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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

殊能将之を再読する/『ハサミ男』(4)

【『ハサミ男』の真相に触れていますのでご注意ください】
対話とズレ
殺人というのは存在を非存在へと変質させる絶対的な暴力で、どうしてかはわからないが、「わたし」はそうした暴力を振るわずにいられない。先述の「ユリイカ」(1999年12月号)のインタビューで作者は、こんなふうに答えていた。

あれは要するに自殺願望なんです。彼女は、自分に似た女の子を殺して廻っている。たまたま殺しそこなった女の子が一番自分に似ていたんです。まあそれは裏設定で、そんなことは一言も書いていませんが。

つまり殺人もこの「わたし」という現実を否定する自殺の裏返しなわけだ。自殺未遂がいつから始まったのかは不明だが、殺人はだいたい「一年以上前」だった。そこから二人を殺し、三人目に予定していた樽宮由紀子は寸前で横取りされた。樽宮のことを調べるうち、利発だが孤独な自分と似た「火星人」ぶりに気づかされる。
樽宮の生前にはもちろん、直接話しかけたことはない。「対話」は、以前もとりあげた第20節で起こる(文庫版では360頁〜)。

わたしは彼女とともに、ポプラの木々にはさまれた赤い煉瓦道を抜け、高校の正門から坂道へと歩き出した。(……)/あなたとこうして話したいと、ずっと思っていたわ、と彼女がささやくように言った。/わたしもだ。もっと早くきみに会いに行けばよかった。/そうね、ちょっと遅すぎたわね。/彼女はほほえんだ。長い黒髪が風に乱れ、裏葉色のブレザーがはためいた。/たくさんの人からきみの話を聞いたよ、とわたしは言った。……

当然ながら、死者との対話など、現実にはふつうありえないことだ。〈これは夢だ。/わたしは自室のベッドの上で目覚めた。(……)/妙な夢を見た。樽宮由紀子について調べたりしたからだ。わたしは樽宮由紀子に取り憑かれたような気持ちになっていた。いいかげん、終わりにしなければならない
今はもういない人物についてあれこれと調べるうち、小説の重要な転換点で「その人」が夢に出てくる。これだけだとよくあるパターンだろう。しかしこのシーンで奇妙なのは、樽宮にはどうも、「わたし」が医師に見えているらしい、というところ。〈いつも白衣を着て、丸いサングラスをかけているのは、ちょっと変ね。それに、どうしてそんな、白髪のおじいさんみたいな顔をしているの?
なぜ樽宮には、「わたし」が医師に見えるのだろう? 医師とは、「わたし」が自殺に失敗した時にだけ現れる存在ではなかったか。小説に登場する最初の自殺未遂のシーンにはこうある。〈目の前にほのかに浮かぶ天井が、だんだんぼやけてきた。これからなにが起こるのか、わたしは承知していた。死にそこなうたびに起こることだった。/また〈医師〉と面談しなければならないのだ。〉(第3節)
この樽宮との「対話」の後、医師は「わたし」の自殺未遂に関係なく、重要な場面で前面に出てくるようになる。樽宮の夢を見た後、樽宮家の仏前に行き母親とし恵と対話するシーン。〈わたしと彼女のあいだには、なんの思いの結びつきも、なんの心のつながりもなかった。わたしの肺のなかには、とし恵に伝える言葉は何ひとつ存在していなかった。/わたしは彼女に何も答えることができなかった。/そうかい。では、ぼくが代わりに返事をしてやろう
自殺未遂をしていないにも関わらず、なぜとつぜん医師が出てきたのだろう? しかも母親のとし恵は〈樽宮由紀子との類似はいっそうきわだっていた。樽宮由紀子も四十歳近くまで生きていたら、こんなふうに見えたのだろう、とわたしは思った〉とあるように、樽宮由紀子そっくりなのだ。そんな母親とも「わたし」ではなく、(夢の中と同様に)医師と対話が交わされたということになる。その疑問は、終盤の対決の場面でも浮かぶ。日高が訪ねてくる直前、首吊り自殺に失敗し、初雪が舞う東京のベランダで、医師と「わたし」は重要な会話を交わす。医師はこういう。

