常だったから)。「宮仕え」の時点でも知らなかった。しかし、学生時代→宮仕え→今回の夏休み、という往還を経ることによって、「高山植物群落の変化」という同じ事象が、「奇蹟に等しい幸福」として眺め直されている。それを感得するセンサーを醸成するのは、山⇆宮仕え、の行き帰りというギャップの経験に他ならない。ミニマムな語のレベルに引き戻していえば、先の「高山植物群落」という専門用語は、「高山」「植物」「群落」という単語に区切るなら、それは植物生態学の門外漢(つまり私のような)にとっても見慣れた言葉だ。しかしそれが「高山植物群落」という語として結びつけられ、上のような文脈に置かれた途端に、何やらフシギな生生しい感覚が生じる。こうした、普段遣いの言葉と慣用句と専門用語が入り混じった語り。それがこの語り手にとっての「日常」なのだ――と、読者は冒頭から知らされる。
 この「対比」の観点を、テクストにおいてかなりの割合を占める考察のレベルにまで敷衍してみよう。以下は、第一話前半の記述。

 梅雨どきというのは、植物にとってはちょっとひと休みという時期に当たる。春先のあわただしい新芽の展開の後、乾燥と高温の続く夏に疲弊させられる前の、休息期間だ。この時期、暑くもなく寒くもなく、抱えられるだけの水気を抱えた空気の中で、植物は妙に深々と繁って見える。すぐ向こうに住宅地が広がっているような、台地のきわにわずかに残った薄い雑木林の中を歩いていて、ふっと屋久島あたりの原生林にいるような錯覚に襲われたりもする。

 多分それは、空中湿度がほとんど飽和に達しているために発生しがちな霧に視界を遮ぎられるからなのだろう。しかし樋口は、きっとそれが植物の本性なんだよと言った。それは植物が休息を取る間に眠り込んで見ている夢、彼らの爆発的な進化の舞台となった、つまり彼らの本質が作り上げられた熱帯雨林的環境の夢がこぼれ出て、林の中を流れているからじゃないのと言う。ゆみちゃんに聞かせるための話なのかもしれないが、おかしな具合に想像力の豊かな奴だと思う。

 おかしいって言うことはないでしょう、個体発生は系統発生を繰り返すって言うじゃない、夢野久作だよ、と樋口は笑った。細胞の記憶というのは遺伝子に比定することができるかもしれないが、夢野久作なら胎児の夢だろう。言っちゃなんだが、林の木々は胎児ではあるまい。ろくでもないことを考える男だ。

 霧を抱えた夢幻的な描写。それがいったん科学的な推察によって説明される。しかしそれによって幻想のベールが剥がされ無味乾燥な退屈さを顕わにするかといえば、そうではない。「専門用語」の段で述べたように、「空中湿度が飽和に達し」という言葉遣いもまた、小説の文体にとっては一種の「異国語」によるエキゾティシズムを産出するからだ。そしてさらにそれが「夢野久作だよ」という別のフレーズによって塗り替えられる。この感覚は、霧→夢野久作、という順序では生じない。霧→科学→夢野久作というルート、行き帰りのギャップによってこそ生じるものだ。
 どうですか。私が「対比」と呼ぶものの正体が、だんだん感じられてきたのではないですか。

 

   3

 この作品はふつう、「日常の謎」の系譜とされている。では作中の「日常」を述べるこうした語りは、なぜこのようにエキゾティシズムを帯びているのだろうか。それは一口にいえば、「見慣れたもの」(日常)が「見慣れないもの」(非日常)として眺められているからだ。

 もう少し詳しく記す。作中の舞台の半分は大学だ。だから「大学ミステリ」として、本作はこの6年後に登場する森博嗣のS&Mシリーズの隣に並べて見てもいい。「大学ミステリ」においては、「学問」と「日常」とが重なり合うことで一種のエキゾティシズムが産み出されていた。学問=ロマンティックなもの、日常=リアリスティックなもの、という「対比」かといえば話はそう単純でもないのだけれど、「大学ミステリ」においては「学問」と「日常」のどちらか一方だけでは生じない、「大学」という場において両者が重なり合いせめぎ合うことによって初めて産み出される、あるロマンティックさがあった(と思う)。しかし今や、博士号をとって就職先の決まらないオーバードクターなど珍しくない。ロマンティックさなどどこにもない「日常」が多く(そのツラさと共に)語られるようになった。その観点からいえば、語り手の

