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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

続々々・からだ、あったまりましたか――エリック・マコーマックの2長編

【※エリック・マコーマックの『パラダイス・モーテル』および『ミステリウム』の結末に触れていますので、未読の方はご注意ください】
というわけで『パラダイス・モーテル』を再読した。他の二冊でマコーマックの世界に慣れてきたのか、前回と違って楽しく読むことができた。私はどちらかと言うと、いわゆる「奇想」系の小説よりは、リアリズムの方が好きだ。場所の名前など実在の固有名詞をハッキリ書く金井美恵子の風俗小説や矢作俊彦のハードボイルドに心惹かれるくらいだから、主人公の赴く地名がところどころ曖昧な『パラダイス』は初読時にイライラしどおしだった(実はそれも仕掛けの一つなのだが)。
結末を知ったあとで読むと、まるですべてが何かの喩に思えてくる。様々な記述が他の作品と関連して見えてくる。見逃していた箇所も幾つか掴むことができた(はずだ)。
それを今回、書いてみようと思う。
例えば第一部の「ダニエル」。ダニエルとは、エズラの祖父の名前だ。30年間失踪していた祖父が家に戻り、エズラと話をし、死んでいくまでの経緯が書かれる。初読時、私は、この第一部が長すぎるように思っていた。つまり、この小説のメインテーマは四人の兄弟姉妹の辿る運命であり、祖父は脇役に過ぎないと思っていた。
しかしそうではなかった。
再読してみる。メインテーマの比重が四人というより、むしろ語り手にあることを私は既に知っている。すると第一部がまったく別の意味を持ってくる。
どういうことかというと、この第一部はダニエルについて語りながら、実はエズラについても同じように語っているのだ。たとえば冒頭。〈大きくなるにつれて、わたしはしだいに、十二歳のときに死んだ祖父のダニエル・スティーブンソンに似てきた。毎日毎日、鏡をながめるたびに、そこに祖父のおもかげを見いだすのである。(……)ずっと前から祖父の顔がわたしの顔の奥に隠れていたかのようだった〉。『パラダイス・モーテル』を最後まで読み終え、最初の方へと返った時、ここに、ダニエルとエズラの類似があるのは明らかだ。他にも、このような箇所は重要だと思う。

わたしはあの物語を、祖父から受け継いだ個人的資産だと考えてきた。十六歳という詩的な時代を通過していたときには、ロマンチックに考えたこともあった。あれはダニエル・スティーヴンソンの体内で彼を生かしつづけていたなんらかの力であり、祖父はそれをわたしに託すとすぐに死んでいったのだと。/もう少し大きくなると、あの物語は祖父が飲みこんだ毒にすぎなかったのではないか、ついに祖父を死に至らしめた体内の腐敗物だったのではないかと思うようになった。摘出するのが遅すぎたのかもしれない。あのときも、そしていまでも、ことばでできたものだって体内で成長できるとわたしは信じていた。ある日、苦痛とともに体から出ていく胆石のように。/数年後には、あの物語は感じやすい少年に語られた物語にすぎず、その少年も大人になるにつれて文字どおり受けとめることはできなくなったのだとみなすようになった。あれは夢の荷物にすぎなかったのだと。だからわたしは心に秘めてだれにも話さなかった。/いままでずっと。だがいまは、ヘレンに聞いてもらいたかった。

さらに、結末から振り返ると、世界中を旅した思い出を孫に語りながら、現実には近くの炭鉱で働いていた(本当だろうか?)ダニエルと、四人の兄弟姉妹の物語を「恋人」のヘレンに語り続けたエズラの姿も重なってくる。
この二人のことを考えた時、たとえばエズラの第一部の次のような記述は重要な意味を持ってくる。〈当時(祖父が帰ってきた頃)のわたしにとって、真実ともっともらしい作り話とのあいだの壁はひどく薄かったので、どちらからでもたやすく突破することができた。世界の統一性を保つために、わたしはそのふたつをきっぱり分けておく必要性を感じなかった〉。
この部分は、ニュアンスは多少異なるが、『ミステリウム』のブレア行政官の台詞とも響きあうだろう。〈われわれ人類は犯罪者とそうでない人間とのあいだには明確な区別があると信じる必要があると思わないか、ジェイムズ? その保障がなかったら、われわれはどうなってしまうだろう?〉。そして、ロバート・エーケンの父親の台詞とも。〈ある男の人生は嘘かもしれないが、その男の話は絶対に真実かもしれない〉。
事実と真実。この台詞は重要だ。仮に、事実と真実は異なるものだとしてここは話を進めよう。つまり、「事実」というのは客観的に検証可能なものであり、一方で「真実」はもっと主観的で何らかの価値判断を含んでいる。「真実」という語にはどこか、重要なもの、というニュアンスが感じられる。
たとえば上の記述で、祖父ダニエルによる「つくり話」は、ただのつくり話ではない。それは、彼なりの真実を告げようとする話だ。真実を伝えようとすると、「つくり話」(=「フィクション」)を必要としてしまう人間がいる。ダニエルはその一人だろう。
というよりも、人間の語る言葉は、決して語られるもの=事実それ自体にはなりえない、ともいえる。この観点はたとえば、マコーマックが質問を受けたと解説にある「あの話はどういう意味なのか」「この小説であなたは何を言いたかったのか」という問いに対するマコーマックのスタンスにも通じるのではないかとも思えるが、そのように解釈を拙速にあてはめると話が急激にツマラナくなっていくのでひとまずは置いておこう。
上の引用〈当時のわたしにとって、真実ともっともらしい作り話とのあいだの壁はひどく薄かったので、どちらからでもたやすく突破することができた。世界の統一性を保つために、わたしはそのふたつをきっぱり分けておく必要性を感じなかった〉の部分。ここでエズラは、事実と真実、というより、事実によって語られた真実とフィクションによって語られた真実の区別をつけようとしない。その必要性を感じていない。
少年は良い。でも警官はそれだと困ってしまう。だから『ミステリウム』のブレア行政官は、事実とそうでないものの境界を曖昧化しようとする言説を退ける。
しかし事実のみが重要なのでもない。一つの事件というのはもっと有機的で複雑なもので、事実のみにこだわることが返って現実を捨象し、歪め、木を見て森を見ない、ということにもなる。それは反真実的な行為でもある(だからブレア行政官はマックスウェルに忠告する)。
そして真実は、優しいものだとは限らない。自分でも理解できなかったり、受け入れるのが耐えられなかったりする。『パラダイス』や『ミステリウム』の最終部が示していることの一つは、そのようなことだと思う。
プロローグを読み返してみよう。〈今日ならこの海は、目のとどくかぎりきちんとした筆記体におおいつくされた、巨大な手書き原稿にたやすくなれるかもしれないと男は考える。岸に近づくにつれて、文字はしだいに鮮明になり、書かれていることばが読みとれるかもしれないと男は考えつづける〉。『ミステリウム』における世界を(ロバート・エーケンが)テクストになぞらえる比喩は、以前のエントリで紹介した。世界がある。世界の中に私がいる。私が世界に向き合う時、私の中に真実が立ち上がらんとする。物語はそれを解釈しようと試みる行為だ。
つまり『パラダイス・モーテル』と『ミステリウム』は、ある意味では「物語」をテーマとして、互いに違う角度からそれぞれ書かれた作品なのではないか。『隠し部屋を査察して』よりも強く、この2長篇にどこか共通して感じられるマコーマックのヴィジョンは、このことだろう。
と、総論はこんな感じで、以下、気づいた点や私の推測を紹介していこう。(次回完結)