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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

つらつらと9:続々・「ロジック」を読むことについて――『離れた家 山沢晴雄傑作集』を読む

ミステリ

【『離れた家 山沢晴雄傑作集』収録作品の真相について若干触れていますので、未読の方はご注意ください】
 (承前
だんだん自分の手に負えなくなってきた気もするが、まとめてみよう。
しかし、前回の「複雑さ」という言い方も大雑把だ。私はそれが、どのように複雑で、他のジャンルの持つ複雑さとどう異なるのか、検討しなければならないだろう。
 ※
ところで私はこれまで、「本格ミステリ」という言葉を何度か使ってきたけれど、ここには勝手ながら、「謎解きにおいて論理性を重視したパズラー」くらいの意味をこめている。ミステリファンの間ではもうずいぶん長いこと、「本格ミステリ」をめぐる議論が延々と繰り広げられてきており、インターネット情で「本格ミステリ 定義」で検索http://bit.ly/vBrpx9すると、実に多様な意見をみることができる。今の私は、「本格ミステリ」という、言葉、ジャンルの定義にはそれほど興味がない。私は「本格ミステリ」という言葉に確固たる真の実体があるなどとは思っていないし、本格が推理小説のなかで一番偉いとか、ミステリが文学のなかで一番偉いとか、そういうことも全く思っていない。私はミステリ以外の本も当然好きだし、読むけれど、「ミステリより純文学のほうが偉いよね」などと言われると反論したくなってしまう。「そのジャンルの特性とは何か?」をめぐる言説が有用でありうるのは、作品の可能性を広げる場合においてだろう。そういったこれまでの書き手と読み手の省察が、たとえば、「この現代に本格なんて時代遅れなのでは」「超自然的な現象を前提としたSFミステリなんて成立するのか」「殺人以外の問題をめぐる謎で長篇をもたせられるのか」といった問いに対して、回答を提示してきたのだと思う。
私が今この項でめぐりたいのは、ミステリにおける「ロジック」の周辺であり、「本格」と呼ばれる作品群のなかで「論理性」が重要であるのは、今なお変わりない(はずだ)。「論理性は必ずしも本格には必要ない」という説もあるけれど、とりあえずここでは、以上のような意味で使っていこうと思う。
という立場表明をしたあとで……。
 ※
というわけで、ロジックの周辺をめぐるために比較的短い作品を読んでみようと思いたち、『離れた家 山沢晴雄傑作集』を手に取った。面白かった。だが……巽昌章の「解説」があまりに素晴らしく、このうえ何か言うことができるだろうか、という気になってしまった。作品への理解がグッと深まり、本格とは何か、山沢作品に通底する世界観とは何か、といったことまで、入念に説かれている。
 ええい、私は自分の関心に引きつけて、読んでいこう。
北村薫『ミステリは万華鏡』に、山沢晴雄についての言及が少しだけある。

ミステリにおけるトリックというのは、イメージ的には、情と知に分ければ、後者で受け止めるものだろう。小説中で、トリックの解明をするというのは、機械の使い方を説明するのに似ている――と、いえなくもない。となれば、分かりにくかったらアウトのはずである。/だが、わたしは鮎川先生が、山沢晴雄氏を紹介した次の文章(『本格推理1』光文社文庫)を読んだ時に、胸がわくわくしてしまった。「(山沢氏は)足が地についたトリック小説を得意としていて、読者は一行一行をメモにとるくらい丹念に読んでいかないと、途中で何がなんだか解らなくなり、巻末に用意された意外な真相の面白さを味わいそこねる。」この《何がなんだか解らな》くなるというところが、わたしには実に嬉しかった。――理解されることを拒否しかねないトリックの存在。そこに、《詩》に近いものを感じた。/実際に、わけの分からないトリックが出て来たら、いらいらさせられるだけかもしれない。しかし、感覚的には、《こういうことまでやるからこそ、人間は人間なのだ》と思う。

ミステリの論理性について、「丹念に読んでいかないと、途中で何がなんだか解らなくなり、巻末に用意された意外な真相の面白さを味わいそこねる」ということは、たとえば有栖川有栖も、平石貴樹『だれもがポオを愛していた』(創元推理文庫版)の解説でこう語っている。

