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襤褸は着ててもロックンロール

挑戦とバカミス――倉阪鬼一郎『三崎黒鳥館白鳥館連続密室殺人』について

恥ずかしい。前回のエントリのことだ。返す返すも未熟な感じがする。しかし今更消去するのも変だし、先に進まないような気もするから、とりあえず残しておこう。
今日は少しいつもの流れを止めて、最近読んだ作品について、思ったことを少し。
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【※倉阪鬼一郎『三崎黒鳥館白鳥館連続密室殺人』の真相に触れていますので、未読の方はご注意ください】


倉阪鬼一郎の『三崎黒鳥館白鳥館連続密室殺人』(講談社ノベルス、2009。以下『三崎』と略す)を読み終えて、なんとも言えない気持ちになった。
私はもともと、「バカミス」と呼ばれる作品は好きなほうだ。だから、「狙って書かれたバカミス」であるこの本を読んで、壁に投げつけたくなったりはしない。しかし、単純に絶賛もできない、モヤモヤとしたものが残ったのも事実なのだ。そのモヤモヤの正体はいったい何なのか、考えてみたくなった。
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作品本編に入る前に、少しだけ。
バカミス」とはいったい何なのだろう。ウィキペディアの「バカミス」の項には、<「そんなバカな!!」のような、感嘆、賛嘆などの意味を込めたもの>とあり、また<この系統にはリアリズムの議論は意味をなさず、むしろそれらを犠牲にしてでもミステリのゲームとしての意外性・娯楽性を過剰に追及したものが非常に多い。意匠やロジック・トリックの意図的なバカバカしさ(故意犯的な意外性)をさしての用法、過剰なこだわりによる結果論としての意外性をさしての用法の双方が混在しているため、カテゴライズとしてはやや紛らわしいのが現状である。>と書いてある。<故意犯的な意外性>という言葉の意味はややとりづらいが、つまり、「作者が故意にバカなことを狙って書いた」というような意味合いだろうか。
ある傾向の作品群に「バカミス」という言葉が与えられ、存在が積極的に認められるようになったのは、ここ最近の、しかも日本の読者に限ったことだろうから、当然、昔のミステリ作品には、読み手にも書き手にも、そういう意識は薄かったと思う。しかし、故意であれ無意識的な結果論であれ、そういったリアリズムに反するような、ぶっとんだ、言わば稚気を好む心性は、「バカミス」の発見以前からも、長いあいだ存在していたはずだ。
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個人的には、「狙って書かれたバカミス」も好きである。「故意」に書かれたバカミスにはどうもノレない、という読者が多いことは知っている。いわく、「ミステリのために書かれたミステリというのは、どうなのか」「狙って書かれたバカは、バカなのか」。中には、「狙って書かれたものなど、作為が透けて見え、どうしても嘘くさい。全力で、真剣に書かれた、ピュアーな、無垢な、嘘やウケ狙いのない、天然のバカミスこそが真の、本物の、キュートな、愛すべきバカミスである」という人も、いるかもしれない。
けれど私はこう思う。たとえば、一人の「清純派グラビアアイドル」がいたとする。写真集、イメージビデオの類は数点発売され、ファンも多い。そこへ批判者Aによる、こんな声が飛んで来る。「これだけ自分の肌をさらして、それを男どもに売り捌いて儲けているような女の、いったいどこが清純なのか」。
ファンのBはこう答える。「あくまで清純「派」だから、良いのだ。清純なイメージでさえあれば、良いのだ。表面にあらわれたこと、それが全てなのだ」。
