読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

つらつらと5:『鏡の中は日曜日』を10年後に読む

【※殊能将之鏡の中は日曜日』『樒/榁』、麻耶雄嵩『隻眼の少女』の真相に触れていますので、未読の方はご注意ください】

鏡の中は日曜日』(2001。以下『鏡』と略す)を初めて読んだのは、今から八年くらい前になる。当時私は、「とにかく驚きのあるもの」が好きで、あらすじ紹介に「驚天動地」「大どんでん返し」などとあろうものなら、かまわず飛びついた。だからとりわけ叙述トリックものをよく読んだ。
清涼院流水の大作群に触れたことで、その無邪気なユートピア幻想も崩壊するのだが、『鏡』を読む前にはもちろん、綾辻行人館シリーズは全て読んでいたので、この作品のことは、館シリーズへのオマージュで、うまく叙述トリックを決めた快作、というふうに思っていた。逆にいえば、快作、としか思っていなかった。
しかし再読して感じたのは、これは快作どころの話ではなくて、そのまま殊能将之がコンスタントに作品を発表していけば、いったいどれほど凄いミステリが登場していただろう、ということだった。(今も期待しているけれども)
以下、『鏡』をめぐって私が思ったことを、いくつかの断章として書いていこう。

・「仕掛け」
ミステリとしての『鏡』最大の仕掛けは、叙述トリックにある。大きく言ってそれは次の2点だ。
<1.「名探偵水城優臣」は、「水城優姫」という女性だった>
<2.第一章の最後で殺された人物は、石動戯作ではなく、鮎井郁介だった>
1については、鮎井郁介が書いたテクストが仕掛けの基になっている。そして2には、この作品の構成自体が絡む。が、『鏡』全体が生み出す「驚き」の効果は、この2点にとどまらない。以下、『鏡』の内容の進行に従い、仕掛けを確認していこう。
まず第一章「鏡の中は日曜日」。正体不明の「ぼく」の語りが続く。「ぼく」は「ユキ」という女性と「父さん」という男性と共に暮らしている。「ぼく」には知的な障害があり、普段は「ユキ」に介護されているようだ。そこへ時折「梵貝荘事件」らしい回想が入る。「ぼく」はなぜか近頃「梵貝荘事件」がひっかかっている。そこへ「石動戯作」を名乗る男が登場。「石動」は「ユキ」を困らせている。「ぼく」は「石動」を殴り殺す。しかし「ぼく」には責任能力が無い。「ぼく」は「ユキ」に見守られながら、息をひきとる……。ここでは全ての登場人物の正体が曖昧で、謎の語り手による詩的な語りがつづられている。
続いて第二章「夢の中は眠っている」。石動戯作の2001年時点での調査活動を描く「現在」パートと、鮎井郁介がかつて連載した小説を通して過去の1987年に発生した「梵貝荘事件」の様子を伝える「過去」パートが交互に語られる。
そして第三章「口は真実を語る」。少し長いが、展開を逐一追っていく。この章では、2001年時点の事柄のみが語られる。章の冒頭、石動の助手アントニオが警察から「石動戯作が殺された」という電話を受けるが、実はすぐそばに殺されたはずの石動がいる。<「……なんですって? 大将が殺された?」/そんなアントニオの大声を聞いて、当の石動戯作本人もびっくり仰天し、ラップトップパソコンから顔を上げた。>
読者もここで驚く。石動戯作が殺されたことは、第一章の終盤で既に語られていたからだ。第二章を読むことで読者は、石動が梵貝荘事件の調査を出版社から依頼され、過去の関係者を訪ねていたことを知る。その過程で、「魔王」と恐れられた瑞門龍司郎がかつての面影をなくし、梵貝荘で長男・篤典とその妻・有紀子と暮らし介護を受けているらしいこと、第一章に出てくるやりとりと第二章のそれが同じであることなどから、つまり「ぼく」のあの殺害は、瑞門龍司郎が梵貝荘を訪ねた石動を殺したことになるらしい……ということを、ぼんやりと読み取っていく。
ところが、第三章では次々に意外な事実が判明する。殺人が起こったのは鎌倉ではなく、金沢であり、しかも被害者は石動ではなく鮎井郁介だ。鮎井は、石動が調査で歩きまわっていた同じ頃、石動の名刺を持って金沢を訪ねていたようだ。しかも犯人はアルツハイマー病の検査で病院にいるらしい。病院で石動は、犯人の親族らしい美女を見かける。そして刑事から次の台詞をきく。<「いまの方はもしかして……」/「ああ、ご説明してませんでしたね」/尾崎(刑事)は女性の背中を見送りながら、/「いまの方が今回の殺人事件の容疑者、水城さんの奥さんです」>
ここにまた一つ、仕掛けがある。名探偵・水城優臣=男、と認識している読者にとっては、第一章の語り手=犯人=水城であり、先の殺害は、名探偵による助手殺しであった、という図式が成立する。なるほど、だんだんわかってきたようだ。石動は女性を追いかけ、話をする。鎌倉の浄妙寺と金沢の静明寺をかけた地名トリックがあったことも知れる。石動は自分の推理を説明する。「梵貝荘事件」の推理には不審な点がある。「つまり、なぜ古田川智子を疑わないのか、ということです」。石動はそこから推理を組み立て、水城と古田川の恋愛感情と、水城による被害者の真の殺害、鮎井の「梵貝荘事件」の中断理由を語る。ここには「探偵=犯人」という、定型ともいえるパターンがある。そして石動による水城=犯人という推理は、名探偵による名探偵の告発だ。しかし石動は、次第に核心からずれていく。「あなたは古田川智子さんですね? そして、鮎井郁介を殺害したのは、本当はあなたではありませんか?」読者は既に、鮎井の殺害者が女性ではないことを知っている。女性は石動にこう告げる。<「おもしろい……。実にユニークな推理だ。あなたには豊かな想像力があるね。これは名探偵には欠かせない能力だよ。ただし、もうひとつ、絶対に必要なものがある」(……)「もうひとつ必要なもの、それは事実だよ。尾崎刑事にちゃんと名前を確認しなかったんだな? 主人が水城優臣なんじゃない。あたしが水城優臣だよ」>
どんでん返しの連続だ。続いて鮎井の手記が挿入される。そこでは、鮎井と水城の出会いから、これまで出版された事件のこと、「名探偵水城優臣最後の事件」である「梵貝荘事件」のこと、水城と瑞門誠伸の結婚、連載中断の理由が語られる。さらに、鮎井による水城の訪問意図まで。<「ほかならぬぼく、鮎井郁介が優臣を殺す。//これは妄想でもなければ、強迫観念でもない。純然たる本格ミステリのアイディアである。名探偵が殺害され、ワトソン役が犯人! こんな話は空前絶後ではないか。これこそ本当の意味で、名探偵最後の事件にふさわしいかもしれない」>
「梵貝荘事件」に描かれた水城の推理に誤りはなかった。結論を出した石動は数日後、また金沢の水城を訪れる。ちょうど退院した誠伸とも一緒に、兼六園そしてその中の金沢神社へ行く。第一章の描写が再度反復される。石動が水城から色紙にサインをもらって、本編は終了する。<「あの……申し訳ないんですが(……)水城優臣と書いてくれませんか?」優姫はついに吹き出した。(……)色紙にはちゃんと「水城優臣」と書いてくれた>

