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襤褸は着ててもロックンロール

からだ、あったまりましたか――エリック・マコーマックの2長編

【※エリック・マコーマックの『パラダイス・モーテル』および『ミステリウム』の結末に触れていますので、未読の方はご注意ください】

この年末年始に、エリック・マコーマックの邦訳されている二つの長編、つまり『パラダイス・モーテル』(創元ライブラリ2011/原著1987)と『ミステリウム』(国書刊行会2011/原著1989)を読んだ。どちらも読み終えてすぐは「うーん」と単純に首肯できない感じが残ったのだが、しばらくつらつらと考えているうちに、「これでも良いんじゃないか」という気持ちが自分の中で強まってきた。それは一体なぜなのか、ということをちょっと書いてみたいと思う。
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マコーマックの作品は、純文学ともエンターテインメントとも簡単に言えない、その中間くらいの印象を受ける。もちろん、<ロバート・バートンの『憂鬱の解剖学』で博士号を取得し、1970年にカナダはオンタリオ州のウォータールー大学付属セント・ジェローム大学に職を得て英語学を教えるかたわら、本格的に創作活動に入りました>(『ミステリウム』訳者あとがき)というくらいだから、文学に関する知識は深いはずだ。が、謎を残してぐいぐいと引っ張っていく展開や構成はミステリとして読んでも非常にうまい。
この「ミステリとして読んでも」というのが曲者で、当然のことながら、マコーマックは別に既成のジャンル作法に則った作品が書きたいわけではない。狙いはもっと別のところにある。通常のミステリを期待して読むと、最後に手痛いしっぺ返しを喰らうだろう。だから、結末まで来てどことなく肩透かしを受けたように感じる読者もきっと多いと思う。しかし、作品中でここまでミステリ的展開のツボを踏まえている以上、そういった読者に対して「最初からミステリとして読む方が悪い」とだけ言い放って作品の正当化を図るのは無理があるように私は考える。むしろ、「謎とその論理的解決」というジャンルの常套を期待させつつ、読者を罠にかけるのが意図ではないかとも読める。
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つまり、「謎」を持ちつつ、普通ミステリ的解決を結末において放棄する、という点では、二作品とも共通している。いや、それ以上にもっと大きなものが共通しているように感じられる。再び『ミステリウム』の訳者あとがきから増田まもる氏の言葉を引くと、<おそらくマコーマックは現実と言語についてほとんど極限に近いところまで考察した果てに、ついに人間として可能なぎりぎりの認識を獲得したのではないかと(訳者は)考えています。それをひとことでいうと、「世界には真理などなく、本質的に無意味であって、そこに真理をみいだし意味を与えようとすのは、私たち人間の業である」というものです。ここでいう無意味とは虚無的な感情ではなく、ただたんに世界は人間とは無関係に現象しつづけているという覚めた認識のことです>という箇所が、それにあたるだろうか。『パラダイス・モーテル』の柴田元幸氏の解説から<マコーマックにとって世界とは、そもそも本質的に、人間が一義的に意味を決定できるような場ではないのだろう>という言葉を引いても、同じようなことだ。
しかしそれくらいのことなら、今、ちょっと本を読んだことのある人間なら、「人間として可能なぎりぎりの認識」などと大げさなことを言わずとも、誰だって自身の経験を振り返って納得できるし、知っている。理解している。そのつもりになっている。頭で。
そして、まさにこの「頭で理解している」認識へ、新しい実感性、リアリティを与えるのが、作家の重要な仕事の一つだ。
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とはいえ、二つの作品を読んだ感触は、だいぶ違う。まず、主人公自ら解決を放棄してはいるものの、『ミステリウム』はミステリとして非常に構成がきっちりとして見える。一方、『パラダイス・モーテル』はなんだか投げっぱなしという感じ。ほとんど妄想というか夢オチに近いだろう。
だから、「謎とその論理的解決」という点に着目した場合、両作品の評価は分かれるはずだ。いわく、『パラダイス〜』はとっちらかってる上に空中分解している。『ミステリウム』の方が一貫性があって面白い。いや、『ミステリウム』はきちっとし過ぎている、『パラダイス〜』の方がジャンルを食い破っていて、これこそ奇想小説の醍醐味である。云々。個人的には、どちらがより好きだとも言い難い。今考えると、あまりにも謎だらけな『パラダイス〜』の方に若干軍配を上げるかもしれない。
二つの作品から受ける印象の違いは、どこに理由を持つのか。私は、大きく言えばそれは「語り手」の性格の違いではないかと思う。どういうことか。
つまり、『パラダイス・モーテル』のエズラ・スティーブンソンが「信頼できない語り手」であるのに比べ、『ミステリウム』のジェイムズ・マックスウェルはかなりの程度、信頼できるのである。
数多ある「信頼できない語り手」もののファンにとって、この違いは大きい。ジェイムズ・マックスウェルは主人公として、たとえば、ジーン・ウルフ「アメリカの七夜」のように幻覚剤を飲んだりしないし、夢野久作ドグラ・マグラ』のように精神病が疑われているわけでもなく、竜騎士07『ひぐらしのなく頃に』のように病に冒されたり超自然的な目に遭うわけでもなく、横田創『埋葬』のように腹に一物抱えて調査を進めるのでもない。その出自も、動機も、調査方法も、最後まで、読者の前には明らかだ。
他方、エズラ・スティーブンソンはといえば、実はこちらも特に突拍子も無い性格をしているわけではない。あまりにも不可解な暗合や、謎めいた出来事に対し、彼は率直に驚き、迷う。現実にはありえないような事態に「驚き、迷う」だけじゃ呑気すぎやしないか、とも思うが、ラストで読者が直面するのは、エズラの存在基盤自体を疑わせるちゃぶ台返しだ。エズラがこれまで語ってきた人物は誰もいない。土地はどこにもない。出来事は起こっていない。本当だろうか? にわかには信じ難いが、真相を告げるクロマティが立ち去ってのち、エズラは一人パラダイス・モーテルのバルコニーで枝編み細工の椅子に座り、海を前にうたたねする。記述は冒頭へと循環する。
二作とも、再読すると面白いタイプの小説だと思う。初読時とはまた違った視点で、あいまいな記述から異なる意味を汲み取ることができるはずだ。

(この項続く)