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わかりにくい喩えだったかもしれない(間違ってるかも)。ミステリの書き手は一般に、ジャンル意識が強い。ここで「ジャンル意識が強い」というのは、「ミステリを書くぞ、と思って狙って書いている」という意味だ。ジャンルを意識するということは、ある傾向の先行の作品群を高峰として乗り越えるべく意識するということだ。そして「バカミス」というジャンルを意識して書くことも、また。そのこころざし、既存のものに対する戦闘的精神が、「ミステリを書く」こと自体とも共通するがゆえに、私は、「狙って書いたバカミス」も好きなのかもしれない。
ただ、その意識が、身内的なウケ狙い、単なる手癖のようなものに堕した時、私は、そんな作品を面白いと思えない。狙って書いて、つまらない作品も、あるだろう。それは「狙って書いたバカミス」がつまらないのではない。その作品がつまらないだけだ。
「突き抜ける」ことを意識して、実際に突き抜ける。それは難しいことだし、私は、ありだと思う。
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北村薫の『ミステリは万華鏡』に、こんな一節がある。
自作がテレビドラマ化される際、あるひとつのトリックをめぐって、Aという方法が、より面倒な手順をひとつしなくて済むBという方法に改良されていた(実はBも、テレビで見ていると理解が難しいようなのだが)。そこに小説と映像の違いがあるという。

本格ミステリ作家としては、いかに無理があろうと、より不可能な状況であるAに挑戦したくなる。それが読者に分かるかどうか、ましてや実行出来るかどうかなど、問題ではない。そのことにより、自分の世界が作れるかどうかが問題なのである。だからこそ、小説だともいえる。(第14章 《73》の謎)

私はこの一節に共感する。小説としてのミステリには、現実的な論理、誰でもが筋道を追えて納得できるリアルな論理が必要であるにも関わらず、それだけではつまらない。現実に反するような、アンチリアルな突出するところがなければ、フィクションを創り上げる意味はない。その矛盾する二つを両立させるのは難しい。でも難しいから面白い。
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長くなってしまった。『三崎』の話だ。
倉阪鬼一郎の作品は70冊近くあるそうだけど、私がこれまで読んだのは、10冊くらいだ。倉阪作品の中でも、ある一定の傾向の作品群があることは知っている。つまり、描写が曖昧模糊としていて、読んでいても何だかよくわからない。ところがある瞬間、ビックリするような真相の開示があり、その視点でこれまでの描写を再読すると、「ああ、そういうことだったのか」と、一挙に腑に落ちる。そういう作品。私が初めて読んだのは、確か『四重奏 Quartet』だったと思う。
『三崎』もこの傾向にある。
本文中で、犯人の一味である「父」が、被害者である「黒鳥」に対し、こういう言葉を語る。<「わたしが手本とした作家〔倉阪鬼一郎のこと〕は、次のような理想を語っておりました。〔……〕すべての文章、ひいてはすべての言葉が伏線になっているミステリーが、彼の理想なのだそうです」「すべての言葉が伏線? それって、ただの病気じゃないのか?」「病気です。さすがにそれは無理でしょう。ただし、すべてのページに伏線が地雷のように埋まっている。答えが暗示されている。そういう作品なら書けるのではないかと、わたしは考えました」>(「もう一つの謎解き」)
個人的には、「すべての言葉が伏線となっているミステリ」がもしあったとしても、それはきっとつまらないものだろうと思う。なぜなら、ここでの「すべての言葉が伏線となる」とは、「すべての言葉がミステリとしての仕掛けに奉仕する」という意味であり、一方で小説の面白味はしばしば、テーマと関係の薄い脱線や、風俗的な描写、あるいは複雑な主題の絡み合いなど、単線的な仕掛けに収斂してしまうことのない多面性にこそあるから。しかし、この「すべての言葉が伏線になる」という理想を、決して達成されることのない、永遠の目標として掲げ、追求するべきものとする姿勢には、共感できるところもある。
私は『三崎』を読みながら、スタンリイ・エリンの『鏡よ、鏡』の文庫版解説を読んだ時に印象に残った、次の言葉を思い返していた。つまり、『鏡よ、鏡』は、「長い短編」である、と。