・「みかげ」
『鏡』を再読して思い出したのは、麻耶雄嵩『隻眼の少女』のことだった。2010年秋に発表されたこの作品は今年、推理作家協会賞と本格ミステリ大賞をダブル受賞した。『隻眼の少女』が評価されるなら、『鏡』だって……と一瞬思ったけれど、うなづける点もあった。論理性だ。
『鏡』を「本格ミステリ」のジャンル性から見た場合、一番弱いのがその点だと思う。作中の「梵貝荘事件」にしても、ロジックやトリックの面では平凡な印象がある。石動も第二章【現在・10】で同じような感想を持っている。<まあトリックはややありきたりだったけど、奇抜な動機の設定がそれを補っている。ペダントリーとウィットに富んだ会話の妙に感心しました。『紫光楼事件』ほどの大傑作ではないけれど、梵貝荘の雰囲気はなかなかいいし、水城優臣はあいかわらずかっっこいいし、充分堪能できたから、佳作といっていいんじゃないかな。少なくともシリーズの水準はクリアしていると思う……。/一読者として感想を訊かれたら、石動はおそらくそう答えただろう。>
作者公式ホームページにある、『鏡』文庫化の際の特別エッセイ「殊能将之に抗議する(鮎井郁介)」によれば、『鏡』に描かれた「梵貝荘事件」は抜粋版であるらしい。<問題は『梵貝荘事件』が抜粋版であることだ。本書収録分は、多めに見積もっても、せいぜい原稿用紙二百枚程度しかないだろう。ぼくが執筆した分量の半分以下だ。自作を適当に切りつめられ、しかもバラバラにちりばめた形で本にされたのでは、怒って当然だろう。>
確かに、作中の「梵貝荘事件」だけを読んだ場合、いかにも物足りない印象を受ける。「会話の妙」はわかる。「雰囲気はなかなかいい」も同意できる。しかし、事件発生から解決までが駆け足な感が否めない。【過去・9】の最後、事件の大団円で田嶋が智子の肩を抱きながら思う、(恐ろしい一夜だった……)という感覚には、共感しづらいものがある。「梵貝荘事件」の一夜は、あまり恐ろしく感じられない。
本格ミステリ」としてのロジック性に注目すると、とりあげられるのは、この「梵貝荘事件」と、そこへの違和感から石動が組み立て水城へ話す推理の部分のみだろう。つまり、本格ミステリとしてのロジック性はこの作品では、たとえば『隻眼の少女』などに比べると、あまり重視されていない。それよりも先述した叙述トリック、および全体の仕掛けの方に目がいく。第三章で繰り出される『鏡』の怒涛の仕掛けを見た場合、私は、『隻眼の少女』よりもかなりスマートさではうまくいっていると思った。『隻眼の少女』でひっかかるのは、やはり「探偵=犯人」という構図だ。「結局、そこにいくのか」と思った。「作中に書かれた以上の真相が何かあるのでは?」という読者が続出したのは、彼らがその点に物足りなさを覚えたからではないのか。『鏡』でも一度、石動の推理として「探偵=犯人」というパターンは出てくる。が、それは水城によって完全に否定される。そして、そこからさらに展開されていくテーマがある。『鏡』の重要性はその辺りにあると思う。
私は『鏡』と『隻眼の少女』は、とても対照的な作品だと思う。物語の要素に共通する部分があるだけではなく、どちらも、「ミステリ」という概念に対して、批評性を持っている。けれど、アプローチの仕方が全然違う。
先に、「構図」ということを書いた。いったいミステリにとって、「構図」とは何なのだろう? たとえばtaipeimonochromeさんのブログ「ミステリっぽい本とプログレっぽい音楽」で、「現代本格ならではの構図にも注目したい」といった評を読むたび、私はこの「構図」ということが気になっていた。
以前のエントリで、「謎があって、謎解きがある、そこにミステリという驚き=詩情が生まれる」と書いた。それは言い換えれば、ミステリにおいては、構図Aが構図Bに転換する際に、詩情が生じる、ということだ。構図Aとはたとえば、「不可解な謎」であり、日常の謎の場合なら、「謎とも思っていなかったようなこと」と言ってもいい。その一つの風景がある時、構図B(C、D、……)=合理的な解決・驚くべき真相に、塗り替えられる。その変換を支えるのが、たとえば論理性であり、仕掛けられた伏線だろう。そしてその際の「論理性」に特別に着目したものが、「本格」と呼ばれるのではないか?
この見方は、「ミステリの本質は驚きという詩情にある」という仮説に基づいた、かなり偏ったものだから、別にそれが全てだとは自分でも思っていないけれど、これによって説明できることもあると思う。『鏡』は『隻眼の少女』に比べると、論理性の面において弱い、とする。では、ミステリとして劣っているのか? いや、そうではない。全体の仕掛けを見た場合に、『鏡』には様々な伏線、構図の転換などが含まれており、それらは必ずしも論理性によって支えられてはいないけれども、ミステリという驚き=詩情を確実に生み出している。この作品の場合、その「構図」には、「ミステリというジャンルに対する批評性」が関わっている。
「ミステリというジャンルに対する批評性」は、「ミステリ小説」として評価できるのだろうか? 『鏡』を読みながら思ったのは、まずそのことだった。ではそれはミステリ評論とどう違うのか。当然、『鏡』はミステリ小説である。この作品の場合、その批評性が物語の根幹に関わることによって、「ミステリ」という驚き=詩情を生み出している。だから、私は再読した時、これは非常に重要な作品だと思った。