「少女を絞め殺したときに感じる不快感を、きみは理解できない。鬱血して赤黒くふくれあがった顔を、きみは見ない。のどの奥から押し出されたかすかなうめき声を、きみは聞かない。ハサミの先端が肉に食い込み、硬い部分にあたって止まる感触を、きみは感じない」
ため息をつくと、
「だが、ぼくはそれらを見、聞き、感じ、恐れ、悔い、罪の意識にとらわれる。ぼくの両手は血に染まっている。少女たちの顔を思い出すと、息が止まりそうになる。警察に逮捕され、実家の家族が苦しむことを思うと、夜も眠れない」
医師は言葉を切り、顔を伏せた。
「こう考えたことはないかね?」
不意に顔を上げると、
「ある抑圧のせいで、こんな老人めいたご面相になってはいるが、本来は、ぼくのほうが中心的な人格なのだと。きみはぼくがつくり出した妄想人格にすぎない。そう考えたことはないか」
わたしにはあいかわらず、医師が何を言いたいのか、まるで理解できなかった。
「きみは狂っていないし、病んでもいない。なぜなら、きみ自体が狂気であり、病気だからだ。ぼくはたぶん頭がおかしくなっているし、深く心を病んでいるのだろう。きみはぼくの病気の〈症状〉なのさ」
医師はわたしの顔を見すえて、
「きみは強い。強すぎるくらいだ。なぜ少女たちを殺すのか考えたこともない。どうやって少女たちを殺すしか考えない。一方。ぼくは弱い。きみに比べたら、恐ろしく弱いんだ。だから、こうしてこの部屋に閉じこもっている。そして、きみが少女たちを殺すのを止めることもできない」
医師は自嘲的な笑い声をあげた。

「わたし」が殺人を犯す直接描写は、作中では日高を殺害するシーンだけだが、確かにそこで「わたし」は淡々と働いている(第23節冒頭)。だが、そこでもまた急に医師が登場する。〈そのとき、声がかかった。/「ポットの底を忘れるなよ」/驚いて顔を上げると、流しの前に医師が立っていた。/いつものとおり、新品の白衣を着て、丸い黒眼鏡をかけている。医師が自分の外に出てくるのは、珍しいことだった〉先述の作者の、殺人=自殺説に従えば、殺人時に医師が出てくることは不思議ではないが、もちろん、日高の殺害は少女殺人とは違う。医師が自分の「部屋」を出てくるのは、そこに樽宮殺害の真犯人である堀之内がやって来るためだ。〈そのとき、ドアチャイムが鳴った。/「ほら、おいでなすった」/医師はわくわくした表情になっていた。/「いよいよクライマックスだ。これを見逃さないために、ぼくはわざわざ出てきたんだよ」
医師は堀之内との対決を事前に知っていた。どうやら、「わたし」の存在に関わる重要な場面で、医師は自在に出てくることができるらしい。以下、堀之内と真相をめぐって対話する場面では、主に医師が相手を務める。またまたインタビューを引くと、それについてはこう述べられている。

ハサミ男』の場合は、「ハサミ男」の一人称「わたし」で書いているシークエンスは、一人称一視点で書きたかったんだけど、「殺人鬼探偵」という設定を活かすために、ハードボイルド的な行き当たりばったりの探偵ではなく「名探偵」にしたかった。「私には最初から分かっていた」と言わせたかったんです。そのために、人格分裂というのが招来される。そうすれば、「わたし」の視点で書いていても、分裂人格の「医師」のキャラクターは三人称で書けるわけです。この医師の見たこと考えたこと気付いたことは書かなくていい。そういう技術的な事情から導入されたものなんですね。

ミステリ的にいえば、医師―わたしの関係は、ホームズ―ワトスンの役割にあたるだろうか。同じ「わたし」が犯す殺人でも、医師と「わたし」とでは、見方が異なることになる。医師はその後、若い刑事の磯部が対決シーンにやってき、堀之内が死んだ後、病室で磯部と対話する場面においても、事件の真相(警察側にとっての)の聞き手となる。〈イソベとかいう刑事はやっと帰っていった。/窓際に立っていた医師となにやら会話していたが、こみ入った、ややこしい話だったので、わたしはほとんど聞いていなかった。ただ、話のあいだ、イソベがずっとわたしの顔を見つめているのが、じつに不愉快だった。/太った女を見るのが、そんなに珍しいのだろうか
「わたし」の認識では、磯部は「わたし」の顔を見ながらその横の窓辺に立つ医師と会話をしていたということになるのだが、もちろん、そんなふうに会話する刑事などいないだろう。「わたし」の認識が間違っているのだ。
前回の切り返しショットの文脈でいうと、最後に警察視点と「わたし」との視点が切り替わるこの箇所、つまり、

