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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

「四十日と四十夜のメルヘン」をめぐる四つの感想(その1)

先日、青木淳悟のデビュー作「四十日と四十夜のメルヘン」で読書会を行ったというKUSFA http://blog.kusfa.jp/article/270788369.htmlの方から、この作品どう読みました、と聞かれて「ウッ」とつまった。単行本の『四十日と四十夜のメルヘン』を6年くらい前に読んだほかは、文芸誌に掲載されるのを読むくらいで、そうガッツリ熱心な青木淳悟の読者ではなかったと思う。もちろん基本的には好きで、周囲にもオススメし、「いつか……」と思っているうちに時間が経ってしまった。
初めて青木淳悟の名前を見たのは、たぶん2004年末の「週刊読書人」の年末回顧鼎談(倉数茂、絓秀実、渡部直己)で「クレーターのほとりで」が話題になっていた記事だろうか。その後すぐに単行本が出て、「ピンチョンが現れた!」という帯に「おー、ピンチョンか」と思い、しかしスケールの規模からいって「クレーター」の方が私は気になっていて、とすると先に読んだのは「クレーター」だったのか?「メルヘン」だったのか? それはわからないが、2006年の頭に、所属するサークル向けのレビューで「今年は青木淳悟森見登美彦に頑張ってほしいですね」と書いたような気がする。あとで考えて二人の作風がまったく似ていないことに気づいて自分で不可解に思ったのだが、それはたぶん「小説の設計が空間的で、ユーモアがあって、……」みたいなところで勝手に関係づけていたのだろう。
というふうな個人的な記憶を探るとさっそく迷走してくるのだが、さて「四十日と四十夜のメルヘン」(以下「四十日」)だ。最近、「新潮」2012年7月号で三島由紀夫賞受賞記念対談(青木淳悟×保坂和志)を読んでいると、雑誌初出時と単行本はかなり書き直されていて……という一節があり、「え!」と思った。出てすぐに買って積んだままになっていた文庫版は、解説だけ読んでいて、確か単行本と文庫版に書き直しがあるということは強く記憶にあったのだが、どうだったっけ、と文庫版解説を確かめると、やはりそこにも雑誌版/単行本版/文庫版で内容に大幅な違いがあると書いてある、……。
そんなふうにして、私の中の「四十日」イメージは更新された。その上で表題作を読んでみると、「書き直し」ということはこの作品において、かなり重要な行為なのではないかと思った。それはこのデビュー作が「書くこと」「読むこと」「そして書き直すこと」を中心のモチーフにおき、語り手の切迫した行動にもなっているからだ。他の作品に関しても大きな手入れがあるのかどうかわからないが、特にこの小説についてはぜひ、三バージョンを読んでみたいと思った。
そこで読み比べてみることにした。
今回、できるだけ素直に読み、わからない点についてはわからないものとして進めていこうと思う。「素直」というのは、あんまりうがったりトリッキーだったりする見方はしない、ということ。
なぜなら、この小説の主題は、「過去の再現」にではなく、「過去の再現の不可能性」にこそあるからだ。実際に今回、文庫版で読んだ時、私は、特に「錯綜している」というふうには思わなかった。それは、青木淳悟の作風を事前に知っていたからかもしれない。
あれ、こんな感じだったっけ、と思い、雑誌初出時のコピーと単行本と比べてみると、本当に全然違う! ビックリするくらい違う! いったい、どうしてこうも改稿されたのだろう。