第三章の終盤で、石動がこう思う。<石動はどきりとした。そして、ダシール・ハメットエラリー・クイーンにぶつけた有名な質問を思い出した。/クイーンさん、もしよろしければ、あなたがたの有名な探偵の性生活についてご説明くださいませんか?>。また、鮎井郁介の手記には「梵貝荘事件」について、こういった記述がある。<確かに、驚天動地の結末にはなるだろう。/水城優臣は実は女だった!/事件関係者と結婚して、寿引退した!/いまは専業主婦として、家で毎日亭主の帰りを待っている!/水城優臣を愛する読者ほど、度肝を抜かれ、驚愕するに違いない。/だが、その結末を書くことは、ぼくにとって苦痛以外の何物でもなかった。>
『隻眼の少女』の第一部の最後には、こういう記述がある。<探偵として女であることを捨てるためには、男である静馬が障碍になる。解りきったことだ。なのに静馬はこれを第一歩として、みかげと共に歩んでいけるかもしれないと考えていたのだ。(……)だが彼女はひとり歩む道を選んだ。>
どちらも探偵と恋愛が絡むことによって、結果的に「最後の事件」となっている。「ミステリ」という世界、「探偵」という存在は、詩的な属性を持っている。対して恋愛は日常的なものだ。水城優臣と御陵みかげという二人の女性の「名探偵」は、その岐路で分かれたように私には思える。たとえば鮎井にとって、「名探偵」はほとんど女性アイドルのような存在であって、「普通の女の子に戻りま〜す」という宣言は、許せないものだった。
ちなみに小説の終盤にはこうある。水城と石動の会話。<「ヴァン・ダインの二十則はご存知ですよね。その第三則に『物語に恋愛的な興味を添えてはならない』という規定があります。本格ミステリは知的遊戯であって、ロマンスなどもってのほか、というわけです」/「ヴァン・ダイン教条主義者だからね」/優姫はせせら笑いながら、/「ノックスの十戒との違いはそこにある。ノックスは半分ジョークとして十戒をつくったけれど、ヴァン・ダインはけっこう本気だったんじゃないかな」>
ところが、そうではなないらしい。私はかなり驚いたのだけれども、先月、ジョン・ラフリーによるヴァン・ダイン伝の邦訳刊行を準備されている藤原編集室さんの「日々のあぶく」を読んだところ(現在は、該当の記述はよむことができない)では、ヴァン・ダインは非常に文学的野心にあふれた人物で、彼が「二十則」を発表したのは、今後発表されるであろう自身の「より重要な仕事」と、探偵小説などという俗な作品を区別するためだった、という(うろ覚えですが)。正確なところは邦訳刊行を待ちたいが、少なくとも、水城の「ヴァン・ダインはけっこう本気だったんじゃないかな」という感想は、誤っていたのではないだろうか。
[7月26日追記]あんまりビックリしたのか、私はその時の記述をパソコンに保存していたらしい。藤原編集室さんには申し訳ないけれども、ちょっと引用させていただきます。

