立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

つらつらと2

また時間が経ってしまった。
北村薫『ミステリは万華鏡』の記憶も薄れてこないうちに、そろそろ書いてしまいましょう。

と思って、前々回のエントリを自分で再読してみたんだけど、なんだか気負い過ぎてるなあ。
そんなに大袈裟なことではないんですが。
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さて、『ミステリは万華鏡』を読んで何が面白かったのか。ひとことで言うと、「ここにはミステリ的思考が詰まっている」ということだった。
「ミステリ的思考」とは何か。私が読んだのは角川文庫版(2010)だけど、帯の惹句に<魚の骨から古典まで、直木賞作家が森羅万象を「解く」!>とある。
つまり、作者はここで、ミステリ小説だけでなく、それ以外のいろいろな物事について、「ミステリ」の眼でもって、眺めている。本文中の言葉で言うなら、「本格」だ。そこに「本格」があるか、どうか。(以下、私は「ミステリ」と「本格」を特に区別せずに書く)。
この本では、(広義の)ミステリ小説を、作者がどう読んだか、という解釈も面白いけれど、それ以上に印象に残ったのは、この、<そこに「本格」があるか、どうか?>という視点だった。小説のみならず、あらゆるものを、「ミステリ」の眼でもって、眺める。その時、「ミステリ的なるもの」はいったい、どこに在るのか。どこから派生してくるのか。ミステリと、そうでないものを分けるものは何か。――それは必然的に、「ミステリとは何か」「何がミステリをミステリたらしめるのか」という問いにつながるだろう。
この本は、作者がミステリについて<心に浮かぶとりとめもないことを書き留めて来た>と最後にあるように、全体は全18章のゆるいつながりであって、話題はあちこち飛び、論というわけではない。あくまでも、私が上のように読んだ、というだけのことだ。しかし、読んで感じるものはあった。
 ※
それは、この本の直前に、私が前田彰一『欧米探偵小説のナラトロジー』(彩流社、2008)などミステリについての本を、読んでいたからかもしれない。
たとえば前田著では、ひとつのミステリ史が書かれている。周知の通り、エドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』以前にも、「ミステリ的」な物語は存在した。『オイディプス王』しかり、ホフマン『スキュデリ嬢』しかり。しかし『モルグ街の殺人』は、そういった「謎物語」の系譜にありつつ、その後の「探偵小説」で踏襲される数々のパターンを用意した、初めての小説とは言えるのではないか。語り手と探偵のコンビ、変人天才探偵、意外な犯人、密室トリック、解決編が最後に来る構成、……。これは前田著に限らず、『モルグ街の殺人』についての一般的な見解だと思う。
そしてポー以降、様々な作家が、「ミステリとは何か」「何が良いミステリなのか」について論じた。
ヴァン・ダインは、有名な「ヴァン・ダインの二十則」(1928)の一節で、こう主張する。<7 長編小説には死体が絶対に必要である。殺人より軽い犯罪では読者の興味を持続できない。>
「長編小説」という条件がついているけれど、つまりこの「二十則」では、「殺人事件」こそがミステリにおける第一義的な問題、謎と考えられているわけだ。
当然ながら、「殺人事件」の「本格推理小説的解明」のみを至上のものとしてしまえば、ミステリは純粋にテクニックの問題となり、やがて痩せてしまう。実際に痩せた。行き詰まった。そこでハードボイルドなんかが出てきた。
その後、「二十則」の枠から外れてゆく傑作が、数多く生まれた。(続く)

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