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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

続・自意識そしてユーモア――松尾詩朗『彼は残業だったので』を読む

【※松尾詩朗『彼は残業だったので』の真相に若干触れていますので、未読の方はご注意ください】
承前
引用が続いたついでに、もうひとつ引いておこう。

これは後藤明生が小説論のなかに書いていた言葉ですが、「読んだから書いた」というのが、小説家として、なぜ小説を書くのか、という質問に対する答えだ、ということになるでしょうか。/もちろん、こうした言い方が、別にポストモダンというわけでもありませんし、ことさら知的というわけでもないのです。(金井美恵子『小説論 読まれなくなった小説のために』)

 読むことが書くことを進める。しかしここで重要なのはエリオットの言うように、複数のものさしを持つことだと思う。そのものさしのネットワークを築いてはじめて、彼らとのあいだに批評的なスタンスをとることができる。野心的な書き手なら、たとえばミステリの場合、ポーがいて、ドイルがいて、ヴァン・ダインが、クイーンが、クリスティーが、カーが、バークリーが、日本なら夢野久作が、小栗虫太郎が、江戸川乱歩が、……というふうに連綿と続く山脈を登りながら、もちろんミステリから離れた視座から、ミステリという分野自体に対するスタンスをも計算しつつ、そこに何か新しい価値をつけくわえたいと思うだろう。単に彼らのような作品を書きたいというのではなく、彼らのような緊張度でもってある達成を自分も成し遂げたいと思うだろう。
 でもそれは並大抵のことではない。緊張ばかりしていても進まない。力が足りなかったり、関心が続かないこともある。だからどこかで開き直る。目をつぶったり、諦めたりする。しかしそれでも彼らは、書く私を見張っている……。前回とりあげた、いわゆる「自意識」の源の一つは、この辺りにあるように思われる。
 そして『彼は残業だったので』はまさに、「読んだから書いた」小説なのだった。カバー袖の「著者のことば」で、著者は次のように書いている。

推理小説が好きでした。幻想的な謎、意外な結末、軽妙な会話。最近のミステリーに、めっきり見られなくなった要素たち。/しかし、そんなものを擁した小説が、現代においても書かれていることを、ある日知らされました。――島田荘司氏の『占星術殺人事件』です。/それを読んでから、なぜか私は使命感にかられてしまったのです。自分も書かなくては。

 また島田荘司は本の裏表紙で、江戸川乱歩『陰獣』や『パノラマ島奇談』など→高木彬光『刺青殺人事件』→島田荘司占星術殺人事件』という「鎖のようにからんで繋がっている」「わがミステリーの歴史」の流れをざっと紹介し、その「本格推理の系譜に連なる新人」として、著者を紹介している。
 ※
『彼は残業だったので』を読むと、ほとんどの読者が、作品と自分とのあいだの意識のズレに、戸惑いを覚えるのではないかと思う。
 読み手と書き手とのあいだの一貫した意識のズレが、図らずもユーモアを生じ、それを楽しむ、という読み方がある。たとえば、taipeimonochromeさんがここで、「ダメミス」「キワモノマニア」といった言葉で試みているのは、そうしたズレをとっかかりに作品を楽しもうというスタイルだ。実際にこうした見地から面白味の堪能できる作品は、いくつもある(草野唯雄『甦った脳髄』がその代表例だろう)。しかし私はもう少し違う角度から、このズレを眺めてみたい。
 ※
 評判は前々から聞いていたし、倉阪鬼一郎『三崎黒鳥館白鳥館連続密室殺人』のあとで感じた私自身のズレや、TOKKY.COMさんの「自意識」というキーワードを見たあとだったので、この『彼は残業だったので』を読む時は、「書き手と読み手の意識のあいだ」ということにとりわけ注目して、読み進めようと思っていた。
・ユーモア小説として読む
 では、いったいどの辺りに、ズレを感じるのだろうか。まず、作品のたたずまいに関して、チグハグな点があるように思った。この本はカバー袖にあらすじ紹介があるのだが、そこからして既に、ちょっと可笑しい。

