立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

動線の設計

「文体」というのは非常に大きなテーマで、日頃、意識することも多々ある。
「文体とはいったい何だろうか」ということを考えた時、いくつかの文章が思い浮かぶ。それについて少しまとめてみたい。
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まず「文体とはいったい何だろうか」という疑問を提出する際、この「文体」という言葉はいくつかの意味を含んでいる。中でも大きな二つを挙げると、
・形式としての文体
・思考のリズムとしての文体
ということになるだろうか。
前者はわかりやすい。「語り口」とか「調子」とかいったもので、つまり表面的なもの。「○○の文体が好きで」などという場合は、たいていこちらを指していると思う。
もちろん文章の形式は、小説やエッセイだけではない。日常的な周辺を見渡すだけでも、さまざま挙げられる。新聞記事、法律文、車内広告、取引先からのメール、下宿に貼りだされた大家からの案内、友人知人のよこした手紙、……。主に「送り手」と「受け手」の関係性によって変化するこれらの「文体」のサンプル範囲をどんどん広げていくと、書かれたものだけでなく「話されたもの」と、アイマイに領域を接していることに気がついた。たとえば報道番組のアナウンサー、街頭演説する政治家、コンビニ店員、訪問販売員、通りすがりの女子高生、学校の先生、職場の上司、離れて暮らす親からの電話……。
文章によってある「作品」を制作する場合、日常からこれらの「声」を借りてくる。とうぜんそのままではなくて、組み合わせつつ、想像しつつ、新たなパターンをつくりあげる。
では後者はどうだろう。書き手に固有の、思考のリズムとしての文体。こちらは整理するとなるともう少し複雑で、場合によっては「構成」だとか「世界観」だとか呼ばれることもあると思う。
町田康が何かで、「富岡多恵子さんの文体は、関西弁を使っていなくても、考え方なんかが〈関西人の文体だなあ〉と感じられる」と語っていた。「関西弁」が表面的なものだとすると、ここでいう「文体」はそれを形作るもの、ということになるか。
たとえば小説でも、作品によって全く異なる語り口を使い分けているにも関わらず、「書き手○○特有の文章」ということが感じられたりする。あるいは、「全然違う書き方がされた作品のはずなのに、同じ文体に感じられる」だったり、「この人はこういう文体しか書けないのか」だったり、「AさんとBさんの文体は似ている」だったり、にも関わらず「BさんはAさんよりアンマリうまくない」だったり、……。この固有性はいったい、どこから生じてくるのか。
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「文体」を意識したきっかけ
私が文体について意識しはじめたのは、たしか『小説の誕生』で保坂和志阿部和重について書いているのを読んでから(つまりせいぜいこの五、六年くらい)だったと思う。
単行本版のp151〜。阿部はネットだとかパソコンだとか、同時代の装置をふんだんにとりいれた作品を仕上げてきた。彼のように書きたいという小説家志望者は多いだろう。しかし、阿部以上に成功した者はいない。なぜか?

彼の文体が大きな理由なのではないかと思う。“文体”というのは私がこの連載で繰り返し書いている、センテンスに込められた情報の量や質のことで、おそらく日本中で最も――あるいは、唯一――直列的な文章を彼は書くことができる。彼の文章を読んでしまうとしばらくは他の小説の文章がもっさりして見えて仕方がない。/文章とは「前から後へと書かれた順にしたがって読まれる」という意味で直列的なのだが、文章で表される対象であるところの空間、風景、心情はそうなっていなくて同時並列的だ。そこで小説家はみんな大なり小なりの苦労をして、文章をただ直列一色でなく並列的な印象を作り出して、世界に似たものにしようとするのだが、阿部和重は文章を世界に似せようとしないで直列的に描けるようなものとしてし書かない。

以下、「直列的な文章」がいったいどういうものか、そして「作品」と「書き手」の関係ということが説明されるわけだけれど、私はこの辺りを読むまで、「文体」についてそれほど考えたことはなかった。文体といえば表面的な語り口のことだと思っていたし、せいぜい独特の比喩表現だとか、言葉遣いのことだと思っていた。だから、「小説の面白さ」といえばほとんど「物語の面白さ」のことだと考えていて、いわゆる「私小説」もまったく読めなかった。日常を描いた現代文学も読めなかった。「あんな水みたいに〈何もない〉小説の、いったいどこが面白いのか」と中学生くらいの頃、強く思ったのを覚えている。
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詩と散文
ここまではもっぱら散文の文体について書いてきたけれど、とうぜん、それ以外の「文体」もある。以前にも紹介した、荒川洋治『文学の門』の冒頭「散文がつくる世界」から。