磯部はほほえんで、知夏のベッドを後にした。
「花はもういりませんよ」知夏が磯部の背中に声をかけた。
磯部は集中治療室から廊下を出た。
クリスマスまでに退院できたら一緒に食事をしませんか、とはとうとう言えなかった。だが、これから機会はまだあるさ、と磯部は思った。
(27)
イソベとかいう刑事はやっと帰っていった。……

という間隙=対話で明らかになる「非対称性」とは、磯部は「わたし」のことを何も理解しておらず、「わたし」は現実を正確に認知できない、小説の最後に至ってもそれは変わらない、ということだ。医師そっくりの「パパ」が見舞いにやってきても、〈誰かが医師そっくりの男に返事をしていた。暗い洞窟の奥から響いてくるような、うつろな声だった。その声はわたしのものでも、医師のものでもなかった〉。ちなみに、「パパ」がやってきた際に逃げ出した医師が「いかん、ライオス王のお出ましだ」という「ライオス王」とは、オイディプスの父親のこと。
すれ違いについて
巽昌章は「メフィスト」に連載されたミステリ時評『論理の蜘蛛の巣の中で』(講談社、2006)で、第三作『黒い仏』についてこう書いていた。

この作者はたぶん、すれ違いが好きなのだろう。第一作『ハサミ男』は、連続殺人鬼ハサミ男が自分自身を模倣した犯行の現場に出くわすというその発端から、すでに喜劇映画的なすれ違いの味を帯びていたし、その後も、刑事たちとハサミ男の描く軌道はしばしば間一髪で交叉しながら再び離れてゆく。そもそも『ハサミ男』という長編を支えるトリック自体、刑事たち、ひいては読者のまなざしが、あるすれ違いを演じ、空振りしてしまうような仕掛けに基いていたではないか。ひとびとの掛け合いにみられる、ちぐはぐしたおかしみもまた、すれ違い趣味のあらわれだろう。すれ違いとは、世界の分裂を、古典的なコメディに翻訳する技法に他ならない。
殊能将之は本格推理小説のスタイルに極めて意識的な書き手であり、その小説はあくまで透明な構造を演出しようとしている。それを前提としながら、主従を決定できないふたつのすれ違いという設定を持ち込むことで、彼は、探偵・犯人を両極とした図式とは異なる世界を作ってしまったのだ。(第八回「分裂と連続」)

重要で本質的な指摘だと思う。しかし、『黒い仏』以降の作品を知っている現在の読者としては、それはすれ違い「趣味」どころの話ではなかったのではないか、とも感じる。互いに異なる複数の見方(「世界の分裂」)があり、その視点同士の切り返し=対話を通じて、すれ違い=非対称性が明らかになってゆく、というのは、もっと重要なモチーフだったのではないかと感じられる。最近書かれた法月綸太郎の追悼文は、さらに踏み込んでこう書く。

殊能将之氏は、言語やアブストラクトな形式に淫した作家だとされている。ただ、同時に殊能氏ほど、生身の肉体や生活に属するよろこびやかなしさを描くことを疎かにしなかった人はいない。笑い(下ネタを含む)や食事、音楽等に関する血の通った描写しかり、『鏡の中は日曜日』の名探偵論しかり、名探偵が記号的なキャラクターではないく、切れば血の出る肉体の持ち主であるということを、そして、抽象化の果てに人を縛る生の条件をあぶり出してしまう本格という形式の俗っぽさを、あれほど力強く肯定した小説はない。(「嘘が嘘であるために」・「メフィスト」2013vol.1)