情報処理会社に勤める中井は、残業中、魔術の本を読みふけっていたら、オフィスのオートロックがかかり、閉じ込められてしまった。時間をもてあました彼は、“憎い相手を呪い殺す”呪術を試してみることに……。日頃、憎らしく思っている同僚野村裕美子と佐藤輝明の人形を厚紙でつくり、火をつけた!二人は前日から無断欠勤していたが、はたして三日後、佐藤の部屋から男女の焼死体が発見された。(以下略)

「残業中、魔術の本を読みふけっていたら」って、それは残業といえるのかと思うし、時間ももてあましたので呪術を試してみた、というのも結構なアクロバットだ。こうした紹介から感じとれるのは、まずユーモアの雰囲気だ。このあらすじを読んで『薔薇の名前』のような重厚さを期待する人はいないだろうし、先ほど挙げられた江戸川乱歩高木彬光島田荘司といった作家の作風も思い浮かべにくい。しかし、「ユーモアミステリ」とは銘打たれていない。ならば「甦った脳髄」タイプの意図しない(あの作品はそうですよね?)ユーモアなのかと思えばそうでもなく、狙って書かれた笑いがこの作品には意外に書きこまれている。

「私は、それほど人生に疲れていませんから。こう見えてもまだまだ若いですし、元気です」(……)ここで東京人の名誉挽回とばかりに、私はやせ我慢のカラ元気を絞ってガッツポーズをして見せた。しかし、寒さのせいでできた目の下のくまを指摘され、やはり笑われてしまった。

 この辺りはかなり『六枚のとんかつ』にも非常に近い、笑いを誘うトホホ感がある。実際、この作品の第一章の途中まで、「おっ、これはやっぱりユーモアミステリなのかな」と思いながら読んだ。しかし、そこへいきなりシリアスな挿話が入ってくる。準主人公・中井がSE業界に入って間もない頃のこと。現在とは違う職場で隣の席に親切な先輩がいた。納期が迫り、先輩が徹夜続きで風呂に入る暇もなく仕事を進めていたある日。<その時少々臭っていた先輩に向かって、リーダーは心ないひと言を投げた。/「おい、臭いぞ。どうせ仕事もできず女にも相手にされないんだから、せめてまわりに迷惑ぐらいかけないようにしてくれよ」/言い終わらないうちに、先輩はデスクから立ち上がっていた。/中井が声を上げた時はもう遅かった。/立ち上がった先輩は、そのまま窓から飛び下りた。>
 この「いきなり」さは怖い。それまで笑いながら読んでいたところへ、不意に人間の死が描かれる。その急さがまた重く感じられる。『六枚のとんかつ』には絶対にない重さだ。またこの作品に出てくる殺害された二つの死体は、「干物のように変質」し、人物が識別できないほどに火で焼かれ、切り刻まれ、しかも各部位は小枝によってつながれている。あまりにも異様で、残酷で、ユーモアどころの話ではない。その怖さとユーモアが、どこか足並みのそろわない印象を受けた。
 前回も少し触れたけれど、一作の中に残酷さと笑いが同居している例はいくつもある。最近で言うと小林泰三や道尾秀介だとか。ではなぜ『彼残』を、テンポが乱れたふうに感じたのだろう。それはギャグが入っているとかいないとかではなく、もう少し別のところに起因するのだと思う。
・風俗小説として読む
 舞台は1998年。刊行は2000年だ。最近知ったのだが、日本ミステリー文学大賞新人賞候補作だった。いま読むと、作品に描かれた風俗には、微妙に懐かしい印象がある。語り手の門倉は38歳、フリーのカメラマンだが、携帯電話を持たないことにこだわりを持っている。現在ほど誰もが携帯電話を所持する時代ではなかった。
 だが1998年といえば、何といっても不況だった(はずだ)。この時期の超就職氷河期が、のちに作家を続々と輩出した、とも言われる。しかし『彼残』の中に、不況の影はうすい。よく「昭和テイスト」と言われるけれども、この場合の「昭和テイスト」とはいったい何だろう。私は物心ついたのが平成なので推測になるけれど、強いて言えば高度成長期のイケイケドンドンな感じ、現在よりも大らかな感じのことだろうか。そしてそのヴァイブスは、現に作中に現れている。
 メインとなるのはSE会社と今風だけれど、ここの職場は凄い。「社長を入れて、たった六人の小さな会社。ひとりは営業、あとの三人は、プログラマーとは名ばかりのワープロ作業員」で、仕事のほとんどは中井が支えているという。三人のプログラマーのうち、二人はアルバイトの主婦。年長のほうの米田は「38歳で、高校生の息子を持つ」が、「どんぐり型のボブカットは洗いざらしで、すでに半分ちかくが白髪」。「不潔そうなレゲエ・ヘア」(ドレッド・ヘア?)の正社員の若い男・佐藤は遊んでばかり。佐藤が入社して3日も経たないある時、彼は自分の恋人の写真を社員に紹介する。「顔がはっきりしてるな、こういう娘にシステムのインストをやってもらうと、客の食いつきも良くなるんだがな。おい佐藤、彼女もうちへ就職させろよ」と営業の正社員が軽口を叩く。
「38歳で半分ちかくが白髪」にしろ、まだ入社間もない新人に「彼女も入社させろよ」にしろ、今では現実に考えづらいが、1998年の時点でもめったにない光景だったのではないか。若い佐藤はこの後殺害されるが、彼の部屋は「会社が独身寮として賃貸契約をしている」という(社員六名の会社で!)。彼は月曜から無断欠勤し、金曜に死体として発見された。