すべての言葉を伏線とする、つまり作品のすべてを技巧で埋め尽くしてしまうやり方は、ふつう、短編にこそふさわしい。「ミステリの醍醐味は短編にある」という言葉の意味は、そういうことだと思う。短編でこそ、アイデアやテクニックを十全に追求できる。逆に言えば、長編では単なるアイデアやテクニック以外の要素が必要になる。でないと持たない。『鏡よ、鏡』には、『三崎』と似たところがある。曖昧な描写。幻想的な展開。そして、真相によって理解が訪れる(暗号も出てくる)。
何が言いたいかというと、テクニックへの志向性によって『三崎』は、ひいては倉阪鬼一郎による一連のバカミスは、短編的な性格を持っている、ということだ。ところが、『三崎』を短編化することはできない。『三崎』には、作品としてある程度の長さを持つことによって、達成される仕掛けがある。そしてまた逆に言えば、短編的な性格を持つからこそ、シリーズのどの作品も、だいたい200ページくらいで収まっている。300ページとか400ページとか、それ以上は長く書けない。
そこがユニークだ。
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長編には、ふつう、長い分量を読ませるだけの物語としての牽引力が必要になる。ぶあつい時間が流れるなかで、物語は進行し、展開される。一方ミステリの短編の場合、物語としての牽引力は必ずしも要請されない。トリックなどのアイデアがある。それをじゅうぶんに展開させるテクニックがある。しばしば、それでもう完結してしまうのだ。シリーズ探偵がいる。事件は一昼夜で解決される。スマートだ。記憶に残る。ここに感情移入だとか、共感だとか、教訓を読み取るだとかが入る必要は特にない。むしろ邪魔になることも多い(たとえば、漫画『金田一少年の事件簿』の短編作品は、事件本体に対し犯人による動機の告白が長すぎる、ということが、ネタになっている)。
バカミス」として人気の高い作品に、島田荘司の『斜め屋敷の犯罪』や『北の夕鶴2/3の殺人』などがある。「バカ」というわけではないが、トリックに非常にインパクトがある。だいぶ昔に読んだから、私もほとんどもうあの印象的なトリックしか覚えていない。けれど、『斜め屋敷』の場合なら復讐の情念の物語を、『北の夕鶴』なら主人公と妻との物語を読んだ、という記憶はある。どちらも、一発でわかる、理解しやすい大掛かりなトリックだ。でも、それを短編で披露されても、ただのパズル・クイズ的な、軽い印象しか残らなかっただろう。今とはずいぶんイメージが違ったと思う。つまり、長編として総体的に迫ってくることによって、そういう「長編作品」として、受け取られた。
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『三崎』は、そういう長編物語としての小説の魅力を、ずいぶん乏しくしている。ここに人物描写の巧みさだとか、哲学的な知見だとか、時代風俗に関する詳細さだとかを求めるのは、難しい。だから、もしこの作品を読むならば、「バカミス」としての実験性と対峙する。この点が主眼になると思う。
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ナボコフに「ヴェイン姉妹」という短編がある。『三崎』を読んで、この短編のことを思い出した。いま、手元にある『ナボコフ短編全集2』の、作品に対するナボコフ自身の注釈によれば、<この短編で語り手は、死んだ二人の女性が物語への神秘的な参与を主張するために、最終段階をアクロスティックとして使ったことに気づいていないらしい。このトリックは小説史上、千年に一度しか使えないものである。それがうまくいったかどうかはまた別問題だ>(作品社、2001)とある。
アクロスティックとは、行頭の文字をつなげていくと文章になっているとか、そういう仕掛けのことだ。他の普通小説で存在するのかどうかは不勉強でよくしらないけれど、ミステリだったらいくつか、あったと思う。暗号によるメッセージや、作中作などで。