 ぼくも二年くらいは浮き草的なOD(オーバードクター)の生活を経験しているが、それはそれでずいぶん楽しんだような記憶しかない。

 という述懐など、現在ではずいぶん牧歌的に見えるに違いない。
 いや、話は大学に留まらない。それは「日常の謎」の舞台となる「日常」そのものにおいても感じる。本作の「日常」を読むと、まあ確かにコワイことは多少あるけれど、友人にも恵まれて、職場も安定しているし、趣味のヴァイオリンは年四回の定期演奏会にも知人と楽団を組んで出たりしていて、なかなか愉しそうな……あえていえば、お気楽な「日常」ですね。そう感じた人がいたとしてもおかしくない(たとえば「大学ミステリ」としてその15年後に発表された奥泉光『モーダルな事象』と読み比べたらどう感じるだろうか)。

 北村薫の『空飛ぶ馬』が刊行されたのは1989年。バブルの真っ只中だった。その系譜とされる本作には、植物というテーマもあってずいぶん当時の環境問題についての考察が挟まれている。「当時」といったってたかだか30年近く前だから、地球規模の問題がそうドラスティックに変わっているとも思えないが、しかし主人公の述懐を読むと、意識の上でどうも隔世の感を受ける。(まあ、そうはいっても、この時はまだ余裕があったよねえ)……そういう感じ。そうか、彼らが住んでいる世界にはまだ、阪神淡路大地震地下鉄サリン事件もNY同時多発テロ小泉政権リーマンショックも東日本大地震もなかったんだよな……時間が微妙に近いぶん、そんなふうなギャップを、2018年のいま読むと覚える。

〈あの異常な出来事の連続は、本当に現実と地続きの事実なのだろうか〉というラストの述懐は、そのまま、この作品をめぐる状況についてもあてはまる。ウィキペディアでデビュー時のおおよその状況を見ていただきたいが、まず「女子大生はチャターボックス」という企画がすごい(いまなら考えられない)。「鮎川哲也と13の謎」という企画もすごい。売上的にはなんの実績もない新人を次々デビューさせる会社もすごいし、それに応えて次々とエポックメイキングな作品を世に問う作家たちもすごい。あの異常な出来事の連続は、本当に現実と地続きの事実なのだろうか……もちろん、それは、たしかに、あったのだ。

 

   4

 話がズレた。既に充分長くなってしまったので、本作のミステリ的仕掛けについてあまり言及する余力がないが、それはいずれ作者の短篇を読んだ時にでも述べる。もう少し「ギャップ」について述べて締めくくろう。本作において、最大のギャップをもたらすモチーフはもちろん植物だ。植物とは、細菌や微生物を除けば人間にとって最大の他者であって、その生態の読み解き方を知る者なら、いかにこの他者が知らず知らずのうちに人間の日常に接して・侵入しているか、熟知しているはずだ。主人公はそうしたrule of greenを知る者だが、しかし、熟知しているがゆえに見えない死角、植物学の門外漢にしか見えない死角があるのだということ、そうした死角の内に住まっている人間がこの現実には主人公と同じ次元に存在しているということが、作中の「謎」をめぐるディスカッションではしばしば指摘される。そして、イメージの塗り替えという順路を辿ることは、ある感慨を産み出す。謎の答えという唯一解は、別のオルタナティヴな解を否定するだろう。しかし、そうしたディスカッションの基盤をなす「日常」は、そうした解のせめぎ合いという対話が行われたプロセスそのものを否定しない。「夢野久作」が「科学」も「霧」も否定しないように。このシーズンに咲く植物が前のシーズンの植物を否定しないように。ならば、無事に過ごしているならもう60代の半ばを迎えたであろう沢木敬たちは、いったいあれから、どんな「日常」を過ごしたのか? 元気に過ごしているのかしらん?

 ……そんな具合にね。

 

 

 

 

いざ言問はむ都鳥 (創元推理文庫)

いざ言問はむ都鳥 (創元推理文庫)