いったい何が起きたのか、という捜査を進めるにつれて大小の謎が湧きだしてきて、事態がますます混迷の度を増していく展開に、私は切なく懐かしいような興奮を覚えたものだ。そして、そうだそうだ、ミステリってこんなふうに楽しいものだった、と胸をときめかせながらページをめくったものだ。(中略)網の目のように張りめぐらされたいくつもの伏線がつながり、思いもかけなかった真相が、そうでしかない、と確信できるほどのロジックで暴きだされる。(中略)本編はどうかじっくりと噛み締めるようにお読みいただきたい。話についていくのが難しくなったら、前に戻ってきちんと理解してから進む、という労を厭わないこと。さもないと、作者がせっかく用意した特上の解決編にしびれることができなくなってしまう。面倒くさいかもしれないが、本格ミステリを楽しむとはそういうことだ。

なぜ論理が複雑化するのか。それは、そういった世界を作り出し、そういった作品を読みたいからだ。何もいたずらにゴテゴテと塗り重ねているわけではない。脆弱な論理は納得できない。簡単な真相は見抜かれる。極限まで連れて行ってくれるような、強度が求められる。様々な要素が散らばり、混乱し、解決は不可能と実感されたところで、もうひとつの風景が鮮烈に立ち上がってくる。『ミステリは万華鏡』の上で引用した部分に<ミステリにおけるトリックというのは、イメージ的には、情と知に分ければ、後者で受け止めるものだろう>とあるが、ここでいう「トリック」の意味合いは、「謎解き」に近い。その「知」の楽しみを味わう読者のありように親しみを感じるのは、「情」にも通じるのだと思う。北村薫が<こういうことまでやるからこそ、人間は人間なのだ>と言い、芦辺拓が<本作品を読まれたみなさんの感想は「ここまでやるか!」の一言でしょう。(中略)本格推理小説というものは「ここまでやる」ものなのです>と「離れた家」について言うのは、そういうことなのではないか。
有名な話だが、「モルグ街の殺人」の書き出しは、人間の「分析的知性」を主題としている。

分析的知性はその持ち主にとって、常に、この上なく溌剌とした楽しみの源泉であるということだ。ちょうど身体頑強な人間が肉体的な有能さを誇らしく思い、筋肉を動かす運動を味わうのと同じように、分析家は錯綜した物事を解明する知的活動を喜ぶのである。彼は、自分の才能を発揮することができるものなら、どんなつまらないことにでも快楽を見出す。彼は謎を好み、判じ物を好み、秘密文字を好む。そして、それらの解明において、凡庸な人間の眼には超自然的とさえ映ずるような鋭利さを示す。実際、彼の結論は、方法それ自体によってもたされるのだけれども、直感としか思えないような雰囲気を漂わせているのだ。(丸谷才一訳)

そしてポーは「分析」と「計算」、「分析力」と「発明力」とを区別する。

分析の能力は、おそらく数学の研究によって、殊に数学最高の分野の研究(それが単に逆行的操作の故をもって特に解析学と呼ばれているのは不当である)によって、大いに増進されるものであろう。しかし計算は必ずしも分析ではない。

分析力を単なる発明力と混同してはならない。なぜなら、分析的な人間はかならず発明に巧みだけれども、発明に巧みでいながら非分析的な人間がかなり多いからである。(中略)実際、発明力と分析力との間には、空想と想像力の間の相違に酷似した、しかもそれよりももっと大きな相違があるのだ。それゆえ、発明的な人間は常に空想的であり、真に想像力に富んだ人間はかならず分析的である、ということが理解できるはずである。

「分析的知性」によって事態に光をもたらし、新たな姿を描き出す。ミステリのロジックを読む楽しみの原風景は、こういったところにあるのだろうか。
 ※
話は変わる。
「離れた家」の謎解きは、犯人当てのように、「こうでしかありえない」というものではなく、「この不可能状況を説明できるのは、この真相ぐらいしかないだろう」というものだが、巽昌章は解説で、こう書いている。

これは、リアリズム描写に立脚する本格推理小説でありながら、読者を幻惑する異形の作品でもあるという稀有の存在なのだ。まず殺人事件が素描され、基本的なデータが出されたところで、探偵役が推理を繰り広げて事件を解明するのだから、「離れた家」もその手順はまっとうな本格に違いない。こみいっているとはいえ、探偵に寄り添って彼の推理過程についてゆくことはできるし、論理の流れにも目立った飛躍はない。なのに、長大な推理の途中から兆しはじめる迷宮感は何なのだろう。