散文は、異常なものである。少なくともそのような性格をもつものである。/たとえば「わたしはいま、悩んでいる」という散文は、どこの国のことばになっても、そのまま伝わる。意味がわかる。たどりやすい。しかし、そう書く人の心のなかには、そのときほんとうは、「×◯☆△!」ということばがあるかもしれない。詩とか呪文みたいなもの、ぶかっこうなもの、自由なものだ。個人のものだ。でもそのまま書いたら、へんに思われるし、通じないので、この社会に合わせるために個人のことばをつつしむ。誰にもわかる表現や、ことばの配列を選ぶ。習慣化すると、その事実も、経緯も消えてしまう。忘れてしまう。つまり散文は、伝達という目的のために「つくられた」ものなのである。最初からあるのではなく、獲得したもの。不自然であり、異常な面をもつ。注意ぶかくとりあつかわないといけない。異常なものでも、みんながその恵みをうけていれば、異常だとはいえないのだが、どうなっているのか、ときどき見ておく必要はあるだろう。

「散文は、異常なものである」という断言がショッキングだ。ショッキングすぎて、どういう意味なのか、最初よくわからなかった。それは私が「散文」について何も疑いを持たない、「散文の人」だったからだと思う。
ここに書かれてあるのは、実は散文批判ではない。今や世の文章の99%は散文となった。散文が当然視される。しかし散文は結局のところ、個人と社会を結びつけるために「つくられた」ものだ、それを意識しなければ、ということが主眼にある。
つまりいまこうして書きつつある文章の大本である散文自体が、つくられた形式なのだ。これは考えてみれば当たり前のことだ。やまとことばがあり、大陸からの漢語の輸入があり、なんやかやがあり、言文一致があり、云々。大昔の庶民は、こんなふうな文章をブログに書く必要はなかった。会社に提出するドキュメントをWordで作成する必要もなかった。親族や、村の人々との会話だけで足りた(たぶん)。時には、思いが詩や呪文となって発露されることもあった。
個人と社会との結びつきが緊密になるとき、散文が要請される。読み書き教育によって個人に散文の思考法が植えつけられる。ここで私はこういう例を考えた。スーツと寝巻。昔はスーツなんか着なくてよかった。というか服なんか一着しかなくて、一年のほとんどを裸か、ボロボロの肌着で暮らす庶民も多かった。しかし社会が近代化するにつれ、それでは困るということに。まさか肌着で都会の高層ビルに出社されても困る。一方で散文というのは「よそ行き」の服なので、それで自宅でゴロゴロ過ごすのはツライ、ということにも、……。
文章発表の機会ということを考えると、インターネットの登場以前、ふつうの人が多くの人の目にふれる文章を書くことは少なかった。それが今や爆発的に増え、誰でも書けるようになった。しかし「誰でも見ることのできる」場所に「誰でも書ける」ということは、そこは公共性をもつことになる。自分のブログに、よくいく銭湯で浴槽内に放尿した経験を書いたら炎上した、というようなのは、たとえば、パンツ一丁で街を歩いていたらヘンタイ扱いされた、みたいなことになるか。
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小説の文章の嘘臭さ
散文は、受け手に何かを伝える、というフォーマル性を持つ。だから、ちゃんと伝わって欲しい、あるいは、こんなふうに伝わるといいな、という欲も出る。
しかし、スーツはしょせんスーツだ。本当は、それ以外の選択肢だってある。文体(ここでは小説の「創作的な」散文に限るが)について考える場合、そのことも見据える必要がある。「洋服の青山」の店内だけで「自分らしい文体とは……」などと悩んでいても仕方がない。
先に「表面的な」文体のところで、日常からさまざまな「声」を借りてつくりあげる、ということを書いた。つまりフィクショナルな語り口。そのことでいうと、「小説の文章の嘘臭さ」のことが思い浮かぶ。
小説の場合、「送り手」と「受け手」の関係が不明瞭なことが多い。ふつうの散文に比べると、親密さの度合いがちょっと変わっている。書簡体小説などだったらまだ良い。しかし、たとえば男子高校生を語り手とした一人称小説。どうしてキミはそんなに、プライベートな悩みや周囲で起きる問題を私にそう熱心に語ってくれるのか。あるいは三人称小説。「ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢からふと覚めてみると」って、ザムザとは誰か。それを語っているオマエは何者なのか。
日常には存在しない、つくられた「語り口」ゆえに「嘘臭い」。けれど、だからこそ、小説にしか語れないことを語ることができる、ともいえる。「送り手」と「受け手」の関係が不明瞭を通り越して幻想的な領域に入り込み、不思議な宙吊り状態に放置される……というような。
