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襤褸は着ててもロックンロール

解体と気晴らし

綺譚集 (創元推理文庫)

綺譚集 (創元推理文庫)

津原泰水の文庫になった『綺譚集』をパラパラめくってたら、最初の「天使解体」はどうもどこかで読んだ話だと思った。初出を見ると『文藝別冊 Jミステリー』(2000)と書いてある。あー、そうか、あれで読んだのか……。
解説で石堂藍氏も書いているのだが、この短篇は私小説風に始まる。神経症になった作家らしき男が、父親の三回忌で実家に帰る、という話で、作者の津原氏も神経症になられたそうだということを知って改めて読むと、お、その話なのかな、と思う。
神経症の様子が描かれる冒頭部は実際、リアルで、以前は気づかなかったのだが、「あ、これは『檸檬』に通じる話なのかな」と思った。
梶井基次郎の「檸檬」が神経症的な話だというのは、山村修(=「狐」)の長篇エッセイ『気晴らしの発見』を読むまで知らなかった。もしかしたら私は神経症について誤解しているのかもしれないが、以下そのまま書いていきます。
「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた」。「檸檬」が重苦しさから始まるのに比べ、「天使解体」の語り手は、すでにそこからは解放されているようだ。「(……)つまらぬことから神経を病んだ御蔭で無理な仕事を無理と云えるようになり、ようやく海面に浮上して自分の位置を確認できたかの心境でいる。(……)苦悶の多くをいま、自律神経が肩代わりしている。軀のどこかが震えていることが多いが、そのぶん気分は晴れやかである。自分でも面白いほど、必ずどこか一箇所が震える。」
「自分でも面白いほど……」という語り手の感覚には、私は凄みを感じる。私のいる場所とは違う世界だ。語り手も最初は不安がったが、徐々に「そちら側」へ入っていったようだ。(震えは)「あんがい規律正しく、ひとつの目標に向かって、軀の各部が頑張っているのだとあるとき気づいた。防御だ。」
この晴れやかさがなんとも自然に、作家の語りに、視線に、歪みをもたらしている。読者は来るべきカタルシスの予感に不安を感じつつ読み進める。
ある種の幻視者である語り手の眼は、よく動く。彼はカメラを持ち歩いている。撮るべきものを探してあちこち視線を向ける。この描写の動体視力というか反射神経が素晴らしい。
「あちらこちらで梅が開いている。畑の一角や空き地によく三つ四つ、人の背丈ほどのが植わっているのは、いったい実を採るためなのか、それともあるていど育ったら木ごとどこかに売るつもりなのか、未だ知らない。鶯を二羽見た。鶯というのは本当によく梅を好む鳥で、飛びたったかと思うとすぐまた同じ木の枝に、あるいは隣の梅の枝に舞いもどってくる。日向の苔のような色をしている。」
ここで私は、保坂和志が『小説 世界の奏でる音楽』のあとがきで言った、「小説が動いて見える」という言葉を思い出した。「動いて見える小説ばかりを追い求めると、いわゆる精神病者が書いた小説にしか面白みを感じなくなってしまう」
さてやがて語り手の前に、肌の浅黒い女の子が現れる。ここから小説は一気に非現実的な領域に進むのだが、残酷な場面でも語り手の気分は晴れやかだ。いま、不可避的に関わってしまったばかりの見知らぬ男とも、「いくら屍体といってもなあ、屍体といってもこれじゃ可哀相だから、出来るだけ人間らしくしてやって、それから」「天使らしく」「ああ、天使らしくしてやろう。それから?」と、まるで映画の登場人物のように軽妙にかけあう。
「「梅がよく開いてるな」と彼は泣き出しそうな声で私に云った」という末尾の一文も良い。ちなみに「檸檬」の最後はこうだ。「私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰りな丸善も粉葉みじんだろう」/そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った」。
再び日常へと戻っていった梶井の作家とは逆に、「天使解体」の語り手である作家は日常から「そこ」へと行ってしまう。「檸檬」が長らく読まれてきたのは、「檸檬が爆発したら……」というその少しの幻想味も理由の一つだろうが、比べるとやっぱり「天使解体」は思い切りの幻想小説だなあと思った。
 ※
……と、そういう風に巻頭の「天使解体」ではシンプルな文体を見ていったので、続く「サイレン」がいきなり、「幾子から祖父殺害の企てを聞かされた公太朗は、この半年のあいだ彼女の内面をプランクトンのようにうようよと満たしてきた悪意が感情の食物連鎖の果てに殺意の怪魚をよびよせるに至ったことへの快哉とともに、その奇蹟を孕んで平然としている姉の澱んだ内海のように豊穣な肉体にいつか自分自身も嚥下されるに違いないという予感を得る」という長文で始まると、つまづいてしまった……。なのでそれ以降はまだ読めてないんだが、そろそろ挑もうかな。