立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

【記録シリーズ7】続・レゴブロック的走り書き

物心ついた時には、すでにその形式がそれなりの時間の厚みとともに存在した。どうやら自分のやって来る前には、ここを通っていった先達が数えきれぬほどいたらしいのだ……。
ほとんどの人間はそこから何かを始める。先人の実験例や、形式に対する世間の評価は膨大にあるから、時間さえかければとりあえずその範囲内でそこそこのものを成立させることはできる。たとえば、平安時代の貴族も周囲とのつきあいのために、気乗りしないままデータベースから抽出した要素を組み合わあせて歌合戦をしたりしただろう。大正時代の中学生は、校友会誌に載せる俳句や短歌のためにウンウン唸ったりしただろう。私もそんな感じ。ミステリを前提にした会誌があったからこそ、その方程式に代入しようと考えた。
しかしそれでは、形式自体の存在は疑われない。当然ながら形式は永遠普遍のものではない。その「伝統」的厚みもまた。にも関わらず、既存の知見の範囲内で何かをつづることはできる。テクストの生成そのものは、いわゆる「芸術」だとか「文学」だとかいったものと関係があるわけではないからだ。社交の必要に迫られて駄句をひねり出すように。
密室、アリバイ崩し、ダイイング・メッセージ、一人二役、叙述トリック、……これらの要素はそれぞれ異なる起源を持ち、ジャンルの歴史的進展にしたがい来歴を捨象され、普遍的ガジェットとしてデータベースに登録されてきた。後世の人間は歳時記をめくるように、自由に参照することができる。
元々は存在しなかったはずの堆積を前提にすること。ここに一つの転倒がある。形式自体が重要なのではない。それは究極的には、ある達成に至るための方便としての縛りだ。より高く跳ぶための踏み台だ。にも関わらず、時間の経過をくぐり抜けて獲得された形式に、その形式の縛りを通じることによって顕れた自由さに、深く魅了されることがある。やはりそれでなければ、と強く感じることがある(たとえば「小説」)。
話がずれた。「謎」→「謎解き」という構造は非常に強固なものだ。「Why?」という問に「Because......」という答を与えてやる。それでなんとか言い訳がつく。もちろん、今は非常に素朴な、クラシックな場合を仮定している。実作にあたればすぐさま、「Why?」が見えないもの、偽の「Why?」に斜めから「Because......」を直撃させるもの、幾つかの式が連続しているもの……など、素朴な一対一対応に飽きたらず開発されてきたバリエーションは沢山ある。
しかし、基本は「Why?」―「Because......」にある。この形式自体をまず所与のものではなく、批判的に受け取り直さないかぎり、しあがったものはどこまでいっても、パワーコードのズレのみで作曲するような生気を欠いたものにならざるを得ないだろう。
形式へ素材を代入すること。だが、素材たちのこのツルツルした交換可能性は、「ミステリ」を前提に何か書いてやろう、という転倒した発想にあるのではなく、ジャンル自体が持つ論理に元々、通じているのではないかと思う。(続く)