「四十日」では、7月4日から7日にかけての四日間の日記が、くりかえし書かれる。この作品の新潮新人賞受賞が発表されたのは、2003年の11月号だ。「新潮」の新人賞への応募は毎年年度末(3月末)が締切だから、たぶんこの作品もその時に書かれた。そして、それ以前の7月といえば、2002年の7月。そう、こじつけめいたことをいえば、今日以後の4日間はそれから11回目の7月になる。だから今年の7月7日は、四十四日目と四十四夜目の七夕だ。
だからなんなんだ、といえばそれまでだが、私も作中の語り手にならって、これから四日間連続で、「四十日と四十夜のメルヘン」についての感想を書いてみたい。
うまくいったらおなぐさみ。
 ※
日記
日記をつけ続けることは難しい。何度かトライしたが、ダメ。根が勤勉でないからだろう。そもそも日記とは何か。なぜ書くのか。たいていは、メモ代わりだとか、自分の整理のためか。記憶力というのは曖昧で、我々は忘れっぽい。忘れっぽいからこそ自分が保たれている、ともいえる。過去に自分の書いたものを読み返すと、現在とはまったく異なることに気づく。「うわー、確かにこんなことあった」だったり、「え、そうだっけ。全然覚えてない」だったり、「意味がわからない……」だったりといった反応が必ずある。それは過去の自分との対話といえるだろうか。
「四十日」の文庫版を読んでまず最初に想起したのは、ミシェル・ビュトールの『時間割』だった。内容はこんな感じ。ジャック・ルヴェルという主人公が、ブレストンという街に一年間暮らすことになる。しかし次第にこの街の「魔力」に捉えられたと感じるようになり、ちょうど七ヶ月目から、それを祓うために日記をつけはじめる(第一部)。もちろん到着した最初の日から書いていくという七ヶ月遅れの日記だが、そうこうするうちに、日記をつけている「現在」のことも書かねばと思うようになった(第二部)。やがて、なぜ自分が日記を書くのかと思い始め、日記をつけだした日から遡行して書くようにもなる(第三部)。そして既に日記で語ったことにも新たな再検討を加え(第四部)、さらに遡行にも再検討を加え(第五部)……と、コーラスがどんどん加わってゆくように、最終的に五つの時間の流れが入り組んで描かれる。ビュトールはこれを音楽になぞらえて「輪唱形式」と読んだ。これに加え、『ブレストンの暗殺』という架空の推理小説や、カインの弟殺しだとか、テーセウスの物語だとかいった神話の枠組みが加わる。河出文庫版で本編490ページ近い大作。都市生活に悩む語り手の日記とか、架空の小説とかいった点で私は連想したのだろう。ちなみにビュトールといえばヌーヴォー・ロマンの作家として有名だが、青木淳悟もたまにヌーヴォー・ロマン的と評される。
……とはいっても、『時間割』自体は実はだいぶ前に挫折したっきりで、読み終えていない。だいたい「四十日」と同じくらいの頃にとりかかったと思う。だからいずれ再挑戦したいが、とりあえず今重要なところをいうと、私が興味深く思ったのは、自分の日記との「対話」によって記述が増殖していく、ということだ。
一口に「日記」といっても、何を書くかは小説と同じくらいに自由だ。その日の天気でもいい。食べたものでもいい。あるいは、読書日記、育児日記、職場日記、酒日記……。色んなスタイルが可能。それらが入り混じったのが普通の日記だろう。しかし、最初は、どう書いていいかわからない。一日の終わり、今日の出来事を振り返る。いつもと同じ。だから「四十日」の語り手の日記は始めの頃、とても短い。そしてこう書く。「ほかに記すことなし」。
けれど、その日過ごした「現実」は、数行では表せないくらい多様だ。「ある一日」を書き尽くす。それはとても難しい。不可能といってもいい。でも書くべきことはやはり何かしらある。書くうちにそれに気づいて、あらたに書き直す。記述は増殖していく。
日常
「四十日」の文章は、語り手による三種類のテクストからなっている。(1)7月4日から7月7日までの「日記」(2)日記を書いている現在の語り(過去の回想を含む)(3)7月7日に書くことを決意した「メルヘン」。

