立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

つらつらと7:「ロジック」を読むことについて

「次回はたぶん、ヴァン・ダインの話です。」
などと思わせぶりなことを書いたけれど、やっぱりそれは準備が整ってからにしようかと思う。で、長くなるかもしれないが、今度はミステリの「ロジック」を読むことについて、つらつらと書きながら自分なりに考えてみたい。
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ところで「ロジック」とは何か?
ミステリでそれはふつう、「謎」を解体する論理だ。特に、「本格ミステリ」と呼ばれるジャンルに顕著なものだ。
自慢じゃないけれど、私はこの「ロジック」にめっぽう弱い。本格ミステリに出てくるロジックを噛み締めるようにして読むのが苦手だし、「読者への挑戦状」なぞは最初から勝てないものと決めこんでいるからあまり悩まないし、「論理的思考能力が無いんじゃないか」と言われたこともある。
ただ、「ロジック」に憧れはある。「美しいロジック」はやっぱり、本格ミステリの華の一つだと思う。
いま、私は、「美しいロジック」と書いた。
そう、「ロジック」は、通常、美しいものでなければならない、とされている。あるいは、大胆なもの、鋭いもの、堅牢なもの、エレガントなもの、……。
前回のエントリで、<「ミステリで最も重要なのは驚き=サプライズ」なのではないか>と書いたけれど、これは非常に言葉足らずな言い方だった。より踏み込んで書こうとすれば、たぶんこうなる。つまり、「ミステリというジャンルに固有の構造が、何か文学的なポエジーを生み出すとすれば、それは、サプライズ=驚きに関わっているのではないか」ということだ。これは一種の作業仮説であって、絶対的に正しいとか、そういうことを主張したいわけではない。不勉強な私の見逃している、この仮説を否定する論、補強する論、先をゆく論も、きっとあるだろう。ただ、この見方から、こうやって読んだり書いたりすることで、ミステリについて個人的に探ってみたいという、それだけのことだ。
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さて、ミステリにおいて、「ロジック」と「サプライズ」は、どのような関係にあるのだろう。今までのエントリで書いてきたことからすると、ミステリがサプライズを生み出す構造は、きっとこうだ。まず「風景A」(≒謎)がある。それが次第に、「風景B」(≒真相)に塗り替えられる。同じ風景を、それぞれ違った二つ(別にいくつでも良いが)の見方で眺めること。「風景B」を知ってしまえば、知る前には戻れない、ということ。その過程で「サプライズ」が生まれる。
そこには飛躍がある。「風景A」と「風景B」は、かけ離れたものでなくてはならない。でなければ「サプライズ」は生まれない。つまり、「サプライズ」は、風景の「距離」から生まれてくる。思いがけない結びつき、というわけだ。
その飛躍をつなぐのが、あるいは、かけ離れた風景どうしを架橋するのが、ロジックなのだろう。
ここで、「飛躍」と「ロジック」の違いに注目したい。どちらも、別々の二つの風景をつなぐものだ。けれど、アプローチの仕方は違う。
「飛躍」は文字通り、飛ぶ。一瞬で。それは直感のようなものだ。瞬間的な閃き。雷のような衝撃。眼前がパッと開ける、「そうだったのか」という驚き。瞬間的なのに、あるいは、瞬間的だからこそ、奇妙に納得できる実感がある。
そしてそれを、後から裏付けていく作業が、「ロジック」なのではないか。石橋を叩いて渡る実直な証明。地面を堅実に走破していく力。見よ、霊感は肉を得た。謎は解かれた。
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もう少し詳しく見てみたい。
いまの説明だと、まず「直感」が先にあり、「ロジック」がその後にくる、ということになる。これは何となく実感できる筋道だ。「ロジック」を組み上げるには、「場」が、しっかりとした足場がなければならない。ところが、ミステリ読者が謎を解こうとすると、多くの場合、この足場を確定させることが難しい。それは現実においてもそうだ。何が必要で、何が不要なものなのか? 足場をつくるには、その取捨選択が必須の条件なのだが、誰しも、前もって答えを知ることはない。俗に言う、「解答よりも正しい問題設定の方が難しい」という、あれに似ているかもしれない。
だが、探っているうちにだんだんと、見えてくるものがある。そしてある時、「問い」が固まる。固まった瞬間、進むべき道が照らされる。ミステリによく登場する、「困難は分割せよ」という言葉を思い出していただきたい。それは、「正しく問題設定をせよ」という言葉とほとんど同義ではないだろうか? 「困難」を正しく「分割」(問題設定)し、仮説を立てることのできた場合にのみ、答えが見えてくる。「問い」さえ固まれば、あとはもう一歩だ。逆に言えば、きちんと「問い」を投げかけなければ、答えは見えてこない。