この 「二十則」 が発表されたのは、《アメリカン・マガジン》 1928年9月号。同じ号には自伝的エッセー 「むかしは知識人、いまはこんな有様」 も掲載されている。同誌では10月号から 『僧正殺人事件』 の連載が始まっているので、その露払い的な意味があったのだろう。
ジョン・ラフリーによれば、これらのエッセーでS・S・ヴァン・ダイン=ウィラード・ハンティントン・ライトが試みたのは、探偵小説が 「文学」 ではなく、むしろパズルに近いものであることを明らかにすることによって、彼が怖れていた 「文学的堕落」 という非難をあらかじめ排除しようとしたのだという。
つまり、ワグナーの歌劇とギルバート&サリヴァンの喜歌劇を同じ基準で判断する者はいないが、それと同じことで、「探偵小説」 と 「文学」 はまったく違う基準ではかられるべきものなのだ。ファイロ・ヴァンス・シリーズは、この独自の分野の基本的ルールに則って書かれたもので、そこに普通の小説的な弱さを指摘するのはお門違いである。探偵小説を書くことで文学的キャリアに瑕がつくことをおそれていたライトは、これは 「文学」 とはまったく別物だ、と主張することで、自分の 「もっと重要な仕事」 とは切りはなそうとした。
いまだに探偵小説創作の金科玉条のように考えている人もいて、びっくりさせられることがある 「二十則」 だが、その成立にはこうした背景もあったことを知っておくのも無駄ではないと思う。

無駄ではないどころか、これはいよいよ『ヴァン・ダイン伝』を確認しなければ。

・「鏡」
鏡が姿を映し出す。『鏡』の真相が告げるのは、鎌倉と金沢に「ジョウミョウジ」という寺があり、瑞門と水城の大邸宅があり、瑞門龍司郎とその息子・誠伸という二人のアルツハイマー病患者がおり、ちょうど同じ時期に石動と鮎井がその邸宅を訪問していた、ということだった。多少の違和感は仕込まれているとはいえ、あそこまで石動と鮎井の訪問風景がぴったり重なっているのは、やはり「アンフェア」の謗りを受けても仕方がない印象がある。
ちなみに、日本地図を見て、鎌倉と金沢を直線で結んでみると、ちょうど日本列島を二つに切るような形になっている。
さて、『鏡』は全部で三章からなっている。第一章は誠伸の語り、第二章は石動の様子と「梵貝荘事件」の記述、第三章は石動の記述(と、鮎井郁介の手記)だ。それぞれ、語りのテンションが異なっている。先述したように、誠伸の章は抽象的な、詩的な記述だし、第二章はいかにも「新本格」然とした「梵貝荘事件」と石動の様子が交互に挟まれることによって落差が生まれている。そして第三章は、ほとんど全編が真相開帳シーンであって、どんでん返しの連続。
ここでは、「詩的なもの」に「日常的なもの」が対置されている。「詩的なもの」と私がここでいうのは、つまり「ミステリ的なもの」、非日常的なものということだ。その二つの視点が並べられる。『鏡』の再読で気づいたのは、殊能作品にとって「二つの視点」が、かなり重要なテーマになっていることだった。たとえば『キマイラの新しい城』。主人公の稲妻卿は750年前の人物だ。稲妻卿は現代の我々にとって、かなり遠い心性の強い人物だ。しかし稲妻卿にしてみれば、逆にこの「現代」が不思議なものであって、六本木ヒルズはよくわからない建物である。稲妻卿と現代人、その二つの視点が、一つの館を眺める。
『鏡』文庫版に同時収録された『樒/榁』も、似た構造を持っている。「樒」編は、鮎井郁介の書いた「水城優臣シリーズ」の中編「天狗の斧」だ。冒頭の編集部の記述によれば、鮎井の死後に発見されたものらしい。香川県の温泉旅館を訪ねた水城と鮎井が、密室殺人事件に巻き込まれる。
一方「榁」編は「天狗の斧」事件から十六年後、石動戯作が同じ温泉旅館を訪ね、密室事件に遭遇する趣向。なんと石動が「天狗の斧」にも少しだけ登場し、水城とニアミスしていることが明かされるが、石動は「天狗の斧」を読んでいないようだ。
『樒/榁』で強調されるのは、同じ旅館で起きた二つの事件をめぐる落差だ。それは十六年という時間が生んだものでもある。寂れかけた町は縄文遺跡が発見されたことによって「天狗原人」の町として賑わい、「まだあどけない少女の可愛らしさを残し」た「濃い眉が魅力的な女子大生」だったアヤちゃんと、結婚して旅館を継いだ石動の親戚・ジロちゃんは、すっかりやり手の女将と尻に敷かれた亭主になっている。
水城が詩的属性を、石動が日常的属性を担っている。これはたとえば『鏡』の第二章でも顕著だ。【過去】として「梵貝荘事件」が挟まれつつ、その関係者の現在を訪ね歩く【現在】の石動の調査が描かれる『鏡』の第二章の、石動のパートについて、「調査がありきたりでつまらない」という評がネット上で散見されたけれど、私はそうは思わなかった。というより、この部分における二つの落差は意図されたものであって、だから過剰に「新本格」らしさを身にまとった【過去】に対し、【現在】は新本格らしくないように、より日常に近いように、あえて書かれている。
「梵貝荘事件」は鮎井郁介の書いたものだが、主人公は田嶋民輔となっている。【現在・10】で石動はこう思う。「梵貝荘事件」には、田嶋の内心や田嶋しか知りえないだろうこと等が描かれているが、それらは全く鮎井の創作だろう。<結局のところ、田嶋民輔が純朴な恋する若者として描かれているのは、作者鮎井郁介がどうしようもなくロマンチストであることを示しているにすぎない。ここに描き出されているのは、田嶋の内面ではなく、作者鮎井郁介の内面の投影ではないだろうか>
また、【現在・6】の殿田との会話。<殿田が話をつづけていた。「(……)殺人が起き、探偵が推理し、犯人は捕まり、主人公は最愛の女性と結ばれる……」/石動の脳裏に田嶋の言葉がよぎった。最愛の女性と結ばれたあと、三回セックスして別れたわけか。>
二つの世界がある。それらは元々は同じものだったが、時間によって分けられた。個人的にはそのシニカルさは大好きなのだが……話を続けよう。
『鏡』の根本的に不自然な点は、鮎井郁介の作品が「すべて事実である」という点だ。しかも鮎井作品の大ファンであるはずの石動は、事件がすべて実在のものであり、「名探偵・水城優臣」がいまも存命であると、知らなかったというのだ。2001年といえば、もうけっこうなネット社会だ。そんなことがありうるのだろうか。というよりそれ以前に、鮎井作品のような「新本格」的な事件が、実際に起こりうるだろうか? ここに『鏡』の最初の重要な虚構がある。爆弾がある。「現実」的な登場人物だった石動戯作は、「虚構」だったはずの鮎井作品が「現実」であったという点を通して、まるで鏡の中に入り込むかのように、過去の事件の世界へと足を踏み入れていく。「虚構」だったはずの水城優臣は実体化し、出会うことになる。もしあなたに好きなミステリ作品があったとして、実はそれは現実に起こったことだったんです、と判明したらどうだろう。それはあまりに不思議なことではないだろうか? ここに『鏡』のマジックの一つがある。
その点では、ちょっとした小ネタも、虚構と現実をつなぐ伏線として働いている。【現在・3】で文芸評論家の柴沼を取材した際に話にあがる「フェミニスト・サイコスリラーで人間の心の闇を描ききった俊英」とはもちろん、作者自身のことだろう。

