立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

米倉あきら『インテリぶる推理少女とハメたいせんせい In terrible silly show, Jawed at hermitlike SENSEI』を読んだ

「一昔前のメフィスト賞系を思わせるトンデモミステリ」とここのところ一部で話題になっていたので、米倉あきら『インテリぶる推理少女とハメたいせんせい In terrible silly show, Jawed at hermitlike SENSEI』(HJ文庫、2013)を読んだ。
いわゆる「ライトノベル」系の作品を読むのは久しぶり。二年ぶりくらいだろうか。読み始めは、あまりの文章および構成の稚拙さに「ウーン、出落ちで300ページもたせるのはやっぱりしんどいのかな」などと思っていたのだが、異様に時間がかかって読み終えた後は、「これはこれで何かなのかもしれない」と、どこかで反発心を覚えつつも納得するものがあった。今のところ、ネット上の評価では「つまらない」と短く貶したり、途中で読みやめた人の方が多数のようだ。僕自身は否定的でありつつ、触発されるものもあった。それは後述するが、今回は、作品の言わんとするところを敷衍しつつ、過剰に評価も貶めもすることなく、まずは正確な姿を見つめ、その後で「メフィスト賞的」なるものについてみたい。作品についてネタバレしていますので、未読の方はご注意ください。
性的暴力について
本作の読んで誰もが感じる大きな異和は、作中における「強姦」の扱われ方に由来するだろう。いわく、島の中学校に赴任し、文芸部の顧問となった「せんせい」=語り手が実は凶悪な強姦魔なのだが、彼とヒロインおよび周囲の「強姦」に対する反応、描かれ方が信じがたいほど軽すぎる、倫理的な常識の範疇を超えている、等など。僕も確かにそう思う。特に舞台が中学校であるだけに、「妊娠」をめぐる箇所などのカジュアルさ、コミカルなライトさは痛々しく、読み進めるのが苦痛だった。
読了して思い出したのは、先日話題になった森ビルの会田誠展への抗議をめぐる波紋だった。この展覧会は現在も開催中だが、その一部の作品に対し市民団体が今年の一月、「性暴力性と性差別性に満ちた作品」だとして抗議をしたのだった。
問題となった作品をいくつかネット上で見ただけでは、僕も嫌な感じを覚えた。その後いくつか反応を見たが、なんだかモヤモヤしたものが残った。今ここで会田作品批判はする力量も意思もないが、その後、本作とその読者の感想を読んで、あの時感じたことがこの本に内在する或るテーマに通じているのではないかと思った。
簡単にいうとこうだ。この本は「中高生を(読者層の)メインターゲットにしている」HJ文庫から刊行された。先の読者感想には「中高生にこんな内容を読ませていいのか」という意見もあった。こうした意見の背景には、「中高生以上であればまだ辛うじて虚構として受け止め、許容できるかもしれないが」ということが無言の前提としてあるだろう。実際、「ライトノベル」という枠を外してみるなら、この程度の性的暴力は現在、ポルノとして至るところにあふれている。いや娯楽としてのみならず、現実社会においてもそうだ。たとえば、途上国の現状を啓発する「Because I am a Girl」キャンペーンにつけられた「13歳で結婚。14歳で出産。恋は、まだ知らない」という広告などを見ると、少女というだけで人権が蹂躙される実際があることに僕は憤りを覚える。しかし、覚えるだけだ。それに限らず、世界各地に今も存在する現実の非情さを日常の諸々にかまけて知らぬふりをしていることを考えると、悲しく思い、申し訳なくも思う。そんな僕のような読者が、たまたま目についた小説の性的暴力を不謹慎だと殊更とりあげ、他人事のように安全地帯から一方的に非難することは滑稽だしアンフェアでもあるだろうから、それはしない。しかし、このフェア/アンフェアを判定する基準の感覚は、この本の中で非常に大きな意味を持つと思う。
いわゆる「カテゴリーエラー」ということが問題なのだろうか。ポルノの性的な過激さは、ポルノをポルノとして(つまりR-18のカテゴリーに括られたものとして)受け取るかぎり、今の日本社会ではかなりのレベルのことが存在を許容されている。しかしそれは、過去においては自明のことではなかった。「『チャタレイ夫人の恋人』裁判」や「『四畳半』裁判」、あるいは「『愛のコリーダ』裁判」などは、今の眼からすれば「なぜその程度のことが弾圧されたのか」と、ほとんど滑稽にすら思えるが、しかしそこで感じるオカシさは歴史的なものだ。絶対不変のものではない。それぞれの裁判が行われた時代に、あるいは今も行われつつある人権蹂躙の現場に身を曝せば、性的暴力を許容する閾値は微妙に異なってくるだろう。
だから本作を皆が許容せよ、といいたいのではない。「強姦」の扱いへの拒否感は抜きがたく存在する。しかし逆に、性的暴力を扱った作品を全て規制せよといいたいのでもない。個々人の自由な趣味嗜好の棲み分けは必要だとも思う。
ここでまとめてみたいのは、扱われているテーマと、読んでいる間に想起した先行ミステリ作品との通底する可能性についてだ。それは上述の暴力とも関わってくる。