「問い」はどのようにして固まるのだろう。伏線、証拠、レッド・ヘリング、無意味な断片たち、それらを眺める者の中に、無数の「問い」以前の「問い」が生まれては消えてゆく。やがてある瞬間、ふいに、何かを梃子のようにして、きっかけが得られる。その光の指す遠い方に、ひとつの風景が見える。きっとそれが直感だ。サプライズだ。詩的霊感だ。さあ、飛躍した片割れを追って、あとはロジックで橋をつくってゆこう。
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……と、書いては見たけれど、まだ納得がいかない。私は自分で何が言いたいのかわからず、途方に暮れてしまう。まとまりのないことを書いている、と思われるかもしれないけれど、少しづつ書きながら考えているので、ご容赦いただきたい。一つ前の段落で、私は何が言いたかったのか。「直感」が先にあり、「ロジック」が後にくる、という説明だ。では、それは一体誰の視点に立った説明なのか? 作中の推理する探偵か? 謎物語を作る作者か? いや違う。作品を読み進める読者だ、当然のことながら。私が最終的に求めたいのは、ミステリ作品を読んだ時に効果として現れる詩情の正体だ。そしてそれはサプライズ性と関係があり、そこになんだかミステリの可能性があるらしい、ということを見たいのだ。
自分以外の誰も興味ないかもしれないけれど、私はこれを迷い、楽しみながら書いている。ここまで書いてきたことを、私は実践していると思う。まず最初に、『ミステリ万華鏡』そのほかの本を読んで、閃いたものがあった。ミステリのサプライズは詩情に通じる、と。そこからいろいろなものが見えてきたような気がした。それは直感だ。そしてそこから、自分自身に説明し、納得するために、こうやってその距離を詰めようとしている。言葉で。私なりのロジックで。だから時折、足跡を振り返るような、立場を確認するような、こんな冗長な説明が入ってしまう。はじめに一度、大きな道のりは見えた。ような気がした。ただ、細かな問題設定については、まだ見当がつかない。私はまだ答えを知らない。私はまだこの「問い」―「答え」の射程の外にいない。
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続けよう。「直感」(「風景B」への飛躍)が先にあり、「ロジック」(「風景B」への架橋)が後にくる、という説明は、一面的な見方だ。叙述トリックものなどの場合を考えると、納得できるかもしれない。ハッとする一行があり、それから説明が続く。
では、消去法推理などはどうだろう? 「最後の一撃」の場合は?
そう大して違いはないんじゃないか、と思う。実は、「直感」の以前にも、ロジックを働かすことのできる位置は存在する。それは前述した、「問題設定」の前段階、情報の取捨選択、「答え」の前に「問い」を正しく作ろうとする位置だ。
そして、いかに「ロジック」で実直に橋を架けていったとしても、最後に「飛躍」は残る。シャーロック・ホームズの例の、「不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実となる」 という言葉を想起していただきたい。最後に現れた奇妙な風景を信じる時、彼は地を蹴っている。
要するに、持ち札公開の順序が異なることはあれど、風景が塗り替わる時、不可解な謎が合理的な解決に変換される時、「飛躍」と「ロジック」の二つが媒介になるのではないか。
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何のことはない、仮説と検証の二つが必要だ、と言っているに近いのだけども、たとえばシャーロック・ホームズの推理は「アブダクション」と呼ばれることがあるようだ。
そして、アブダクションにおいてはしばしば、論理的に誤った推論がなされる。らしい。
間違った直感に導かれること。仮説の誤りに気づかないこと。無矛盾のロジックをつくることはできる。ただ、その前提条件を「完全に」「絶対的に正しく」充足させることができるのは、きっと神だけだ。
探偵の足許は崩れる。
おお。
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――などということを書いていたら、そのうち例の「後期クイーン問題」の話になりそうだけど、私は、実はその辺はあまり熱心な興味が持てない。
「サプライズ」と「ロジック」について言いたかったのは、本当はもっと別のことだ。今回書いたのは、その前振りのようなものだ。抽象的で雑な自分理論よりも、他人の文章に即した、具体的なことが書きたかった。どうしてこうなってしまったのだろう。
だから、きっと次回も、「ロジック」を読むこと、について。