北村薫は上で<トリックの解明をするというのは、機械の使い方を説明するのに似ている――と、いえなくもない>と書いているが、たとえば法律の条文なんかもそうだ。機械の説明書や法律の条文がわかりづらいのは、確実性を旨としているからだ。私たちは通常、噛んで含めるようにして物事を理解してはいない。けっこう飛躍がある。一足とびに予想がつき、曖昧なままその像をつかめてしまったりする。しかし――それでは論理にならない。ごくたまに説明書や条文を読んでいると、「もっとわかりやすく書いてくれよ」と思う。ある種の滑稽味や不条理感すら覚えることもある。たとえば「離れた家」のロジックも、そうしたリアリズムから出発し、推理過程の堅実さを徹底することで、超現実的な迷宮感を生み出しているのだろうか。
ここで少し飛躍したことを書いてみよう。殺人事件をめぐる謎解きは、失われた過去を再現しようとする試みだ。死体がある。何かが起こったことは確実だ。私たちは、過去を絶対的に取り戻し、確かめることはできない。過去は可能性に満ちている――。「世界五分前仮説」のように、世界がいま作られたということだってあるかもしれないし、超自然的な現象の介入、理解しがたい不条理な偶然ということだって、もしかしたら、あるかもしれない。そういった様々な状況が、可能性が、今ある現場の背後に隠れている。それでも探偵は、理性によって事態を分析しようとする。堅牢な論理によって、過ぎ去った像を再び創り上げる。
先に引用した『だれもがポオを愛していた』の解説で有栖川有栖は、作品の最後に置かれた論文「『アッシャー家の崩壊』を犯罪小説として読む」を紹介してこう書いている。

いくつもの不自然な点を伏線として摘出し、名探偵の目で謎を読み解き、本格ミステリの手法で解体すると、あの『アッシャー家――』が見たこともない形に変容し、妖しい光を放ちながら別の物語が立ち上がっていく。「『アッシャー家の崩壊』の崩壊の謎めいた出来ばえは、くるくると交代しあう合理と不合理、実像と虚像のあいだに佇み、疑いながら目くるめくことによってのみ、真実に体験されると言うべきかもしれません」と、本文にある。そう、そのような体験があげる「効果」こそを、ポオは目指したのだろう。だからミステリを生み落としたのだ。ミステリを読むことは、合理と不合理のあいだに佇み、とめどもなく、いつまでも崩れ落ち続けるアッシャー家を目撃することなのであろう。

「『アッシャー家の崩壊』を犯罪小説として読む」は、テキストの背後に秘められた「真相」を解き明かそうとするものだが、この「効果」は、ミステリの「謎」と「謎解き」の関係についても同じく言うことができる。探偵が事件を、過去をテキストとして読む。そこに「真相」という像を創り上げる。しかし私たちが過去を、たとえば実際に見聞きしたりするような形で取り戻すことができない以上、それはどこまでも「実像」に近い「虚像」にすぎないのではないか(たとえばそれを意識的に問題化したのが、殊能将之の『黒い仏』だろう)。けれど堅牢なロジックによって確立された像は、非常に強い説得力を持ち、納得せざるを得ない。私たちにできるのは、今ある風景に、ロジックによる想像の風景を重ね合わせることだけだ。「実像」と「虚像」のあいだに引き裂かれ、「疑いながら目くるめく」その体験こそが、「ミステリ」と呼ばれるのではないか――。
 ※
山沢晴雄の最初期の作品「砧最初の事件」の冒頭部には、語り手(探偵役の砧に対するワトスン役)による以下のような自己言及的な記述がある。

およそ世間ででっちあげるアリバイなるものは、(中略)黒眼鏡の男が登場して、そいつがNHKの番組を組み直したみたいに神経質なアリバイを提出する。なかばお義理で頁をくっている読者は、旅行案内と時刻表を手引きに、甲駅で乗車した犯人が、乙駅で支線にすばやく乗換えたり、丙ホテルから丁医院の角までタクシーをとばすのを、いちいちメモしながらつきあってくれるほどひまな時間を持ちあわせていない……。