ミステリの論理について

「古ければミステリではない。新しきこそがミステリです。この現代においてはモルグ街とてただのホラーであって、使い古されたトリックを使っている古い探偵小説が、どうしてミステリィなんでしょうか」
「古典を読むのは推理小説が好きなんじゃなくて、歴史が好きなだけ。積み上げてきたものが継承されていないのならば、……ならば逆に、歴史的な名作のネタを思いっきりパクってしまっても、子供たちには斬新だと言われるのではないかと思ったのです」

本作のヒロイン比良坂れいはこう語る。ここでミステリファンはつまづく。「子供」に限定した「斬新さ」にどれほどの意味があるのかもさることながら(ライトノベルレーベルだから?)、年長者を含めた多くのミステリ読者は、(マニアになればなるほど)単に「驚き」だとか「斬新さ」だとかを求めて読んでいるわけではないからだ。確かに、「驚き」は、未知のところからやってくる。しかしそれは作品をはかる尺度の一つにすぎない。「新しさ」がミステリの全てではないのだ。「新しさ」では、昔の作品は今の時代に敵わない。だがその網からは沢山のものがこぼれ落ちる。「今」の「新しさ」もやがては古びる。といって、我々はそれでポーやドイルやクイーンやカーやクリスティに対し自動的に上に立ったことになるのか。ならない。それはソクラテスニュートン物理学を知らなかったからといって我々よりバカだったのかといったらそうではないのと同様だろう。
芸術に限らず文化的な創造は一般的に、「普遍的なもの」と「個人的なもの」の両輪から成り立っている。「普遍的なもの」とは、技術だとか知識だとか、広く共有されるものをアーカイブ化していく流れのことを指すと仮にしておく。「個人的なもの」とは、衝動だとか情熱だとか天分だとか運だとかの個人的資質のことだ。どちらが欠けてもダメなのだ。つまり、いくら天才的な技術を持っていようと対象への情熱がなければ宝の持ち腐れでしかなく、逆にいくら愛情を持っていようとそれを共有できるものにしなければ受け入れられないし、長く続かない。「普遍的なもの」と「個人的なもの」はどちらも高められねばならず、そのために個人の努力は大いに寄与する。しかし、それは一人の力だけでどうにかなるわけでもない。
つまり、アーカイブ化され整理された「叙述トリック」や「物理トリック」の知識だけで過去を乗り越えられるかといえば、全くそんなことはない。知識や技術を身につけるのでさえ困難なことに加え、書き手は剥き身の個人的資質でもまた過去と対峙しなくてはならない。
「古典を読むのは推理小説が好きなんじゃなくて、歴史が好きなだけ」と比良坂れいが断言するのは、歴史の流れの中で急に後ろを振り返り、「今、ここ」の基準で過去を断罪するのと同じことだ。その時切り捨てられるのは、過去の人物たちが持っていた個人的資質である。文学においては科学よりもこの個人的資質が重要だ。ニュートンの『プリンキピア』に「普遍的なもの」を読み取ろうとすれば、今の眼では理解し難いような偏見、誤謬、限界に満ち溢れているが、未知のものへと取り組んでいく彼の態度は我々と同じ尺度で比べ得る。科学と文学(芸術)において「古典的著作」の扱いが異なる所以だ。文学的な視野では2000年前の著作も、遠近法によって縮減されない等身大のものとして一方で読み得る。
ミステリは他の文学作品より、「科学」の尺度で測られる度合いが高い。それは作品の成立に上述の「新しさ」や「技術」の果たす役割が大きいからだ。しかし、決して「新しさ」や「技術」のみによって作られるのではない。この普遍性と個別性は互いに絡み合い、両輪として進展する(私見では、「"推理"小説か推理"小説"か」という問いは、この辺りの尺度の違いに関わってくる)。
だいぶ本編から迂回したようだが、実は上記のことは作品とも密接に関わってくる。「あとがき」を読めば、作者は「とあるバンド」の「へたくそ」なライブを観て