これまでの流れから強引に読んでいくと、「言語やアブストラクトな形式に淫した」、つまり「趣味」にとどまらず、人間が究極的にはどうしても理解し合えず、すれ違い、分裂した存在であることを「生の条件」として、それを「あぶり出してしまう本格という形式の俗っぽさ」を「力強く肯定」することは、もっと大きなものだったのではないか。そしてこのすれ違い=ズレから、単なる叙述トリックを超えた、コメディなり、叙情なりが生じてくる。『美濃牛』の二人のカップルや、『黒い仏』の大胆さ、『鏡の中は日曜日』の「ぼく」の殺人、『樒/榁』の反復、『子どもの王様』のラストの訣別、『キマイラの新しい城』の「稲妻卿」のズレ、といった諸作の要素は、この辺りから読み解くことができるのではないだろうか。
蝶番の在り処
ハサミ男』について、もう一点だけ。この小説の感想ではよく、ラストがとりあげられる。病室で「わたし」好みの少女を「わたし」が見つけ、「きみ、名前はなんていうの?」と声をかける。「わたし」は今後も何も変わらず、殺人を続けるのではないか、というわけだ。初読時は私もそう思った。
確かに、「わたし」が殺人について何も感じないのであれば、反省などありえない。ゆえに、自殺未遂を犯し、殺人を犯し続ける可能性は極めて高い。しかし再読して、「わたし」が少女に声をかけるのは、恐らくこれが初めてなのではないか、とも私は思った。これまで、「わたし」は会社の通信教材システムの名簿を通じて被害者を選んでいた。直接見かけて声をかけたのではなかった。最初の少女について調べていくうち、〈顔や声も知りたくなり、彼女の家を張り込み、間違い電話を装って電話をかけた〉(第3節)こともあった。第二の少女の場合については不明だが、名前も知らないうちから、「わたし」が自分によく似た少女とじかに対面して会話したことはなかったのではないかと思う。この会話は重要な意味を持ちうる。なぜなら、上に見てきたように、『ハサミ男』の中で「わたし」が自身の存在に関わる本当に重要な対話を行なったことはなく、たとえ元々は医師が基本人格なのであるにせよ、「わたし」に本質的な変化が訪れなければ安永の殺人および自殺未遂はこの先も止まらないだろうからだ。
が、少女との出会い方が異なるからこのラストは実は希望を示したもので、「わたし」は少女を殺さないだろう、と決めつけるのは早すぎる。「わたし」が少女と今後どう向き合うのか、それはわからない。

これからどうすればいいのだろう。
何か確実な方法を見つけて、自殺を成功させるか。
少女殺しをつづけて、今度こそ警察に逮捕されるか。
医師そっくりの男が言っていたように、実家に帰って、家事手伝いをすることになるのか。
岡島部長の勧めに従って、氷室川出版の正社員として、キャリアウーマンの道を歩むのか。
それとも、頼りなさそうな刑事と恋愛して、警察官の妻におさまるのだろうか。
どれもありえないことのように思えた。
だが、その一方で、どれも十分ありうる未来のようにも感じられた。
まあ、どうでもいい。医師がいつか言っていたように、人生はなるようにしかならないのだから。

唐突かもしれないが、私はこの箇所で平石貴樹『だれもがポオを愛していた』(創元推理文庫、1997)の次の箇所が浮かんだ。

「おやおや、ニッキ」私は笑いながらもう一歩彼女に近づいた。「きみは詩人になりたいのかい、それとも警官になりたいのかい? ぼくなら、答えは簡単だ。警官さ。だからぼくは本気で詩を読んだりする必要は感じない。きみはそう考えないのか?」
「……わかんない」彼女は額にあてていた手でいまいましげに髪を後ろに払った。
「あたしは今までその二つが両立不可能なものだなんて考えたことがなかったもの。詩人と警官と。……あたし、もちろん詩人になりたいと思ったことなんてないわ。これからもないでしょうね。でも、そうなる可能性はそのまま残っていると思ってたの、何となく。警官になることが、あたしの中のその可能性を殺すとは予想していなかったわ」(第二章『ベレニス』)

殺人と自殺は、「可能性を殺す」究極の行為に他ならない。しかし、殺人もしくは自殺すら行いうる可能性だって、ないとはいえない。たとえば堀之内も元は普通の警察官だったように。その冷徹な認識があるからこそ『ハサミ男』は今も魅力を保っているのだと思う。またその他、実家に帰ったり、真面目に働いたり、家庭におさまったり、人にはいろいろな可能性がある。その可能性の束の結節点=蝶番が、最後に示される。〈いつまでもフリーターでいられるわけじゃないよ。そろそろ、将来のことも考えたほうがいいんじゃないかな。ちゃんと会社勤めをするのも、ひとつの選択だと思いますよ〉(第14節)。いうまでもなく、時間が経てば経つほど、人は、可能性を殺す「選択」を迫られる。それが「生の条件」だ。ならば……「わたし」はこの後どうなるのだろうか? 最後にもう一度、考えてみたい。(つづく)
 ※
[2013年8月9日 やや改稿しました]