(2)以外の二つのテクストは、短冊式に切った「チラシ」に書かれたもの。それを語り手は無造作に保管してある。ある時、チラシの山が崩壊し、散乱する。だからこの小説には、散乱した「チラシ」に書かれた日記とメルヘンの記述が、現在の語りの中にバラバラに埋め込まれている。それが構成上の仕掛けということになる。

といっても、意味不明なほどに錯綜しているわけではない。日記の順番はたぶん書かれた順であって、どんどん「上手く」なっているし、創作メルヘン『チラシ』も、次第に構想が練られていく。その観点からすれば、「くりかえし書かれたもの」を時系列に並べていっているのであって、つまりある時間の流れに沿っている。

では、なぜこんなに錯綜した印象を与えるのか? この小説について「物語批判」という言葉をあてはめている読者もいると思うけれど、「物語」にも色々な面がある。ここで「物語批判」という言葉が使われるとすると、それはいったい何を指しているのか。ひとまず、「単線的な時間記述の放棄」「書かれたテクストによる〈現実〉再現の不可能性」の2点が挙げられるか。だから、「四十日」にも「物語」(というと様々な意味を含んでしまうので、「筋」といってもいいが)があるとはいえる。思いっきり雑にまとめると、こうなるだろうか。「切なくも冴えない日常を送っていたアラサー女が仕方なく日記とメルヘン小説を書いていましたが、ある時若い男との出会いによって一気にリア充となりました。めでたしめでたし」。
ここで錯綜しているのは「物語」ではなくて、時間と記述なのだ。先に挙げた3つのテクストのレベルと、「日付」のある過去を反復する、日付のない「現在」。書かれつつある過去=歴史=ストーリーは座礁し、反復し、それを書きつつある「現在」には日付が記されることなく、不規則かつ不安定な場として「日記」と「メルヘン」を支えている。
と考えると、先述したヌーヴォー・ロマンのような文脈でとらえることもできる。つまり、書かれつつある「日記」と「メルヘン」(=テクスト)の完成をめぐる、「探求」と「挫折」の物語。時間と記述の錯綜はそこから要請される。書かれた言葉が、たとえば日記なら7月4日からの日付を不動点に、現在・過去・未来を呼び寄せ、記述は複雑化する。その複雑化する流れを、独特の生理による「正確さ」でもって語り手が推進する。この「正確さ」に従うことが語り手にとっての倫理であり(「……即刻その一枚目を破り捨てた。物語の進行をいたずらに速めてしまったためだ。あらすじを追うようなことをしてはいけない」p63。以下、ページ数は文庫版をさす)、そこでは時間・記述の整ったいわゆる「物語」を無理に作ることは、テクストに対する裏切りである。

執筆
一方に書かれつつある「反復する時間」があり、それを書きつつある「流動する時間」がある。書けば書くほど、「言葉」と「現実」はズレてゆく。「再現」の不可能性が明らかになってゆく。
日記やメルヘンを執筆する原動力は何なのか。おそらく「はいじま・みのる」の小説教室に通っていたからだろうが、この語り手の姿は、小説家志望者、いまふうに言えば「ワナビ」っぽくない。「書くことの倫理」には熱心だが、どうも「これを書かねば」という意気込みは感じられない。

なぜ小説教室に通っていたのだろう。しかしこちらの理由に関しては、かなり明確に伝わってくる。それは、語り手が現在の生活から脱出したいということだ。ビラ配りの仕事が単調だ。雇用主の監視の目もつらい。友人もそんなにいない。高級スーパーにはなかなか行けないから、格安スーパーで見切り品をいつも買う。そんな姿は隣人に見られたくない。OKスーパーでの買物のあと、語り手はこう述懐する。「腐った梨が象徴する日常のことは語りたくない」(p23。)。

つまり現実生活が充実していない。だからフランスに憧れ、フランス語教室に通う。小説教室にも通う。染色教室にも通う。「とにかくこのまるで優雅ではない生活を忘れさせてくれる雰囲気に浸ることだ」(p56)。

終盤の若い男の恋人「上井草」の登場によって、語り手は女性だという可能性が濃厚になる。「本当に女性なのか? 前半と後半で話者が入れ替わっているのでは?」と疑う読者もいる。しかし、私はやっぱり女性だと思う。特に、視線のめぐらせ方とか、世間体の気にかけ方だとか。男だと無理に読めなくもないが、女性とした方が面白い。

このように語り手の正体はさっぱりなのだが、たぶん30歳前後のフリーター女性という感じだろうか。チラシ配りのアルバイトをレギュラーにして、空いた日は複数の教室に通う。学歴や職歴は不明。経済状態もわからない。チラシ配布のバイトでは、基本給のほか「グーテンベルク」のチラシ一枚投函毎に一円がもらえるらしいが、毎日ではない。どうやって暮らしているのだろう。

転換

終盤、「上井草」の登場に読者は驚く。語り手の「現在」の記述は、メルヘン『チラシ』の重要な長い展開を挟んでかなり飛び、非常な変化を遂げている(p106‐)。ここでもハッキリした説明はないが、変化として最大のものは恋人ができたことだろう。しかも半同棲みたいな感じ。住んでいた公団住宅「メイフラワー下井草」が取り壊されることになるが、それも恋人が手伝ってくれる。もう「腐った梨」のような日常だとはいえない。
いったいどこに転回点があったのか? 鍵は、その直前の『チラシ』の展開(p90−)の中にあるだろう。そこに至るまで、語り手の日常はこんな調子だった。「七月七日(……)キッチンワゴンの前に座り直し、深い吐息を漏らしたちょうどそのとき、聞き古した不快な物音が(隣室から)聞こえてきた。今夜は食事が後まわしにされたらしい。ベランダに出て路面電車の音を聞く。(……)それ(七月七日のこと)から三ヶ月が過ぎ去ったいま、わたしはまったく同じような状況に追い込まれ、こうしてキッチンワゴンに虚脱した状態を押しつけている」(p88‐)