「そのお行儀の悪いライブは勢いしかないからこそ、誰よりも、大きな音が出せていたのです。ゴミみたいな雑音に心動かされ、この大きさこそ、これこそがエンタメで、娯楽とはかくあるべきなのだ、――と思っていた時期に書いたものになる」

とあるように、「個人的なもの」を擁護したいようだ(少なくとも執筆時点では)。私もその気持はよくわかる。硬直した権威に対するアマチュアリズム。堅苦しい西洋音楽のエリート演奏家よりも、楽器の弾けないままデビューして伝説となったシド・ヴィシャスの方が好き、というわけだ。しかしそれが、「今」の基準で過去を裁き、優位に立とうとするやり方ならば、まったくアンフェアであり、早晩古びるだろうことはこれまで書いた通りだ。それは「アンチミステリ」とは異なるはずだ。
「アンチミステリ」とは思うに、近代的な芸術形態であるミステリが無意識に前提していた誤謬、誤解、欺瞞、限界などを「ミステリの形式を通じて」暴き出すこと、ジャンルの持つ内在的論理をジャンル自体に突きつけ返すことで、自己崩壊を起こさせることではないか。その崩壊から千里も万里も前で悦に入ったところで、形式自体はびくともしない。
何が問題なのか。それは先の「古典を読むのは推理小説が好きなんじゃなくて、歴史が好きなだけ」という台詞にもあるように、歴史の軽視にある。歴史を嗤うものは歴史に復讐される。このことは作品全体を貫いている。
どういうことか。語り手である「せんせい」は時折、こう語る。「さっさと犯したいので情景描写は省く」「強姦するにしても、セオリーからして多少の人間ドラマはいるのだろうと、努力はする」。文学的な伝統を茶化したつもりで書き手の筆力不足を誤魔化すやり口は今やクリシェとしても死ぬほどつまらないものになったが、このような不誠実は、中学生がビニ本を万引きして「資本主義に対する革命的犯罪を行なった」とふんぞり返るようなものなのではないか。
歴史とは端的にいえば、それは他者のことだと思う。ここで僕が他者と指すのは、「私」と違う論理、違う思考、違うリズムで生きる者のことだ。過去の作品や翻訳ものを時に読み難く感じるのは、そこに「私」とは違う論理、違う思考、違うリズムで生きる他者がいるからだ。
他者の視野においては、我々が空気のように無意識に前提している「当たり前」が「当たり前」でなくなる。「当たり前」が「当たり前」でないにも関わらず他者が何の問題もなく存在しているのは、「私」と前提が異なるからだ。たとえば、キリスト教はその内部においては合理的な宗教である――キリストが神の子であるという前提を受け容れれば。しかし、外部にいる者(他者)にとっては、その前提こそが最も受け容れがたい。これは他のことについてもいえる。俗に「マンガ的」「アニメ的」と(主に侮蔑的に使われる)言葉があるが、それは「マンガ」や「アニメ」が「この現実」とは「違う論理、違う思考、違うリズム」で無矛盾に動いているからだ。私はふだんライトノベルを読まないが、久しぶりに書店で購入した時は、やはり異様に感じた――たとえば女性キャラクターの服装だとか、広告におけるアニメの度合いとか。それは僕がライトノベルの他者だからだ。僕の「異様」を「当たり前」に感じる読者もいるだろう。同様に、ミステリをあまり読まない読者がいざコミカルなミステリを読めば、そこでの「死」の扱い方のあまりの軽さに、「異様さ」を感じるだろう。
こう敷衍してくれば、この本が与える「異様さ」の正体もわかってくる。つまり、「強姦」をカジュアルに扱うことを「当たり前」の前提とする世界の「異様さ」だ。この、ある種のポルノにおいてはすでに目新しいものではないだろう想像力が、10代〜20代を主な読者層とした世界(その視野の内部においてはそれまでこれほどの性的暴力を想像し得なかった世界)に移植され、その「違う論理、違う思考、違うリズム」の受け容れを読者へ乱暴に迫ってくることが、異化効果を果たし、嫌悪感やショックを与えているのだと思う。
「強姦」とは、この「違う論理、違う思考、違うリズム」の受け容れを強要することの隠喩なのだろう。編集部が鼻息を荒くし、ふだんライトノベルを読まない僕のような者にまで噂が届くほど多くの読者が衝撃を受けたのは、意識的にか無意識的にか、この隠喩にこめられた形式と内容の合致に気づいていたからだろう。
(……続く)