・「泉」
水に始まる。<両腿のつけ根から、ゆっくり温かさがあふれ出し、じわっとひろがっていく。/温かさは太腿とへそに達し、腰骨をつたって、おしりのほうに垂れ落ちていく。/布地が濡れて、肌に密着する。/温かさはだんだん温かくなくなり、生ぬるさに変わる。(……)「またおねしょしちゃったんだね……。しょうがない子だなあ。さあ、起きて」>『鏡』の冒頭。誠伸の体から流れでた尿は彼が生きている証拠でもある。
水に終わる。<「これが瓢池。なんでも、兼六園発祥の地らしいよ。(……)」/「だから、いま入ってきた入口が蓮池門口というんですね」/「そうそう。で、その後の代々の藩主が増築に増築を重ねて、こんなでっかい庭園になっちゃったわけ(……)これが兼六園最大の見物、霞が池だよ。近江八景を模してつくったという説もあるくらいで、きれいでしょ?」/確かに絶景だった。松の木々は壮大で、枝ぶりもみごとだ。さらに、その美しい松が池面に映り、逆立ちしている。まるで蜃気楼のようだ。>水城と誠伸、石動が兼六園を訪れるシーン。『鏡』が「新本格15周年記念作品」であると作者が語っていたことを考えると、ここで兼六園と(!)新本格が重ねられていることは、間違いないと思う。
そして、真ん中には「泉」がある。
<突然、背後で噴射音が響いたかと思うと、田嶋の首筋に冷たい水しぶきが浴びせられた。田嶋は小さな悲鳴をあげた。/急いで振り向くと、泉の中央から噴水が噴きあがっていた。三つのノズルから舞い上がった水が、優美な曲線を描いて、水面に落ちていく。水滴がきらめき、泉に無数の波を立てる>
梵貝荘の中庭。そのまわりでは、仏文学者の瑞門龍司郎を囲んで詩に関する議論が繰り広げられている。殺人が起こる前、『鏡』の白眉のシーン。話題はマラルメから、詩の形式性、そして本格ミステリへと移る。

