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襤褸は着ててもロックンロール

つらつらと6:ネタバレについて

また一か月以上空いてしまった。
このところミステリ論や詩論を集めていて、その中で買っていた『ミステリの詩学』という本(鈴木幸夫訳編、研究社、1976)に、まさに前回挙げたウィラード・ハンチントン・ライト(=S.S.ヴァン・ダイン)による「傑作探偵小説」というエッセイが載っているので、それについてで更新しようと思ったのだけれど、なかなか。もう来月には伝記も出てしまうだろうから、どうしようかな。
ミステリについてはこのあともだらだらと書いていきたいと思っていますけれども、今回はとりあえず、最近思いついた「ネタバレ」について。
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先日、出たばかりの辻原登『熊野でプルーストを読む』(ちくま文庫、2011)を読んでいたら、桜庭一樹砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の角川文庫版の解説の再録で、興味深い一節があった。辻原は『オイディプス王』を例に、『砂糖菓子〜』の「悲劇」性についてこう語る。

知らずに父を殺し、母を妻とし、子までなしたオイディプス。だがこのことが悲劇を成立させるのではない。これらのことは、すでにアポロン神託によって告げられていたこと、つまり運命として、オイディプスにのしかかっていたことだった。だが、オイディプスにこの運命は知らされない。知らされるのは観客に対してである。/オイディプスはテーバイの国を救うため、自ら探偵となって、父王を殺し、母とまぐわった男・犯人をみつけだそうとする。そして、彼自身の探偵行為によって、ついに自分が犯人であることを明らかにしたとき、彼は両目を突く。

冒頭に予言がある。主人公はそれを知らない。そしてこの劇は、アテネでは毎年、繰り返された。

毎年三月、ディオニュソスの大祭のとき、アテネで上演された『オイディプス王』を観て、アテネ市民はその都度、オイディプスの運命を哀れみ、同情して涙を流す。劇が終わると、観客は涙をぬぐい、一種晴れ晴れと澄み切った気持ちで野外劇場をあとにした。/なぜ、毎年、同じ劇を観、結末を承知しているにもかかわらず、人々は涙を流すのか。いや、そうではない。観客は、劇のはじまる前に、オイディプスの運命を知っているからこそ涙を流すのだといえる。/観客は分かっているが、登場人物は知らないことになっている皮肉な状況、劇的アイロニーと呼ばれるこの状況が、じつは涙の源泉なのだ。しかし、おのれが何者なのか、と最後の最後まで捜査を推し進めてゆくオイディプスは、すべてを知っているつもりの観客の思惑を越えて、彼みずからを謎にみちた存在、怪物へと変貌させてゆく。/その変貌に立ち合ったとき、結末を知っていると高をくくった観客・読者は、おのれの存在がいかに卑小なものであるかを思い知らされ、おそれおののく。このときだ、ほんもののカタルシスがおとずれるのは。

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の冒頭には、ヒロインの海野藻屑が殺されたという新聞記事が置かれている。物語はそこから始まる。ゆえに読者はその運命を知っており、一喜一憂する彼らを客観的に見る。客観的に見ざるを得ない。しかし「どうせ殺されちゃうのに……」などとタカをくくっていた読者を超え、やがて海野藻屑の存在は強烈に印象づけられる……ということだろうか。
オイディプス王』は、原初的なミステリ作品、とよく言われる。『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』も、ミステリ界隈で評判が良かった(だから私も以前読んだ)。
これまでの数回のエントリで私が書いてきたことをまとめると、要するに私が言いたいのは、「ミステリで最も重要なのは驚き=サプライズ」なのではないか、ということになりそうだ(と、最近気がついた)。
「驚き=サプライズ」のためには、ふつう、読む前の「ネタバレ」はあってはならない。では、『オイディプス王』も『砂糖菓子〜』も、ミステリではないのだろうか。ガチガチの本格作品ではないだろう。でも、完全に「ミステリではない」ともいいきれない気がする。というのは、二つの作品のいわゆる「悲劇」性の基となるのは、「運命の提示」だけれど、それとミステリにおける「ネタバレ」とは、厳密にいうとたぶん異なる。
では両者はどう異なるのだろう? ということが、この解説を読んでいて、まず第一に浮かんだことだった。
実は、それについてはまだ未整理なので、とりあえずうっちゃってしまいたい。
今回は、本当は「ネタバレ」ということについて書きたいのだった。なので、以下、思いついたことを書き進めていこう。
なぜ「ネタバレ」はいけないのだろう? 私は第二にそう疑問に思った。
そんなの、些末な部分じゃないか、作品の価値が損なわれるわけじゃなし、だいたい、ネタバレしなけりゃ作品を論じることなんてできないだろう。
と主張する方たちがいる。その主張は正しい。作品を「論じる」場合は。
けれど、「紹介する」と「論じる」のとは全然違う。
評論ならば、むしろ結末にまできっちり触れてくれないと意味が無い。ひるがえって、書評や紹介でネタバレされると、私は大いに興をそがれてしまう。それはまずい。その二つは分けてくれないと困る。単純なことですが。
では、なぜ「ネタバレ」を食らうと興をそがれてしまうのだろう?
長い間私は、そのことがずーっと不思議で仕方がなかった。今回、「劇的アイロニー」のくだりを読んで、触発されるものがあった。たぶん、私の心理としては、次のようなことになるのだと思う。
結末から冒頭を読み返すことは再読に似ていると思う。それは、未来から過去を振り返ることだ。分岐点の多かった迷路は、一本道として収束する。そこではもはや風景は、謎めかない。気にもとめなかったはずの、目配せのような断片が、いちいち意味を持って現れる。
未来は確定し、約束されている。それは安心を与える。過去を振り返る際、驚くべきことに、悲惨な事柄でさえ、時に笑い話として語られる。全ては明瞭だ。もやもやとした、暗闇の中の手探りのような、足場の悪い、不安に満ちた冒険はない。そこに真の不意打ちの衝撃はない。はずだ。
探偵は結末=物語の起源を探りだす、いや作りだす。それは再読ではなく、初読によってだ。運命を知っているのは、物語の外にいる存在だけだ。運命を知った読み手は、物語の中の探偵になることはできない。ただ物語の読者になることができるだけだ。
勿論細かく言えば深読み・粗探しなどの再捜査行為はできるわけだけれど、探偵としての一回性の時間を生きる権利を失う、というのは、大きい気がする。
「運命」を知った観客・読者は、決定的に物語の外に出る。その目で登場人物を眺めた場合に、「劇的アイロニー」が生じる(「志村、うしろ、うしろ!」みたいな状態か)。しかし登場人物にしてみれば、進行している事態が、悲劇なのか、喜劇なのか、ということすら、わからない。わからないまま進むしかない。その両者の乖離はきっと大きい。そして、物語の進んで行った先にあるのが「サプライズ」で、まさに時間の先にしか驚きがない、というのが、重要なのではないか……。
もちろんミステリにも色々な形態があるので一概には言えない。けれど、「ネタバレ」を嫌う心理にはきっと、このような一面があるのではないだろうか。
 ※
次回はたぶん、ヴァン・ダインの話です。

熊野でプルーストを読む (ちくま文庫)

熊野でプルーストを読む (ちくま文庫)