ところが『離れた家』に収録された山沢作品の実際は、上にあるような「神経質なアリバイ」をめぐるものがほとんどなのだ。つまりここからは、山沢の推理作家としての宣言を読み取ることができる。「神経質なアリバイ」のような、現実的で、複雑な謎をめぐりながら、なおかつ丁寧につきあえば未踏の驚きをもたらす本格作品を書く、ということ。だいたい、「ひまな時間を持ちあわせていない」というのは、読み手にとってかなり妥協的な響きである。小説とは畢竟、ひまな時間をつぶすために読んでいるんじゃないのか! ならば拙速につかず、じっくりと読むことで、最大限の「効果」をあげる作品を書いて見せよう――。
 ※
「時間」はこの作品集のなかでかなり大きな要素だ。「時間」の概念が無ければ、そもそも「アリバイ崩し」という捜査方法も無い。本のなかのあちこちで、時間が確認される。置時計、腕時計、あるいはテレビやラジオ。電話をかけ、行動を共にし、人を訪ねる。様々な時間を持った人々が行き交い、そのなかで犯人は時間を操作し、探偵がそれを見破る。共犯のパターンが意外に多いのだが、その連携プレイは解説で巽昌章の言うように、まるで詰将棋のようだ。
時々刻々と、この世界では多様な出来事が発生している。何を「事実」とするか。それは視点のとり方によって変わってくる。ある事件と、別の事件をつなげて考えることで、一つの大きな時間の、川の流れを俯瞰することができる。「時間」そして「論理」の観念は、やがて「運命」へと至るだろう。「過去」を論理によって「確定」できるのなら、「未来」についても同じことが言えるのではないか?
作品集では、「運命」に関する言及も多い。表題作の犯人は、「自分の運命に変更の出来ない力がはたらいていることを信じていた」。そして最後、「生まれ日の運勢」という占い札を買い、覗こうとするが、刑事に声をかけられる。

亮吉の足許に、占い札がぽとりと落ちた。/二人の靴音が遠ざかったあと、生あたたかい冬の夜は崩れはじめた。みるまに舗道が濡れ、人達は駈け足に通り過ぎた。あの老人も姿を消していた。街路に散った運命の札は、チラシや吸殻と同じように、惨めに雨にうたれ、靴にふみしだかれた。

巽昌章は山沢作品の「時間」と「運命」についてこう語る。

そうした運命の構図をめぐる物語には、もし運命があらかじめ決まっているなら、人間に与えられた時間とは一体何なのか、という懐疑がつきまとう。人生が、世界という盤上に、誰かの作った棋譜を再現するようなものだとすれば、時間など無意味ではないか。(中略)実をいえば、これは論理的な構図の提示を身上とする本格推理小説そのものが身に負っている問いでもあるのだが、論理のスペシャリストともいうべき山沢の小説にあらわれるとき、その響きは一層重い。(中略)論理と運命は表裏一体であり、作中人物の行動すべてを一枚の図式に取り込まなければやまない謎解きへの執着は、不気味な宿命論と見分けがつかない。論理の使徒山沢晴雄の作品群を、その底で統べているのは、こうした世界観なのである。

「離れた家」の最後で、犯人が、自分の運命の書かれた「占い札」を覗くことはない。私はここで、SF的な想像をしてしまう。つまり「運命」とは、唯一無二のものではなく、シュレーディンガーの猫のように、無数にある世界が、観測によって「収束」して一つの「図」となったものなのではないか。レミオロメンの「フェスタ」という曲に<三叉路 十字路 五叉路も振り向きゃ一本道だ>という歌詞があるが、まさに、どうあっても「私」をとらえて「図」に組み入れてしまうもの、それが「運命」なのではないか。だとすれば、結果的に「誰かが考えた棋譜を再現するようなもの」だとしても、相当な幅がある。そして探偵の「ロジック」による過去の像の確立は、その世界を収束させようとする行動にも見える。
私はこの作品集を読むと、「理解できるぎりぎり」のロジックを組み上げることは、どこまでも「虚像」でありながら、失われた過去を取り戻すために探偵役が捧げうる、最大の供物であるように感じる。
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次回はたぶん、「論理」と「時間」について、エラリー・クイーンの長篇を読みながら。