<「(……)いまでは誰も漢詩なんか書きませんね。口語自由詩に慣れきってしまった現代日本人は、詩の形式性に対する意識がきわめて希薄になってしまった。欧米人にとっては自明のことなのに……」/「欧米人と日本人の違いと断じていいんでしょうか」水城は腕組みして、首をひねると、/「むしろ、個々人の詩に対する考え方の違いなんじゃありませんか。たとえば、パウル・ツェランの詩は韻律や脚韻を無視していますよね。いわば、瑞門さんのおっしゃった口語自由詩といっていい。ツェラン自身は、連なる二行の韻律や脚韻を合わせない理由について、『隣り合った二本の樹が同じ格好をしていることはめったにない』と語っています」(……)龍司郎は唇の両端をつり上げて笑い、/「ツェランはイマージュの詩人であり、自分に取り憑いたイマージュをそのまま言葉に定着させようとしました。一方、マラルメは形式の詩人でした。マラルメにとって、イマージュとは形式から生まれるものだったのです。形式によって生じる美や意味というものがあるんじゃないでしょうか。まったく自由奔放に書くことが、はたして想像力の発露といえるかどうか、わたしには疑問ですね」/「それは本格ミステリに似ていますね」/議論に興味をいだいた田嶋は、つい口をはさんでしまった。(……)「本格ミステリにもさまざまなルールや制約があります。細かいルールはもちろんですが、まず殺人が起き、捜査が進み、最後に探偵が謎解きをするという大枠の形式性も存在します。その点が古くさいと思われて、昨今はすっかりすたれていますが、いま瑞門さんがおっしゃったように、実はそうした制約によって生じる美や意味があるんじゃないでしょうか」/「なるほど。わたしは探偵小説はまったく読みませんが、あなたがおっしゃりたいことは、なんとなくわかりますよ」/龍司郎は悠然とほほえみながら、/「確かに、マラルメはポーを愛好していました。といっても、もっぱら詩ですけどね」/「エドガー・アラン・ポーは『詩の原理』の作者でもあります」/と、水城が鋭く指摘した。/「詩を霊感や直感の産物とせず、詩を書くプロセスを徹底的に意識化した最初の人物です。したがって、ポーが探偵小説の祖となったのも当然でしょう。チェスタトンの名言がありますね。『犯人は創造的な芸術家だが、探偵はたんなる批評家にすぎない』……ポーは犀利な批評家でもありました。『詩の原理』を書き、探偵小説を創始できたのは、彼が創造的な批評家だったからです」/「それは探偵さんならではの考え方だな。ポーは偉大な芸術家ですよ」>

実は『樒/榁』の「天狗の斧」にも、水城と鮎井が詩について語る場面がある。水城の不在に苦しめられ、鮎井は『紅蓮荘事件』を執筆する。それが認められ、出版社のパーティーで編集者や推理作家にもほめられるが、鮎井にはミステリを書いているという意識はなく、困惑する。
<あの三人の新鋭推理作家と会ったら、水城はいったい何について話しただろうか。おそらく、和歌について語ったのではないだろうか。崇徳院の和歌はそれほど上手ではない、と……。(……)「平凡といううかありきたりというか、正岡子規言うところの月並ってやつだね。(……)崇徳院が詠んだのはごくごく平凡な和歌ばかりで、独創性や新味のかけらもない。同時代の西行の作と比べたら、雲泥の差がある。でも、それでいいんだよ。和歌にはそういう側面もある。独創性を発揮するのではなく、伝統の枠のなかで楽しむとでもいうか……。そうでなかったら、一回の歌会で百首も詠めるわけがない。芸術、そして遊戯。このふたつが和歌には共存している。(……)和歌を詠む目的はもうひとつあるな」/「なんですか」/ぼくが訊ねると、水城は崇徳院御陵をじっと見つめて、「鎮魂だよ(……)」>後で振り返って、鮎井はこう述べる。<水城は和歌を詠む理由を「芸術、遊戯、鎮魂」と語った。しかし、和歌について調べるうちに、ぼくはもうひとつの理由があることに気づいた。なぜ水がこの理由をあげなかったのか、ぼくにはわからない。おそらく古代の人々にとって、和歌を詠む第一の目的はこれだったと思われるのだが……。/和歌を詠むもうひとつの理由、それは「恋愛」である。>
『鏡』と『樒/榁』という二つの作品で、ミステリと詩が比されているのは、偶然ではない。詩にも形式によって芸術的感動を生み出すものがある一方、そうでない日常的な、俗なものもある。どちらも含んだまるごとがジャンルであって、殊能作品は(ミステリ小説という)ジャンルのそういった側面を体現しつつ肯定している。たとえば別の箇所で挙げた、第二章【現在】の部分の日常的な調査パートだ。殊能作品には驚くほど時代状況を詳細に書き込んだ側面があって、それが『キマイラの新しい城』ではほとんど文明批評にまで行き着く。また第二章【現在】では、マラルメに関して、事件関係者で仏文学者の藤寺がこんなことを言う。
<「(……)どうしてマラルメが、よりによってファッション雑誌なんかに手を染めたのかは、長年の謎でね。かつては金目当てのひと言でかたづけられていたんだが、どうやらそうでもないらしい(……)瑞門先生は、マラルメを孤高の詩人と考えていたようだね。俗悪な世間から隔絶して、ひたすら自らの精神的探求をつづけた<絶対>の詩人……。だから、ご自分でも梵貝荘を建てて、そのなかにこもった。世間を軽蔑し、唾棄して、ひたすら自分だけの世界に閉じこもった。もちろん、マラルメにそういう一面があったことは否定しないよ。しかし、その一方で、マラルメは俗っぽい世間が大好きだったんじゃないかな。孤高の詩人とファッション好き、このふたつは対立するものじゃなくて、その総体がマラルメという人物だったんじゃないか……。逆にぼくなんか、俗世間を軽蔑する人間のほうが、よっぽど信用できないね」>
作者自身の「俗悪テレビ番組が大好き」という発言を想起させる一節ではないだろうか?
つまり、『鏡』は、ミステリとしての仕掛けもあり、そうでない話題もありつつ、総体としての小説になっているし、ミステリ批評になっている。「第二章の【現在】が退屈……」という評に対しては、マラルメのファッション雑誌編集を「金目当て」とかたづけるようなもの、と、批判も織り込み済みであるわけだ(私自身は、『鏡』は退屈することなく楽しんだが、『樒/榁』の崇徳院に関する蘊蓄は、少しツラかった)。