「不快な物音」とはズバリ、喘ぎ声だろう。語り手の隣室の402号室に、若い男女が同棲している。女のほうが一回り歳上で、男はアーティスト志望といったふう。二人ともいつもくたびれた感じ。詳しいことは知らないが、語り手はよく見かける女の方を気にかけている。単身者専用住居なのに……。夜中に帰るなり、食事もせずに喘ぎ声とは……。嫉妬である(この意味でも語り手は女性だと思う)。たいへんツライ。

しかし「上井草」登場の段になって、語り手は不思議な変化を遂げている。「腐った梨」のようだった日常をさっぱり忘れたような感じだし、上井草の扱いも慣れたもの。7月の4日間の日記へのこだわりもない。まるで、402号室の「女」を分身として、良い点のみがメルヘン『チラシ』の完結(破綻)を経ることで語り手にすーっと憑依してきたかのような印象を与える。
『チラシ』の展開が重要だ。そこで何が起こったか。
チラシとは何か? それは広告が刷られた紙だ。よく新聞受けやポストに入っている。捨てなければ溜まる。頼んでもいないのに。そこには何かを推奨する言葉が載っている。語り手は見知らぬ他人にメッセージを運搬する仕事をしている。

メルヘン『チラシ』に利用された素材は、読者にわかりやすく提示される。それらは語り手の周囲にあるものだ。登場人物の名前や会話はフランス語会話の教科書からだろうし、印刷に携わる主人公の仕事はビラ配りに由来するのだろう。冴えない日常も自分の反映。「下を向いて歩く人間には町が狭く感じられるものです。どこに行っても道があり家があり、人間は生活していくものだなどと妙に関心したりしながら、ふと顔を上げると同じ場所に戻っている、そういう狭さです」(p99)。

なぜ語り手はメルヘンを書くか? それはわからない。「はいじま・みのる」の小説教室の受講生から「新しい小説を書いてください」と言われたからか。しかし執筆の意欲はそれほど高いようには見えない。「これを書かねば死ねない!」という熱血タイプではない。一方で、語り手は作家の講師とずいぶん熱心につきあい、自宅を訪れ、彼のデビュー作『裸足の僧侶たち』に考察を加える。つまり文学に対してけっこう本気である。そもそも、日記執筆の動機も、小説教室のためだった。優先順位としては、小説>日記だろう。なのに小説が書けない。日記も書けない。ならばメルヘンではどうか。

と、語り手は7月7日に思いつく。(正確には7月6日から7日にかけての)真夜中過ぎ、漏れ聞こえてくる「騒がしい隣室の男女」を避け、ベランダに出る。今日は七夕だ、まだ七夕になったばかりだ、と気づく(p26)。
『チラシ』の展開のなかで、重要なターニング・ポイントは二つある。(1)語り手が、「ブーテンベルク」の名前の誤りに気づく。(2)クロードの描いている絵のなかで、木の陰に隠れた少女が動き出す。

なぜ、語り手が「グーテンベルク」の名前を「ブーテンベルク」などと間違えたのかは不明だ。あまりにも明白なミスであって、読者は「ブーテンベルク」の表記を見ても、「ああ、語り手の勤め先の名前をちょっとアレンジしたのかな」などとしか思わない。「ええっ、ミスだったのかよ!」とツッコミを入れたくなる。

(2)も、重要な点のように思われるが、よくわからない。絵描きを目指して上京してきたクロード(印刷所での仕事は生活手段にすぎない)の制作する絵は、いわば「作中作」になる。つまり、「四十日」の語り手(女)――『チラシ』のクロード(男)――クロードの絵の中の少女、という、制作物の中の人物と作者の関係にある。この三者に共通するのは、非リア充ということである。語り手は日常を脱出したい。フランスの優雅っぽい雰囲気に憧れる。しかし、自分の執筆する作中作においては、そのフランスに暮らす主人公をもまた、「まるで優雅ではない」生活に置く。さらにクロードも、「優雅」なニンフと対照的に「優雅ではない」少女を置く。「水仕事で作ったあかぎれも、頬と鼻にできたそばかすも、ああ、カラスの濡れ羽色の髪なんか大嫌い。――少女は決意を固めると、するすると着ていた服を脱いでいきました」(p103-)。