そういった言葉遊び、あるいは文章に暗号をしかけるやり方を読むと、どうしたって「文章」に対する作為性を意識せざるを得ない。暗号によるメッセージにせよ、作中作にせよ、作品中で「これは書かれた文章である」ということがはっきり前面に出てきているわけだ。でなければ、「ヴェイン姉妹」のように、語り手の意識が他の存在によって操作されていた、といったような、テクスト操作に対する根拠、必然性が欲しくなってくるのは、当然のことだ。
そこが難しい。
次作の『新世界崩壊』に、<ある変態系のミステリー作家によると、地雷型の暗号にいは、その暗号が作られた最低限の意味づけがなされていなければならないという話だ>(p146)という、主人公によるセリフがあるが、これは倉阪鬼一郎自身のマニフェストだと言って良いと思う。私は、『新世界崩壊』の場合は、なかなか厳しいように思った。
比較的うまくいっているように感じたのは、『内宇宙への旅』(徳間デュアル文庫、2002)だ。これは主人公が「作家・倉阪鬼一郎」でやや私小説のような趣きもあって、とても面白く読んだ、好きな作品だ。
『三崎』はどうだろう。
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具体的に見てみよう。『三崎』の約半分は、作中作「三崎黒鳥館白鳥館連続密室殺人」で占められている。作中作の外、いわば「現実」の側にいるのは、被害者である「黒鳥」、そして犯人側である「父」と「息子」。主要な人物はたったこの三人だ。この作品を物語として要約すると、どうなるだろう。黒鳥に家族である「美鳥」を殺された、と思った父と息子は、復讐のために銭湯を改装。暗号とネタを仕込んだ「三崎黒鳥館白鳥館連続密室殺人」を書きあげ、黒鳥を銭湯に招き寄せ、作中作を読ませてじっくり恐怖を味わわせたあとで、殺す。そして打ち上げの宴を持つ。
こういうふうになるかと思う。
作中作で特異なのは、やはりその曖昧な描写だ。「作者が地の文で「〜はこうではない」「〜はそういうトリックではない」と出てくるのが出しゃばりで不自然」という意見がネット上であったけれど、私は、作中作という言い訳もあるし、あまり気にならなかった。それ以上に気になったのは、その情景描写自体だ。
作中作におけるネタを解説すると、その主眼は、「「黒鳥館」「白鳥館」という二つの館で起こった密室殺人に見えたが、実は、二つは銭湯で隣り合う男湯と女湯だった」ということになるだろうか。私は、この点を、もっとも厳しく感じた。二つの館が、全く「館」に感じられないからだ。もちろん、ペンキ絵に書かれた「洋館」を描写することによるミスディレクションはある。「これが本当に館か?」という違和感を持たせること自体を狙いとする意図があることもわかる。地の文による説明的ながら実は曖昧な描写はヌーヴォー・ロマンふうの文体を思わせ、面白く思ったのも確かだ。
ただ、私は、ミステリにおけるサプライズのためには、「錯覚」がなければいけないのではないかと思う。最近よく使っている言葉でいえば、「風景A」だと思ったら、実は「風景B」だった、という錯覚。つまり、風景を一つの具体的な風景として認識するのでなければ、サプライズは起こらないのではないか、と思う。たとえば、「V 黒鳥館」における「奥の部屋」のシーン。

そういえば、この奥の部屋には円形の意匠がいやに多いな。//抽象画を描く上林はその部分に着目した。矩形の黒は近すぎて見えないが、円形のものは見えた。黒鳥館の奥の部屋には、大小の円形のものが整然と並んでいた。//円形の赤、そして青。/さらに大きい円形の黄色……。

「円形のもの」。なんだかよくわからない。勿論、こうした謎めいた言葉によって興味をひっぱる手法があることは知っている。しかし、作中作の中では、ただでさえ、二つの館の内部は全く館に見えず、もやもやとしているのだ。私は、こういった部分は、非常に中途半端な描写であるように感じた。叙述トリックにおいては、不思議はないと思い込んでいた風景が、実は全く別物であったことが判明する、そこにサプライズが発生するのではないだろうか。性別誤認トリックを例にしよう。男だと思っていたら、女だった。これが性別の錯覚を利用したトリックだ。しかし、男だか女だかよくわからない人物が、女だと判明した。これは錯覚ではない。同様に、「円形のもの」もなんだかよくわからない言葉だ。この正体が「実は●●だった」と判明したところで、それは錯覚ではない。サプライズではない。