・「歪」
先に、虚構だったはずの水城優臣が実在していたということが、『鏡』のひとつの爆弾、と書いた。
それは虚構と現実をつなげる手続きだけれど、他にも『鏡』で現実的でないと思う部分もある。細かい部分で言えば、巌流出版の殿田だ。モノになるかどうかわからない出版企画について調べるのに、あんな金のかかりそうな探偵を雇うなんてことをするだろうか?
ちなみに私が最も不思議に思った謎は、第一章で誠伸の内面に生じる謎の声だ。声は誠伸をけしかける。14年前の事件を思い出すよう彼に呼びかける。この声はいったい何なのか?
まず初読時に思うのは、第一章で何度かフラッシュバックする「梵貝荘事件」には、まだ何か不審な点、隠すべき点があって、その「不審さ」をこの語り手は知っている、という予感。その予感は、第二章を読みながら、この語り手の正体が瑞門龍司郎なのではないかと徐々に判明していくことによって、増幅する。
ところが、第三章で明らかになるのは、「ぼく」は誠伸だということであり、しかも「梵貝荘事件」における水城の推理は正しく、何も不審な点などなかったということなのだ。ではあの声は何なのか? ただ誠伸が混乱していただけなのか? ぱらぱらと読み返して、この声は、誠伸が鏡に向かった際に生じた「黒い影」がささやていることに気づいた。
まず最初の声(ここでは、ページの下付きになっている文章を「声」と呼ぶ)。<ぼくは目の前の壁にかかった鏡を見る。/壁のなかの黒い影がささやく。/その夢を/空虚な部屋の、華麗な飾棚の上に/……>これは、のちに登場するマラルメの詩からの引用。
続いて、邸宅を訪ねた男(鮎井)からヘルパーが預かった茶封筒を、ユキが受け取ったあと。<壁にかかった鏡の中に、黒い影がたたずむ。/黒い影が声をひそめる。/……昨日の夕食のあいだ、/ユキはふさぎ込んでいた。/なぜだかわかるか?/(……)あの茶封筒のせいだ。/茶封筒のなかには、/いったい何が入っていたのかな?/(……)おまえはすべてを忘れてしまう/すべてを忘れ、すべてから逃れて、/この館に閉じこもっている。>
鮎井が最初に訪ねた時、誠伸は家にいた。しかし鮎井のことを覚えておらず、「見知らぬ男性」として描いている。無意識下では誠伸は、鮎井のことを覚えており、鮎井の不穏さを感じとったことで、内面の「声」が危険を増幅し、やがて殺人にいたる……というふうにも読める(殺人以降、声はやむ)。
実は黒い影の声を読み返しても、私が先に挙げた決定的なこと(誠伸が梵貝荘事件に関して、何か不審点があるのではないかと感じているということ)は書かれていない。ただ、「思い出したか?」とか、「中庭に降りて、/死体を見つけろ。」などとけしかけるだけだ。
……しかしそう考えても、<……石動はまたやってくるだろう。/中庭の死体を見つけ出し、/事件の真相を明かすまで。/何度でもこの館を訪れるだろう。/名探偵ってのは、そういうやつさ>などという記述はかなり不自然に感じられる。「中庭の死体」って何なのだろう?

