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襤褸は着ててもロックンロール

続々・自意識そしてユーモア――松尾詩朗『彼は残業だったので』を読む

【※松尾詩朗『彼は残業だったので』の真相に若干触れていますので、未読の方はご注意ください】
承前
・幻想ミステリとして読む
 前回紹介した「著者の言葉」に「幻想的な謎」という語があるけれど、ほとんどのミステリはある程度、幻想性を含んでいる。ここでは仮に、その幻想性を「日常的なものからの逸脱」あるいは「超自然的なもの」としておこう。それは多くの場合、「不可能な謎」として現れる。通常では考えられないようなことが、起こった。しかもどうやってかはわからない。合理的な論理は拒否されるし、何か人間を超えた存在を信じたくなる。
 その幻想性は『彼残』では、準主人公の中井が行った「魔術」が担保している。しかしこの作品に幻想性が希薄に感じられるのは、幻想部分を支えるはずの中井が第三章でフェードアウトしてしまうからだ。以前にも書いたように、ミステリでサプライズが発生する場所を、ある風景Aがまったく違う風景Bに塗り替えられるところだとしてみる。「幻想的な謎」をクローズアップしたい場合は、この「風景A」をまず、そのように構成する必要があると思う。
 たとえば、ある村にひとつの伝説がある。●●の季節にタブーを犯した者は怪物☓☓に恐ろしい殺され方をする、というもの。たまたまタブーを犯した人間がいた。伝説通りに死んだ。不可能状況だ。果たして怪物☓☓の仕業なのか。常識的に考えるとありえない。しかしそれを裏付ける状況はいくつもある。捜査のあいだ、誰もが☓☓の存在を感じとっている。ここで読者は、現実的な視線(ミステリとしての合理的な説明を探るライン)と超現実的な視線(事件の表面を覆うミスリーディングのライン)の二つの眺め方で、ひとつの現象を見ざるをえない。
 もちろん、『彼残』にもミスリーディングの視線はある。けれどそれは、被害者の恋人・南くりすが犯人として疑われるもう一つの「現実」なのであって、決して中井が行った「魔術」のそれではない。「幻想的な謎」で作品を構成するには、この「魔術」説を引っ張る必要があったと思う。しかし、第三章からかなり後の方まで、中井は出てこなくなる。いや、ちゃんといるのだが、語り手に語ってもらえない。だから中井の行った魔術の存在は、彼と読者とのあいだでしか共有されない秘密、といった扱いになるし、語り手も以降、意識に出すことはない。「幻想性」はこのために減じているのではないか。
 また、上で「幻想性」を「日常的なものからの逸脱」と仮定したように、幻想性と日常性は調和しがたい。だから幻想性を追求するためには、なるべく日常から隔絶された、村や山荘、島、館などに閉じ込められたほうが良い道理である(「本格は雰囲気」という言葉は、この辺りに一端があるように思われる)。この作品でいえば、観光地でのお土産や、オフィスで間食する煎餅といった通俗的なアイテムは、雰囲気の面から言っても「魔術」とはマッチしにくい。
 たとえばそういった幻想の属性と日常の属性を、意識的に書き分けて一作のなかに同居させたのが、以前にとりあげた殊能将之作品だと思う。
・自意識そしてユーモア
 前回、前々回から何度か「自意識」という言葉を書いているけれど、実はTOKKY.COMさんが最初に書かれていた用法とは違う、かなり好き勝手な書き方を私はしていた。どう修正したものか、少し悩んだ。だから前々回を書いてから、ちょっと間があいた。そうこうしているうちに、TOKKY.COMさんのサイトでリンク(2011/10/22の項)していただいてしまった。恐れ多い。これも自意識かもしれない。ええい、開き直って仕上げてしまおう。
 私の混乱を整理してしめくくりたい。前回、「自意識」ということを何やら、「読んだから書いた」、ということに由来するのではないかと書いた。もし、自分の出自がある存在に負うところが大きいと意識した場合、何かを書こうと思うと、その歴史性を参照せざるを得ない。たとえばそれがミステリというジャンルだったら、ジャンルを意識することになる。そこにはある緊張がある。
 一方、TOKKY.COMさんがもともと書かれていた「自意識」は、もっと近代的な自我というか、内面というか、そういうことだったのだと思う。ホフマンの『黄金の壷』をとりあげて、このように述べられている。

二百年前の作品ということもあるのかもしれないが、どうもしっくりこない。そういう読み方をすべきものでもないだろうが、「自意識の不在」に出会っている。主人公が貧しく気弱であるということもその印象を強めているのかもしれないが…。主人公が幻想を見て奇行に及び、それを見た通りすがりの主婦に冷ややかな視線を送られるというくだりが冒頭にあるのだが、僕の方こそこのやや支離滅裂な展開にいたたまれなさを感じて目を背けたくなってしまうのである。