この少女が動く。動かないはずの絵が動く、ということが重要だ。絵の中の少女はニンフに憧れて、着ているものを脱ぐ。ここからいったい何をするつもりなのかは不明である。入水自殺でもするのか、ニンフに突撃するのか、それとも全裸になって一緒に遊ぶのか……。この絵の状況に注意してもらいたい。クロードは、緑の絵の具を先に使いすぎたため、本来なら緑色を塗るべき樹木に緑色を塗ることができていない。つまり欠落がある。欠落があるために、なんだか前衛絵画っぽく見える。そしてこの作品は、未だ制作途上(ワーク・イン・プログレス)にある。

作品が固まらずに動くこと、そして制作途上にあること、この二つが「四十日」全体においても重要だと思う。

少女が動くことで、『チラシ』および語り手の状況も変化する。『チラシ』ではほんの出来心でつくった結婚案内のチラシの増殖に、クロードは翻弄される。ハッピーエンドにならない。そして語り手の日常生活に戻るのだが、ここで(たぶん最大の)欠落を迎える。語り手はもはや、『チラシ』および「日記」にはこだわっていない。グーテンベルクでの仕事や小説執筆はもはや過去の話で、上井草との生活が第一。そんな感じ。上井草とは絵画教室で出会った……って、そんな話はじめて聞いたぞ。しかも小説教室と同時期に通っていたらしい。

この妙な倍速感は、小説教室講師のはいじま・みのるがデビュー作『裸足の僧侶たち』で用いた、「七年間を七日間に圧縮する」あの方法を想起してしまう。もちろん、語り手の現在記述においては、数ヶ月(しかし具体的には不明)が経っていることは示されているため、「圧縮」ではなく「欠落」と仮に私は呼んだのだが……。

たとえば、文庫版解説で保坂和志が語り手の信頼できなさとして例にとっている「タイガースの記事」のくだり。メルヘンの「破綻」以前の「日記」にも欠落、というか、「語られている日付」に、「現在」の記述がどんどん混在していく。だから、錯綜して感じられる。この「七月六日」の記述を引く。(p105-)

選挙入場券の残り半分が見つからない。創作は空振りに終わり、へたばってキッチンワゴンの前に座る。頬杖をついて物思いにふける。キッチンワゴンの天板上にはその日の新聞が一部置いてある。/ところでこのキッチンワゴンというのは、机として食卓として使っているものだ。(……)わたしはその小さな机の前に座り、新聞を開いてざっと目を通していく。思わず日曜求人欄に目がいくが、やたら活字が小さく、視力の低下を再認識させられる。刀買います売ります、着物買います売ります、タンスにお祖母さんの着物が眠っていませんか、などとある。そこを逃れるとスポーツ面に目を引く見出し、「ハム斬られ惨敗」「大阪夏の陣」「トラ五連敗で三位転落」。/マウンド上の投手は口を半開きにして打ち仰ぐようにこちらを振り向いている。顔のきれいな選手だ。三位転落ということは、連敗前のタイガースは一位だったのだろうか。しかしわざわざ記事を読んでたしかめる気にはなれない。プロ野球の季節はもうすぎたはずだし、この新聞は三ヶ月ほどベランダに放置してあったので紙面が黄ばんでごわごわなのだ。(太字強調は引用者)

「その日の新聞」がいつの間にか、「三ヶ月ほどベランダに放置」にすりかわっている。つまり、三ヶ月の時間が「しかしわざわざ記事を〜」のあたりでバッサリと欠落している。「たしかめる」というのは、「その日(七月)」の新聞を読んだ記憶を「三ヶ月」後に想起しながら記述しつつ、しかしタイガースが一位だったのかどうだったのかを、三ヶ月後の「現在」、日記の記述を補完するためににたしかめる気にはなれない、ということだと思う。想起される記述に、想起する「現在」の註釈が、なんのことわりもなく、同列に並べられていく。遠近感覚は喪失する。
この遠近感覚の喪失を、仮に平面的、フラットであるといってもいい。たとえばクロードの絵画では、「背後には針葉樹」「最前景に立つ一本の大きな樹木」といったような風景が描かれつつあるのだが、その最前景の樹木に「緑」がない。そして「画材屋へ行くため」(おそらくはビリジャンの絵具を買い、絵を完成させるため)部屋を出たクロードは、自身が生みだした繁殖したチラシにさらわれてしまう。「もうそこにはクロードの姿はありませんでした」(p106)。「言葉」の増殖と、「言葉」を創りだした主体の失踪。またしても「作品」=「物語」は座礁する。(その2に続く)