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襤褸は着ててもロックンロール

つらつらと3:最小のミステリ

昨日、学生時代の先輩に会ったら、「あれたまに見てるよ、ほら、えーと、何だっけ、立ち読み……」と言われた。
現金なもので、少し嬉しかった。
だから、ええいっと更新してしまおう。
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柄にもなく最近のエントリで(続く)等としているのは、これまでにもブログで長文を書いたことがあったけれど(『フラクション』とか『円朝芝居噺 夫婦幽霊』とか)、一気に書くとダルイし(6時間くらいかかる)、今回はとりとめもない内容なので、いろいろ勉強しながらつらつらと書いていこうという目論見だった。だが、根の不精でやはり止まってしまう。
元々の動機は、『ミステリは万華鏡』(以下『万華鏡』)を読んだのがきっかけだった。前回、「ここにはミステリ的思考が詰まっている」と書いた。それと共に、読んでさらに喚起されたのは、「これから自分がミステリと付き合っていくにはどうするか」ということだった。
勿論私は普段、ミステリ以外の本も読む。というかそれ以外のものがほとんどだ。以前ほどには、どのミステリを読んでも「面白かったなあ」と満足感を得ることは少ない。しかし自分の原風景やホームグラウンドはやはりミステリにあると思っている。
この先、ミステリを読んでいけるかどうか。離れてしまうんじゃないか。それどころか、本すら読まなくなったりして。――つまりそういう危機をうっすらと覚えだした私が、未練たらしくミステリにしがみつき、というと言葉は悪いけれど、将来的にミステリから快楽を汲み上げ続けるにはどうすれば良いのか。それを今後も興味が持てそうな点と合わせて考えつつ、言語化してみる、という個人的な覚え書きのようなものが、今ここに書きつつあることだと思う。
前回も書いたように、『万華鏡』には、具体的なミステリ作品のみならず、他のあらゆる物事、たとえば日常的な些細なもの――魚の骨や、小さい頃の読み間違いといった――にまで、ミステリ的な眼が向けられている。私はそれを、羨ましいと思った。長い時間をかけて何かと付き合い、それについて考え、影響され、そしてそこから得るものがある。普遍的に換言すればそういうことで、だから他の人にとっては、その対象が別にミステリでなくても構わないだろう。スポーツでもギャンブルでもアリなはずだ。ただ、一人の人間がミステリと付き合い続けた結果としての『万華鏡』を読むと、個人的に非常に感じ入るものがあった。言葉にして考えてみたい点が、いくつも、一気に、ぐわっと押し寄せてきた。だからそれらをいちいち、つらつらと、検討したい。そういう話だ。
もしかしたらそれは、大きく言えば、「本なんか読むより、他にやるべきことはこの世に沢山あるだろう」という言葉に対する、私なりの応答の準備、ということにつながっていくのかもしれない。
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さてミステリの話だ。
前回、ミステリ史的なことを出したけれど、実は本題とはあまり関係ない。「殺人」をめぐる謎。それこそが問題なのだ。
結論から言うと、「ミステリが扱う謎は何だって良いのではないか」。これだ。
別に目新しくも何ともない。けれど、『万華鏡』を読んで私は、このことが初めて得心できた。
どんなものだって、謎として扱える。
これは、非常にラジカルなことだ。
まず、謎がある。そして謎解きがある。そこに「驚き」が発生する。その「驚き」が物語と結びついた時、「ミステリ」という詩情が立ち上がる……。私は、これがミステリの原理だと思う。つまり最小単位というか、根本的な原則ということだ。大雑把に言えば、この原理、型さえ踏まえていれば、広く「ミステリ」と捉えることが出来るのではないか。だから、この型さえ踏まえていれば、「謎」の空欄を埋める事柄は、別に何だって良い。殺人でなくても構わない。逆に言えば、およそあらゆる物事を、「謎」として考えることが出来るわけだ。すると理論上、その「謎」には際限がない。この世界が存在する限り、「ミステリ」は、いくらでも「謎」を、「謎解き」を、詩情を生み出すことが出来る。そう考えると、ミステリの限界は人間の想像力の限界ということになり、つまり限界は無いのだ。嗚呼ミステリよ永遠なれ。万歳三唱。
……と、私の脳内では想像が一瞬にして広がった。
勿論、後からつらつらと考えて、色々と留保をつけたい点はある。しかし、かつて「日常の謎」というジャンルが誕生した時、この「ミステリの原理」、そして「ミステリの扱う謎とその限界」ということ、そういった思考が、少なくとも影響していたのではないか。
今や「日常の謎」というジャンル、手法は、あまりにも人口に膾炙している。「推理ものとしていかにも薄い」「物足りない」。そういったレッテル張りに使われるほどだ。けれど先述したように、「日常の謎」の底にある根本的な原則、あらゆるものを「ミステリ的な眼」で眺めるという方法自体には、無限の可能性があるはずなのであって、もし「日常の謎」的な手法に行き詰まりを感じたとすれば、その眺め方に問題があるのではないか。少し視点をずらせば、また違った成果を得られるのではないか。
当然、先述の「ミステリの原理」は余分なものを削ぎ落した必要最小限の形であって、「推理ものとして薄いよなー」と感じさせないためには、そこからいかにして要素を積み上げていくか、ということが求められる。ミステリには、「これがあればミステリらしさが増す」という要素が、ジャンルの歴史の中でいくつも発明・発展されていて、代表的なものがロジックだろう。そりゃ、謎解きは一言で終わるより、言葉を厳密に重ねていく方が、いかにもミステリらしい。
そしてそのロジックを描きやすいのが、たとえば「殺人事件」ではないのか。「国際サスペンス巨編」なんかにしたら、一個人の殺人など、小さなものに感じられる。そしてそこではしばしば、あまり「ロジック」は重視されない。
「ロジック」重視の長編を書こうと思えば、殺人はやはり一番便利だ。逆に殺人抜きに長編を書くとなると、工夫がいる。「殺人」は「ロジック」にとって、「非日常」を演出するにちょうどいいくらいのサイズだ。この「非日常」については、次回に続く。
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今回、ミステリの「原理」と、その可能性について書いたけれど、じゃあその「原理」が成立しない場合は、あるのだろうか。
ということを、つらつらと書きながら、思いついた。このことについても今後、ちょっと考えたい。