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麻耶雄嵩『メルカトルかく語りき』を読んだ

【『メルカトルかく語りき』の真相に触れていますので、未読の方はご注意ください】

麻耶雄嵩『メルカトルかく語りき』(講談社ノベルス、2011)を先日読んだ。発売時から話題になっていたので、事前情報はけっこう耳にしていたけど、実際に読むと「なるほどこういう感じか」といくつか思う点があった。
まず私は、今作は次へ向かう助走というか、通過点のようなものじゃないかと思った。これまでの長篇に比べれば、やはりどこか物足りなさが残った。「まだまだいけるでしょう」という感じ。
この本は連作短篇集として、ある流れを持っている。終盤の「答えのない絵本」「密室荘」へ向かって、独自の狙いというか、実験的な眼目が明らかになってゆく。真っ先に想起したのは、同じく去年刊行された諏訪哲史の連作短篇集『領土』。たたずまいは全く異なるけど、従来の視点からすれば「これはいくらなんでも◯◯(ジャンル)から外れているんじゃないか」という作品を終点に置き、そこへグラデーションをかけていくようにして連作を構成していく点は同じなんじゃないか。『領土』に関するインタビューを読むと、『メルカトルかく語りき』にもあてはまる点が多々あると思う。
たとえば、「今の小説は『小説ってこういうもんだろ』っていう誰が決めたわけでもない「文法(ルール)」を守らされているところがあります。これまで僕は長編小説を3作書きましたが、そのルールに対して違和感を持ったんです。つまり、僕の書いてきた作品は、実験的なことをしている顔をしながらも、実はルール内のことしかやっていないんじゃないかという。」
「10編目の『先カンブリア』だけは、いくらなんでもこれは小説じゃないんじゃないかっていうご感想でした。確かに今改めて見ると、自分でも小説には見えない作品なんですけど、でもこれを小説だと言うことによって、小説の概念が少し変わるんじゃないかという気もしたんです。それをお話して、1編目から10編目の『先カンブリア』までグラデーションを描くように小説の『形式』が崩れていくという構成を考えました。いきなり『先カンブリア』を見せても誰も納得しないし思考もしない。でも、ここまでグラデーションをかけて『先カンブリア』に至らされたら、これをあえて小説と呼ぶべきかもしれないとお感じになるんじゃないかと思ったんです」
「『小説の領土』ということで言えば、領土にいることの快楽といさせられることの苦痛が両義的にあって、小説の中で憩いたい自分と、そこから出なければいけない自分がいます。では、小説の内と外はどこなのか、ということになる。僕は、小説ではないように見えるものをあえて書こうとすることで、自分の領土を確定したいんです。これまでの僕の小説は全部、結果的には『小説の領土』の外に出られていないんです。領土から出られない、出られない領土のことを書いた、それがこの『領土』です」
それぞれを『メルカトルかく語りき』の場合に――「小説」を「本格ミステリ」に、「先カンブリア」を「密室荘」(あるいは「答えのない絵本」)に、『領土』を『メルカトルかく語りき』に――置き換えてみると、この本の占める位置がだんだん見えてくる。つまり、「本格ミステリ」の領土=限界まであえて行ってみることで、その領土を拡張しようとしているのではないか。
実際に全五編の初出を見ると、本格ミステリを装いつつ明らかに既存の作品およびジャンル観からははみだしている「答えのない絵本」は、書かれた時期が最も古い。あの発想が、何よりも先にあったのだ(たぶん)。それをどう「本格ミステリ」として読ませるか。だから、そこへ至るまでの助走として前の三編が、時おり国境線の内側と外側を行きつ戻りつ、グラデーションをかけるようにして構想されたのではないか。
しかし『領土』と異なるのは、その到着点=最終話である「密室荘」が、もはや本格ミステリでもなんでもないという点。ここは完全に「領土の外」であり、敗北感しかない。新しい可能性など全く読者は感じない。作者も感じていないだろう。「内」と「外」のギリギリのせめぎあいがピークを迎えるのは、やはり「答えのない絵本」だと思う。
ここでは、「無謬のロジック」の欺瞞、限界が素描されている。メルカトルの結論は、本格ミステリとしてありえない。常識としてもありえないだろう。通常のミステリはこういう場合、推理の前提を覆すトリックか勘違いが何かあったはずだと考える。そしてそれを裏付ける証拠を、時間をかけて探す。そのあいだに別の事件が起こったり、容疑者がちょっとしたヒントをもらしたりする。ところがメルカトルは「不可謬」であるために、さっさと結論づけてしまう。
メルカトルにはタメがない――「密室荘」にしても、自分か相方が犯人だとは普通考えない。何かトリックがあったんじゃないか、という方向へ発想が向かうだろう。ところが、メルカトルにはそうではないことがわかってしまうために、隠蔽へと至る。彼が一般的な探偵ではなく、常人を超えた存在であることが、読者に不条理な感覚をもたらす。
ここで作者が描こうとしているのは明らかに、「本格ミステリ」の「ロジック」の限界だと思う。たとえばメルカトルが、犯人の正体が開かれた存在(フーダニットの底が抜けた存在)だと説明する際にもらすこんな言葉。「死人を起こす」では、舞台となる家屋の扉が開いていたために「もちろん性癖の特殊性から人海戦術でそのうち焙り出せるだろうが」だったのが、「密室荘」では、文字通り密室であったがゆえに「当然捕まえることが不可能だから」となる。
何かがおかしい。何かが間違っている。これは「本格ミステリ」の「ロジック」の持つ一側面であり、普通の作者ならそうした限界や矛盾に直面しない範囲で、ウェルメイドな作品を書こうとするだろう。しかしそうした、領土を確定する国境線にどうしようもなく惹かれてしまうのが、麻耶雄嵩法月綸太郎の作品なのではないか。
再び「答えのない絵本」に戻ると、いわゆる真相を「投げた」作品なら、『神様ゲーム』にもそういうところがあるし、緻密なアリバイ崩しなら『木製の王子』が徹底している。これらの長篇に比べれば、短篇だとやはり素描したという感じ。「密室荘」はエピローグのようなオマケだろう。
ここが領土の限界であり、この外はもう、「本格ミステリ」ではない。その観測としての実験であり、通過点としての連作短篇集なのではないかと、私は思う。だから長篇に比べればどうしたって物足りない。ましてやこの本を「本格の極北」と持ち上げる気にはならない。まだまだこの続きがあるはず。
ところで、シリーズの既刊を読んだのがだいぶ以前なのでウロオボエなんだけど、メルカトルの設定ってこんな、携帯電話が出てくるような時代なんでしたっけ。

メルカトルかく語りき (講談社ノベルス)

メルカトルかく語りき (講談社ノベルス)

(追記)……と、短篇集の成立に関して自分の推理を書いたつもりでいたら、Webメフィストの「あとがきのあとがき」で作者自身がだいたい同じようなことを書いていたのを知った。また「答えのない絵本」については、羊毛亭氏のサイトも興味ふかい。