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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

殊能将之を再読する/『ハサミ男』(3)

ミステリ 殊能将之

【『ハサミ男』の真相に触れていますのでご注意ください】
 ※
SCISSOR MAN and OUR MUSIC
先日、たまたま山城むつみドストエフスキー』という本を読んでいたら、ゴダールの映画『アワーミュージック』についての記述に出くわした。それは、映画内でも重要な役割を果たす「切り返しショット」という技法をめぐるゴダール自身の言葉なのだが、こんな感じ。

世間では、カメラというものはつねに正面から撮るものだとか、あるいは、正面からまっすぐ捉えるからこそリアルなものを見ることができるのだ、といったことが信じられています。レヴィナスのような哲学者ですら、顔をよく見たらその人を殺したくなることなどあり得ないと考えています。レヴィナスはショット/切り返しショットを間違えているのです。本当の切り返しショットというものは、およそのところ軸にしたがって行われなければなりません。他者を理解するためには、カメラをその人の背後におき、彼の顔を見ないようにする必要があるのです。そうすることでまた、その人の話に耳を傾けているもうひとりの別の人を通じて、彼を理解するようにしなければならないのです。(廣瀬純「ショット/切り返しショット、ゴダールレヴィナス」『nobody issue』29号所収のゴダールの言葉を山城著より再引用)

要約すると、ある人物を理解するためには、その人の顔を真正面から捉えるのではなく、背後から近づき、その人の視野に自分の視野を添わせる必要がある、ということになるだろうか。ここを読んだのは殊能氏の訃報を聞く前だった。その後、『ハサミ男』を久しぶりに再読して、あっ、と思いあたることがあった。
切り返しショットは、映画で向かい合った相手を交互に切り返すようにして撮る技法。主に会話シーンなどで用いられる(こんな感じ。また、『アワーミュージック』と切り返しショットについてはこの辺りにも詳しい)。
私は映画に詳しくない(ゴダールも全然観ていない)し、これから述べることはかなり大雑把な思いつきになるので、おかしな点があったらドンドン批判していただきたいが、つまりこういうことが浮かんだ。

  • ハサミ男』では二つのパートが交錯して叙述トリックを成しているが、そこでは「切り返しショット」的な技法によって、「わたし」に対する劇的アイロニーが増幅されているのではないか。
  • そしてこの「切り返しショット」的な技法によって表現されるものは、殊能将之の全長編を貫くあるモチーフとなっているのではないか。

今このエントリを書いている時点ではまだ『黒い仏』までしか再読できていないが、おそらくそう外れてはいないのではないか、という予感がしている。
視野が切り返されるためには、少なくとも二人の人物が互いに向かい合っている必要がある。『ハサミ男』では一人称と三人称のパートが交互に展開されるが、「互いに向かい合っている」状態はもちろん、それほど多くない。もっとも印象的なのは、もちろん、日高の住まいで「わたし」と堀之内、磯部が向かい合う場面だろう。その少し前に日高が「わたし」を訪れることで、作中の叙述トリックの一端は読者へ決定的に判明する。では、ここに書かれていることはいったい何だろうか。
一人称と三人称の交錯は、叙述トリックと関わってくる。しかし読んだ感触でいうと、一人称の場合はゴダールのいうように「カメラをその人の背後におき、彼の顔を見ないように」している、つまり読者が背後から「わたし」に近づき視線をできるだけ重ね合わせようとしていると感じられる(その時、「わたし」の顔は読者に見えない)のに比べ、三人称の場合は、たとえば磯部たちの顔が「見える」。地の文で「磯部」と書かれるたびに、読者は磯部の顔に向き合う。
ハサミ男』は、簡単にいえば全体が「わたし」をめぐる物語になっている。一人称が「わたし」の視線、三人称が、警察に代表される社会の側の視線をなす。この二つは非対称だ。のみならず、社会の側は事件をまったく誤解している。最後に至っても磯部は堀之内が樽宮殺しの真犯人だと思っているし、「わたし」のことなど何も理解していない。多くのミステリが解決編を経て登場人物どうし真相を「共有」するのに比べると、なかなか異様に感じられる。この真相の非共有性は、殊能作品に共通してあてはまるので注意していただきたい。
視点Aと視点Bとでは、見ているものが違う。立場も異なる。このことが非対称性をなす。ゴダールの先の言葉によれば、「真の切り返しショット」は、この非対称性を露にする。『ハサミ男』の場合の非対称性とは何だろうか。またまた先ほどの「切り返しショット」の文脈に寄りかかれば、二つのショットの切り返しが最終的に構成するものは、そうしたかけ離れたものどうしの「対話」ということになる。そうでなければ、この二つが出会う意味がない。では、もし『ハサミ男』にこの「対話」があるとすれば、それはどの辺りなのか?