「円形のもの」は、一つの例だ。先述したように、謎めいた言葉で興味をひっぱる手法はアリだと思う。しかし、この作中作の描写は、曖昧さが基調となっているため、「なんだかよくわからないけど、どうせ解決シーンで真相が明かされるんだろうな」、という心構えで読んでしまう。不思議はない、と思っていたものをひっくり返す。そこに不意打ちの衝撃はあるはずだ。小説の三人称地の文による描写は当然、何を描き何を描かないかの点で、かなりの恣意性がある。その不自然さを不自然と思わせない手法は、特にミステリにおいて、これまで非常に開発されているし、あえてひっかかりを残すやり方も、むしろ私は好きな方だ。ただ、本編では50%だけ描写し、真相において100%一気に視界を開く、というのが目立つやり方は、あまりうまくないというか、ずるい気がした。その恣意性が問題編全編にわたって際立つとなれば、読み進めるのがツライし、叙述トリックとは言えないのではないかと思う。だから、「実は銭湯だった」と明かされても、驚きは皆無だった。もし、この「実は銭湯だった」に驚くとすれば、それは、「Bだと思っていたらAだった」というミステリとしてのサプライズではなく、「そんなしょうもないことを実際に書くなんて」というだけのことなのではないか。なんとなく、その方向は、ネタのためのネタ、付き合えるのはファンだけといった内輪でしか通用しないものになってしまう危険性があるような気がする。
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先に書いた暗号について。『内宇宙への旅』は、好きだ。しっくり来た。暗号は描写以上に、作為感を与える。『三崎』はどうか。暗号は作中作において埋め込まれるわけだが、実は私は、気づかなかった。だから、知らされた瞬間、「黒鳥」と一緒に、驚いた。怖くなった。「父」も、黒鳥に違和感および恐怖を与えるために小説を書いた。成功しているんじゃないかと思った。なんで殺す前にわざわざそんな七面倒臭いことを、という疑問は残るが……。きっとその辺が、「バカミス」と呼ばれる所以だろう。
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【以下、駕籠真太郎『フラクション』について真相に触れていますので、ご注意ください】


さて。
長い駄文もそろそろ終わり。
実はここからが、私のもっとも言いたかったことだ。
ちょうど一年前、駕籠真太郎のミステリ漫画『フラクション』について感想と気になったことを書いたhttp://d.hatena.ne.jp/kkkbest/20100919。最後らへんはかなり尻すぼみな感じだが、それは私の力不足だ。恥ずかしい。この『フラクション』と『三崎』に興味を持ったのは、ミステリ作家の藤岡真による紹介を読んだからだ。
まず『クラクション』が気になった。一年前に読んだ。『三崎』も同様に読みたかったが、これはずるずると今日まで延びてしまった。
興味深く思ったのは、この二作がほぼ同じ構造を持っている点だ。まず、作中作がある。それを書いた作者のいる外枠がある。その二つのパートが同時進行する。犯人である書き手が、被害者にそれを読ませていたことが明らかになる。そして、叙述的なトリックと物理的なトリックの二つが仕掛けられている(「あまり売れていない」作者の名前が出てきたり、ページ数を指定したリプレイ=再読による真相解明シーンがあったりもする)。
ついでに言うと、『フラクション』も、たとえば『金田一少年の事件簿』の長編などと比べると、中編くらいの長さと言えるんじゃないかと思う。ただ、『フラクション』には、どちらのパートにも物語としてのエモーショナルな感じがある。特に「駕籠真太郎」のパートは、楽屋ネタめいたリアルさに裏打ちされているが、真相によって、それは消し飛んでしまう。
『三崎』の刊行は2009年9月。『フラクション』は同年12月。偶然というか、よくある作品構造なのかもしれないが、この二作が同時期に出てきて、「バカミス☆アワード」を同時受賞して評価されたことは、面白い。