どうしたって、小説の語り口はうさん臭くなってしまう。そこでもっともらしさを追求しても、「嘘臭さ」に開き直ってもいい。そのような「作品」と「作者」と「語り」の関係が、私は気になる。
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動線の設計
ここで文体=衣服の比喩から離れる。次にどうするかというと、「部屋の動線」にたとえてみたい。
先に『小説の誕生』の文章で、「直列」「並列」という言葉が出てきた。描かれる世界の空間的な並列性と、文章というもの自体の持つ直列性。この二者をどうつなぐか?
それは「要素の配置」ということにも関係してくるだろうか。文章を読んで上手下手を感じる時、この「要素の配置」を考えることが多い。下手な文章だと、てにをはだとか言葉遣いがしっかりしていても、「ぎくしゃくしている」「説明に濃淡がある」「改行の具合がもたついている」などという点で「気持よくないなあ」と思う。逆に上手い文章の場合、たいした内容でなくても、心地よく読まされる、ということがある。
この「要素の配置」における巧拙は、「文体」にどう関わってくるのか。「部屋の動線」にたとえてみる。文章というのは、読み手が精神を働かす場所だ。だからしっかりと動けなければならない。冷蔵庫が台所から離れていれば使いづらい。本は段ボール箱に詰めるより、本棚に整理した方が利用しやすい。同じ要素を扱っても、部屋の作り手によって、配置はまったく異なる。さらには利用の目的によって、部屋の様相や備品は異なってくる。給湯室で社内会議は開けない。自宅だと気が散るから、自営業でも仕事場を借りる、等々。こうした要素の配置および動線の設計は、文体そして構成、作品の世界観などにも関わってくると思う。
部屋の目的がある。利用者に充分その目的を達成してもらうべく、部屋を設える。あるいは、使い勝手の悪さそのものを目的としてもいい。迷路でもいい。目的と関係なく使ってくれてもいい。そのような動線の設計。
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文体練習
たとえばここで、カフカの『変身』を題材としてさまざまな文体を使って書き分けた方がいる。「○○風」「××風」などとさまざまなパターンがある。しかしこちらにせよ、クノーの『文体練習』にせよ、読んで感じるのは、それぞれの文例の内容はもはやまったく別物になっている、ということだ。標準語を関西弁にしてみました、というような、表面的な語り口を多少変えただけのものではなく、たとえば上記サイトの「夏目漱石」と「坂口安吾」を比較しても、まず語り手の性質がまったく違う。出てくるものと出てこないものがある。つまり、「どう」描くかは、「何を」描くかと密接に関わっている。
たとえば私がいま書いているようなこの文体は、自分で自分に説明するための文体だ。私がこんなふうにここで書くと長くなることが多いが、それは引用と喩え話が多いためで、書きながら自分に対して整理して説明しているのが原因として大きい(「つまり」と「たとえば」を使いすぎるので、よく書いては消している)。日常生活の中では、「文体というのは動線の設計に似ていて……」などとは全く考えていない。じゃあ心内語の口調がこうなのかというとそんなことはなく、もっとモヤモヤしている。ひどく個人的なそれをある程度他人にも説明できるよう、「散文」に「通訳」しているわけだ。しかし個人的なものだから、自分に対して「〜である」というのは変だ。だから「〜だ」になる。本当は「〜だ」も変だと思っている(断言的でエラそうだし)が、他に書き方を知らないので暫定的にこうなっている。
以前はもっと違った。
文体は変化する。書き方が変わり、表記方針が変わり、好みが変わり、文章も(たぶん)うまくなる。
けれど、思考のリズムはそう簡単には変わらない。
たとえば私はよく、「話がわかりづらい」と周囲から言われてきた。いわく、「まわりくどく、なかなか本編に入らない」「引用と喩え話はなくてもいい」「飛躍が多すぎる」。いま整理すると、こういうことかと思う。
つまり、私は、引用と喩え話がないと抽象的な考え方ができない。→引用と喩え話のせいで話が長くなる。かいつまんだことが言えない。→かいつまもうとすると、「飛躍しすぎ」と言われる。→飛躍しないよう説明しようとすると、長くなる。→以下くりかえし。
なんとも因果なリズムとしかいいようがないが、私は、無関係に思えたもの同士が最後にパッと結びつく、そう、あの、退屈だった捜査シーンが一挙に反転して別の意味を持ってくる、というようなミステリが昔から好きだった。
ミステリ的な動線とはいえないでしょうか。

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