Shot by both sides

かつて公式サイトで公開された日記「memo」で以前、万田邦敏の映画『接吻』の感想として、黒沢清の著書『黒沢清の映画術』(新潮社、2006)を引用しながらこんなことが述べられていた。

ヒッチコックは円だ」とか、「フライシャーは透明だ」とか、(映画評論家の蓮實重彦立教大学の授業で教えていたことは)例の蓮實理論がほとんどですが、時々、映画を作る上での本質に触れることをぽろっと口にするんです。
よく覚えているのは、「映画は、向かい合っている二人の人間の視線は撮れない」という言葉です。急に言われて、その瞬間は、「ええっ!?」と唸るだけ で、意味が分からなかったのですが、自分で撮り始めてようやくその意味がわかってきました。つまり、人が向かい合っている状態で、両方の人の視線を同時に カメラのフレームに収めることは物理的に不可能なんです。人の視線を撮ろうとすれば、二人ともカメラの方を向いてもらうか、一人ずつ切り返して撮る必要が 生じてきます。つまり、自然に二人が向かい合っている状態を撮影するのは無理なんです。
しかし、映画では往々にして二人は向かい合うものなのです。(『黒沢清の映画術』新潮社、pp.31-32)

「接吻」はほとんど上記の蓮實重彦の言葉の映画化だったね。
豊川悦司小池栄子の向かい合う視線を正面から切り返して撮った場面があり、そこに最も衝撃を受けた。(memo 2008年8月前半

インターネットアーカイブでこの箇所を読み返した私はまた、別の文脈に気がついた。それは、ジーン・ウルフケルベロス第五の首』をめぐるこういう記述だ。

柳下(毅一郎)さんはコラム(「文藝」にかつて連載していた「オレにやらせろ」という未訳書紹介コーナー)でこう書いている。

ウルフの最大の魔法は、語られていることと起きていることが違う状況を文章力だけで表現してしまう ところにある。一人称の主人公はもちろん自分の信じていることを語る。だが、その語りの中からもうひとつの真実が浮かび上がってくる。二つの事実のはざまに魔法が生まれるのだ。

本格ミステリファンなら、柳下さんが何を説明しようとしているかを正確に理解できるはずだ。本格ミステリというジャンルには、この「魔法」をひと言でいいあらわす専門用語が存在する。(reading 2002年7月19日

普通に推測すれば、この「二つの事実のはざま」に生まれる「魔法」とは、叙述トリックのことだと思う。「語られていることと起きていることが違う」。それが叙述トリックの基本だ。しかし、『ハサミ男』では、単に「語られていることと起きていることが違う」だけでなく、この「はざま」の「魔法」=「ズレ」が、「わたし」を立体的に浮かび上がらせるように働く。
ここで、先述した「劇的アイロニー」とは、一言でいうと「劇中人物が自らの状況のなかにいて知らずにいることを、観客が知っていて、劇中人物という当事者の無知を目のあたりにする効果」のこと。「志村、うしろ、うしろ!」というやつですね。『ハサミ男』の場合、「わたし」の自己認識と他者による認識との「ズレ」が、読者を誤導しつつ、終盤では「わたし」を照らし、その闇のありかを告げる。「わたし」の自己評価は著しく低い。しかし、周囲の評価は高い。「こんなにきれいな人」「美人」「正社員になる気はありませんか」。「わたし」が頑なに否認するこのどうしようもない「ズレ」が、視野の交叉点に立つ読者に「わたし」という他者の姿を浮かび上がらせる。
先の「蓮実理論」でいうと、「映画は、向かい合っている二人の人間の視線は撮れない」(向かい合っている二人の視野を同じフレームに収めることはできない)が(だから切り返しショットを構成する必要がある)、本格ミステリにおいては、この視野の切り返しに加え、叙述トリック的な技法を用いて、「二人の視線」の「はざま」にスパークする「魔法」を間接的に記述することができる。ラスト、「わたし」と磯部の間で交わされる会話の「ズレ」には、どこかリリックな感触が漂う。「わたし」は、「わたし」をめぐる他者の言葉を描写として記述することはできるが、それを正確に認知することはできない。「わたし」と他者とのあいだの「ズレ」は、対話を重ねれば重ねるほど明らかとなり、明らかとなればなるほど、他者による評価と自己評価とのあいだで挾み撃たれた「わたし」の「火星人」ぶりは印象づけられる。
しかし、その意味でいえば、「わたし」には、本当はもっと他に対話すべき人物がいる。
樽宮由紀子だ。