そして『三崎』でもっとも異様に感じたのは、ラストが2パターン用意されていることだ。憎き黒鳥を殺害した父と息子は、三崎町の飯屋「土蔵まぐろ」へ打ち上げに向かう。そして<明るい地上と秘密めいた地下>のどちらかへ案内される。そこが分岐点だ。
まず地上階。光あふれる座敷で、死んだ美鳥を偲びながら、二人は飲み食いする。そして最後の死体解体作業をしに、鳥の湯へ。そこには<新しい鳥の湯の幕開けを祝福するかのような光が宿っていた>。
次に地下。名前も番号もない「奥の部屋」へ通される。窓のない奥の部屋には、三浦半島から眺めたような構図の赤い富士山の絵が描かれている。絵の手前には、顔のない二人の人物。BGMは「城ヶ崎の雨」。特性のカクテルが勝手に通される。倉阪鬼一郎に似た店員が給仕する。そして二人は、自分たちの「名前」を思い出すことができない。鳥の湯へ帰る。光が見える。<尖塔が光り輝いている。/ことにその先端には、凶事の幕開けを告げるかのような赤い光が宿っていた>。
私が『三崎』でもっともひきつけられたのが、この地下パートのラストだ。この謎は解かれない。いったい、何なのだろう。引用した地下パートのラストは、実は小説の「プロローグ」の文章とまったく同じものだ。「プロローグ」は、父の書いた作中作に含まれている。つまり、虚構が最後に現実化する。
駕籠真太郎の「フラクション」を思い出していただければ、二作とも同じ趣向になっていることがわかるだろう。犯行の成功を祝う作中作の書き手=犯人の現実が、自らの創り上げた虚構に脅かされる予感。
『三崎』の地下パートのラストについて正確なところはよくわからないが、少し類推してみる。幻想小説として『三崎』を読んだ場合、もっとも面白いのは、「絵」に関するテーマだ。作中作の被害者が皆、大学のファインアート研究会の会員。それにともなって、地の文でも絵に関する蘊蓄が語られる。そして犯人のひとりで画家の「鳥海翔」は、<平面に描かれたものなのに、なぜこんなにも立体的に見えるのか。随所に暗い襞のようなものが描かれている気がするのか。/観客はただちに指摘することができないようになっている>ような、騙し絵にも似た「鳥海タッチ」と呼ばれる独特の技法を開発した。もちろん、これは『三崎』全体にも通用するテーマだ。作品の真相は、かなり非現実的だ。物語としてもうすい感じがする。つまり二次元的な感じがする。美鳥の死の様子も、最後までよくわからない。
小説は、地上階パートのように明るく終わることもできた。しかし、二人は地下へもぐった。そこには奥行きがある。そこは薄暗い。二人は、自分たちの名前を思い出せない。二人には名前が与えられていない。彼らは、自分たちに実は過去がないことを知る。彼らは薄っぺらな人物たちだ。そして虚構と現実の反転。
このラストによって、『三崎』は、たとえば『火刑法廷』のような、曖昧な、幻想性を持っているのではないかと思う。
   ※
また長くなってしまった。『三崎』については、これで終わり。
最後に、再度「バカミス」について書きたい。冒頭で、「狙って書いたバカミス」は、先行に対する挑戦がある、と書いた。『三崎』を例にとれば、もし今後『鏡よ、鏡』『三崎』路線の「バカミス」の傑作が書かれるとしたら、私は、こんな作品を読んでみたい。
・アイデアがテクニックによって作品全体にわたり十全に展開されている
・ほぼ全編が伏線となっている
・(そんなに長くなくてもいいけれど)作中作に合理的な暗号が仕掛けられている
・描写にあまり不自然さがない
・「バカミス」といえるくらいトリックに突き抜けたバカバカしさがある
・長い。『三崎黒鳥館白鳥館連続密室殺人』の二倍くらいある
・長編物語としての大きな時間の流れや叙情性がある
叙述トリックと物理トリックの両方が仕掛けられている
・最後に、作中作の虚構と枠の外の現実が交差し、幻想味を持つ
これらはほとんど互いに相反するか、矛盾するものだ。これら全てを成立させる長編はありえないんじゃないかと思う。
しかし、その物理的のみならず小説的な不可能をも可能にする錬金術こそが、まさにミステリだけに行える魔法であり、そういった傑作こそが、挑戦に値するものなのではないだろうか。

三崎黒鳥館白鳥館連続密室殺人 (講談社ノベルス)

三崎黒鳥館白鳥館連続密室殺人 (講談社ノベルス)