「ずいぶん悠長な話だな。一般企業は、不景気でリストラとかが盛んなのだろう。そんなご時世に、無断欠勤をしても会社は何も言わなかったのか」「コンピューターの、システム開発だとかをやっている会社なんだそうですが、この業界の人間は勤怠に関してはそうとうルーズなんだと、鈴木は言っていました。少しでも注意したりしようものなら、すぐに辞めてしまうのだとか」「本当か? そんならコンピューター会社の人間は、社会の常識をわきまえない連中ばかりってことになるな」

 私はコンピューター関連会社に詳しくないので何とも言えないが、この作品は上に述べたような感じで、企業を舞台にしながら平均からも少し外れた、大らかな、ゆるい気分が全体を覆っている。前回の『本と怠け者』におけるサラリーマン作家・源氏鶏太をとりあげた一編から、私はこんな箇所を想起した。

<戦前までのサラリーマンの出張は、たいへんけっこうなものでした。(中略)かりに、一カ月もの長期出張を命ぜられると、出張旅費のうちから、一カ月分の棒給ぐらい残るだけでなしに、その上、出張していれば、自分の生活費は別にいらないので、たちまち金満家になります>//戦後は事情が変わった。会社に旅費規定が作られるようになり、インフレが昂進していたので、規定の改正が追いつかず、出張すると足が出ることもあった。/こんな話もある。//<その昔、いちばん旅費を節約する方法は、遊郭に出ることだといわれていました。夕食をすませてから、映画かなんかを見て、十二時ごろに遊郭へ出かけると、普通の宿賃の半額ですんだのだそうです>//のどかというか、なんというか。終電を逃してインターネットカフェに泊る今時のサラリーマンとはずいぶんちがう(「サラリーマン作家」)

『彼残』はフィクションだが、源氏鶏太の回想は現実だ。現在にいる私は、そのどちらにもズレを感じる。しかし、『彼残』の中の大らかさは、今の平成よりもむしろ昭和に近いように思われる。もちろん、準主人公の中井は残業でいつも終電近くで帰るなど、きついこともある。しかし彼にしても、夜中に会社ビルに閉じ込められてのんきに魔術など試しているのだ。
 ※
 うーん……無駄に長くなってしまったので、もう一度だけ続きます。

彼は残業だったので (カッパ・ノベルス)

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