 私も去年、『黄金の壷』を読んだ。なかなか面白く読んだけれど、作中人物に馴染みにくいものを感じたのも事実だ。この主人公の突拍子のなさは、ビルに閉じ込められていきなり怪しげな儀式をとり行う『彼残』の中井の行動に通じるところがあるように思われる。(いまの)読者からの、共感を拒む感触。
『黄金の壺』の主人公の「自意識」については一度読んだだけなのでとりあえず置いておくけれど、読者と『彼残』の作中人物とのそういったメンタリティの違いは、ふつう、ある種のユーモアものとして作品を受け取る時、積極的に許される。先述の「幻想性」と似た論理でいえば、ハイテンションな変人・奇人が出てきたほうが笑いを引き出しやすい理屈である。それが『三崎黒鳥館白鳥館連続密室殺人』にように意図した場合もあれば、「甦った脳髄」のように巧まざる(?)場合もあって、どちらにも、登場人物とのあいだには特有の「ズレ」を覚える。
 その意識の「ズレ」は作中の人物のみならず、作品の語りからも受け取られる。たとえば『彼残』では、語り手の門倉が探偵役の立花を評して、<(映画の)寅さん。もしかしたらあの男、寅さんになろうとしているのではあるまいか>と語るシーンがある(二人とも寅さん好きなのだ)。読者がこの言葉をストレートにキャッチすることは難しい。なぜなら、私は『寅さん』シリーズを観た記憶をあまり持たないけれど、いまの時代に、脱サラして演劇研究所へ入り、フリーカメラマンになった38歳の男が、「寅さんが好きで……」と、なかなか他人へ素直に言明しづらいだろうことは、感覚としてわかるからだ。もし本当に好きだったのだとしても、それを語る際には、「一瞬、あれっと思ったでしょう、わかる、わかるよ、でもね、寅さんは本当はねえ、……」と、聞き手の反応に先回りするだけの屈託が必要ではないかと思われる。ましてやミステリの語り手を務める人物となれば、尚更だ。
 先に、伝統を意識する「自意識」ということを出した。いま書いた、読者と作中人物とのメンタリティと区別するために、それをひとまず「伝統意識」と呼ぼう。『彼残』も、ミステリの一つの流れの上にある。その流れを意識すると、必然的にある緊張が発生する。ミステリなら『モルグ街の殺人』があり、『占星術殺人事件』があり、……そうした先行作品群に比肩しようとするのはほとんどドン・キホーテ的所業であって、緊張せざるをえないだろう。『彼残』にももちろんそうした緊張はある。「幻想的な謎、意外な結末、軽妙な会話」と最初に著者が目標を掲げているのは、そうした決意表明にほかならない。けれど、これまで述べてきたように、作品としてはやはり堅くひきしまっているというより、様々な点で隙間が多く感じられる。それは普通のミステリとして読んでもそうで、被害者の抵抗もなくあんなにうまく焼けるものか、警察による切断面の照合などは無かったのか、犯人は人物誤認のため自宅を徹底掃除するがそんなことをしたらかえって怪しまれるんじゃないか、やはりこの方法は現代では難しく歴史ものの方が成功するんじゃないか、云々。
 実は、伝統意識がもたらす緊張度について、門倉が語る場面がある。それは小説についてではなく、写真に関してだ。旅先で重い機材を抱えて、

これで歩きまわるのは結構負担だが、このいで立ちでの撮影活動を億劫に感じるようになった時が、カメラをおく時期だと自分に課している。プロであれアマチュアであれ、カメラマンを気どる以上、空腹や披露に勝る撮影意欲を持ち続けねばならないと、私は思っている。/ずいぶん気負ったポリシーだが、そのくらいの情熱がないと、土門拳ロバート・キャパに対して申し訳ない。

〔門倉が土門拳の墓参りに〕カメラを持参するのは、訪問の度に土門の墓を撮影することで、自分の写真の腕を診てもらうためである。何を馬鹿なことと笑われるだろうが、私にとって、写真家土門拳はそんな存在なのだ。/しかし室生寺は、いまだかつて訪問したことがない。現在の私には、とても撮影しきる能力がないからだ。

 その一方、こんなセリフもある。門倉の説教を受けて、アマチュアカメラマンの野村健作が自分の機材自慢を反省する部分。

わたしの写真には気負いがあったのです。すごい写真を撮って同僚を驚かせてやろう。見せびらかせてやろう。そんなものばかりが先走っていたのかもしれません。ですから高価な機材をそろえて、フィルムなんかもプロと同じものを使えばいいと、単純に思い込んでいた。でも、それは違うんですね。門倉さんの言われるように、まず写真を撮りたい気持ち。それを持つことが第一歩なんですね。

 規範とそこからの解放でせめぎあう意識について、『彼残』はしっかりと述べている(写真についてだけれど)。そしてその点を踏まえていたとしても、緊張度をもって作品を仕上げることは難しい。そこから生み出されたズレが、この作品に独特のユーモアをもたらしているのではないか。
 ドン・キホーテの道は険しい。

彼は残業だったので (カッパ・ノベルス)

彼は残業だったので (カッパ・ノベルス)