・「出会い」
誠伸の話を続けたい。
ところで『隻眼の少女』の話になるけれど、『隻眼』では、みかげと静馬の出会いの場面がはっきりと描かれている。<「あなた、そこで何をしているんです?」/騒ぎになる前に降りるべきかどうか迷っていたとき、突然足許から若い女の声が聞こえてきた。/慌てて下を見ると、声の主は小柄な少女だった。高校生くらいだろうか。色白の顔で地上から自分を見上げている。>というふうに始まるこの場面は、単なる出会いではない。最後まで読むとそれがわかる。だからいっそう、この二人のシーンには、リリックな感触が漂っている。
『鏡』における水城と誠伸の出会いの実際については、あまりよくわからない。作中で石動が考えるように、「梵貝荘事件」にはかなり鮎井郁介のバイアスがかかっているので、特に水城と誠伸の関係については、不明な点もある。だから、第三章で水城が石動に誠伸と結婚したということを告げる時、唐突な印象を受ける(まあ登場人物としてはもう、誠伸しか残っていないのだけれども)。しかしそのきっかけは、第三章の鮎井の手記に垣間見ることができる。「あの、水城さん……。これ、お使いください」。煙草の火にはマッチしか使わない、という水城の嘘を間に受けた誠伸が、紙マッチを水城に差し出す。その後、事件解決の直前、フランス語について二人でやりとりするシーンは、藪の中だ。
この作品の時間的な本当の終わりは、第一章の最後にある。小説のラスト、水城・誠伸・石動三人での兼六園見学のあと、誠伸は病院に入る。いつ頃かはわからない。車椅子に乗せられ、体は動かない。気づくと、全身がチューブにつながれている。ユキがやってくる。彼女は泣いている。「ぼく」の視界は暗くなる。
その時、ある核心が誠伸を襲う。それは、まったく唐突にやってくる。
<そのときだった。ぼくは不意にすべてを思い出した。ぼくは自宅の居間で、石動を殺した。何度も何度も花瓶で殴りつけ、後頭部をつぶして、殺害した。血糊が飛び散り、床が赤黒く染まった。ぼくの両手も血に濡れていた。/ぼくは自らが罪人であることを、まったく完璧な記憶力をもって、思い出したのだ。//これでわたしの推理は終わりです。人差し指と中指にはさんだ煙草がまっすぐ突き出された。そして、そして、罪はつぐなわれねばなりません。//そのとおりだ。名探偵が決め台詞として語るように、罪はつぐなわれねばならない。たとえ、これから起こることが永遠の劫罰だとしても、ぼくは甘んじて受けよう。/ぼくは石動戯作を殺したことを少しも後悔していない。>
ここで誠伸は端的に勘違いしている。彼が殺したのは石動ではなく、鮎井だからだ。この確信は、やや複雑な性格を持つ。初読時には、何やら不審さを秘めた犯行宣言として我々の前に現れる。
そして全てを知ったあとで、読み返してみる。殺された人物は、名探偵ではない。いわゆるワトソン役だ。しかし鮎井は石動を名乗っていた。彼は「水城優臣」を「名探偵」の領域へと奪還しようとしている。最初は、名探偵としてカムバックさせようとして、やがては水城殺しによって「名探偵・水城優臣」の名を永遠のものとしようとして。
これを誠伸が返り討ちにする。鮎井を殺害することで、「名探偵」という存在を退ける。そして、どれほどの罰を受けようとも、そのことに後悔はない。誠伸は、自分との出会いによって水城が「名探偵」を辞めたことを知っている。「黒い影」のあのざわめきは、その辺りから聞こえているのではないか。
詩的なものに対して、日常性が勝利する。死の間際の確信は、その勝利宣言として鳴り響いているように、私には聞こえる。

・「手紙」
この長い駄文もそろそろ締めくくりにかかろう。
現在(2001年)に登場しない人物たちは、どうしているのだろう。最も気になるのが古田川智子だ。連絡先すらわかっていないという。あの中絶の噂の真相はいったい、どんなものだったのか。
また、「梵貝荘事件」の犯人の倉多。彼はすでに出所し、取材を断る手紙だけが引用される。<なぜあんな馬鹿なことをしでかしたか自分でもわかりません。今私には妻もいますし小さな娘もいます。毎日真面目に働いて妻子と細々と暮らすことしか考えていません。この平穏な暮らしを乱されるのが恐いのです。//「あんな異常きわまりない殺人事件の犯人の言葉と思えるか?」/と、殿田が言った。/その文面が殺人者にそぐわないか否かは、石動には判断がつかなかった。ただ、十四年という歳月の長さだけが、心に突き刺さるように感じられた。>倉多は文字通りのことを語っていたわけだが、作品を通読した後の眼で見ると、彼の言葉は興味深い。確かに、あれほど「詩的」な事件を起こした犯人が、「なぜあんな馬鹿なことを」と嘆く姿は、歳月の重みを感じさせる。詩的な事件の犯人は平穏な暮らしを望み、本格ミステリファンだった田嶋は官僚になってミステリなどに見向きもしなくなったわけだ。
「梵貝荘事件」の発生は、1987年の7月。現実にはその二ヶ月後に、綾辻行人の『十角館の殺人講談社ノベルス版は刊行されている。石動とのインタビューで田嶋は、ミステリを「卒業してからは、ほとんど読まなくなったな」とあるから、「新本格」作品も少しは、読んでいたかもしれない。
そして、鮎井郁介が殺害されたのが、2001年の7月。今がちょうど、その10年後にあたる。『鏡』の刊行が、2001年12月。
新本格」という言葉自体は、1988年に刊行された『水車館の殺人』で初めて使用されたとも言われるが、一般的にはやはり『十角館の殺人』が、新本格ムーブメントの嚆矢とされている。作者が『鏡』を「新本格15周年記念作品」と銘打ったのも、そこから来ているのだろう。
大きな嵐もあった10年だった。何より綾辻行人館シリーズは『暗黒館の殺人』『びっくり館の殺人』の二作が刊行されたし、講談社ノベルス新本格作品にはおなじみだった宇山日出臣氏、辰巳四郎氏は逝去された。
つまり来年が、「新本格25周年」になる。「新本格」という言葉がさす意味合いも、作家も作品も変わってきているけれど、それだけの時間が経とうとしている。