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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

フリーハンドドキュメント

雑談

「人力たんぶらー」という案を帰り道に考える(別にたんぶらーでなくてもいいが)。一日のうちに読んだり考えたり思い出したりしたことを心に浮かぶままに引用元・発想元を示さずにカットアップのようにつないでいく。太い脈絡のない、ぶつ切りのカタマリが細い一本の糸でつながれたノートのようなものになるか。
そういった文章を想像してみる。感情はなく、責任のとりようもない、風に流され、どこまでいけるかというものになるか。夢のように軽薄な連想の跡にもしかし、その裏にめぐらされた操り糸の硬さはあるだろう。
何を言っているかよくわからないと思うが、僕も自分で何を言っているのかよくわからない。
発端はこうだ。他人の長い文章を読む。私も何か書きたくなる。しかしまとまったことを書くには思考の膂力が必要だ。生活面での膂力も必要だ。朝8時に起きて出かけ、食事もとらず23時の帰り道、つらつらと歩いて気がつくと私はその筋肉が衰えていた。
膂力だけが大事だとは思わない。膂力以外のものだけが大事だとも思わない。「よっぽど疲弊したんだろう。それとも壊れたか」という声が聞こえる。
そこでこの言葉を掲出する。「疲れてないといけないんだよね」。
すると羅列された断片の空白が飛び込んでくる。「道路脇の怒りの爆発、路上の会話の拒否、松林の無言、古い鉄橋を渡りながらの無言、水の中の歩み寄りの努力、平らな岩の上の和解の拒絶、急な土手の上の怒声、草むらの中のすすり泣き」。言葉をものとして扱うこと。ものとしての言葉のあいだに身をひたすこと。
いつもとは違い各駅停車の線に乗る。「内臓の暗さを思う」。私は疲れるために疲れた。意味というのは責任だ。時間と膂力があれば責任をとりたくなるのは当然だ。膂力のない私は幽体離脱していった青白い炎を見送るようにして立っていた。座っていた。
自分の過去に書いた文章を読むと、覚悟も深さもぜんぜん足りていないことに気づいた。覚悟もいい。深さもいい。しかし今この時はそれよりも、読み返すたびに動くものがある、そういう空間、機械としての言葉を組み立てること。
まずは書き出してみよう。
「ひどい二日酔いのせいで、もう何もかもが億劫だ」と書いて彼は一人前の女になった。/それは午前2時のことで、何かの立ち上がる気配があった。/何かの気配ばかりがパソコンに眠っているのだが。/浴槽と、浴槽で六人の子供を次々に溺死させた主婦に秘められた革命的エネルギーと、豚バラ肉と新聞記事。
etc、etc。
だからなんなのか。
「思いつきをそのまま書いたでしょう」と呼びかけられた言葉たちをもう少しでも歩かしめるために私は以上の文章を即興で書いた。
24時間スーパーで焼酎ひと瓶(315円)を買って自宅へたどりつく。
寒いからジャケットを着ているが、それでいいのか六月よお前は。
 ※
大学の後輩たちの作った『Poltergeist』という同人誌を読んでいたら、自分も何か一篇くらい(約四年ぶりに)形にしたくなったのだが、ダメだった。まず私は物語が泉のように湧き出てくるタイプではないし、じゃあじっくりと構想を練って、というには膂力が足りない。途中で力尽きる。
そこでリハビリのために深く考えずに吐き出してみることにした。高校一年の時、学園祭のステージで先輩が「誰かフリースタイルやるやついないか」とマイクで話していた。もちろん私は即興で格好良く歌うなんてできない。他にも誰も手を挙げなかったと思う。
あまりうまくいったとは思わないが、その時できなかったフリースタイルの何年か越しのリベンジみたいなものかもしれない。