立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

殊能将之を再読する/『ハサミ男』(5)

【『ハサミ男』の真相に触れていますのでご注意ください】
ハサミ男』について、(4)まででいったんは感想をまとめたつもりだったものの、その後、「いや、やっぱり違うんじゃないかな」と思う点が出てきたので、最後にもう一度、書いておきたい(それに伴い、(4)を若干、改稿しました)。
 ※
(4)までで、「対話」「ズレ」といったような点から、『ハサミ男』についていろいろと書いてみた。その際、「なぜ“わたし”は殺人および自殺(未遂)を続けるのか?」という疑問については、まったく触れないできた。小説内では、語り手の「わたし」はWhy?(理由)ではなくHow?(方法)を問う存在であるのだし、むしろ、そうした“動機”を湿っぽい既存の“サイコ”的な文脈から解放したのが、この小説における作者の洒脱さだとも思われたからだ。しかし、後藤の『挾み撃ち』において語り手の「私」がWhy?を問えない理由を読者が推測でき、しかもその理由が実は語りの重要なポイントとなっていたように、『ハサミ男』における「わたし」の在り方も、作品を理解する上で大きな要素なのではないか、という考えがしだいに膨らんできた。
人間は、自身が充足した状態にある時、その状態を詳しく語る言葉など必要としない。「“充足した私”を語る私」と「“充足した私”を語る言葉」は、“充足した私”の外部にあるからだ。むしろその“充足”が遠のき、“不足”を覚える時、かつての“充足”を蘇生させるべく、言葉は要請される。
とすれば、『ハサミ男』の語り手である「わたし」は、何かが“不足”しているからこそ、語るのであるはずだ。もちろん、自殺(未遂)や殺人も、“不足”を埋めるためにある。自身に満足している人間は、自殺や殺人など必要としない。
以下に述べることは、考察というか、妄想になる。「わたし」が“不足”を埋めるため危険を犯すように、私もこの小説の未だよくわからないことについて、危険を犯してみようと思う。
 ※
医師について
感想(1)〜(4)の中で私は、この安永知夏と語り手の「わたし」を、あまり区別せずに記してきた。しかし……それは厳密には間違いだったと、今は考える。安永知夏と「わたし」とは、同じ人間でありながら、違う人格だ。
どういう意味か? たとえば私は、「医師」の存在理由がこれまで、いまいちピンと来なかった。「ユリイカ」インタビューにあるように、ハードボイルド的なインタビュー形式の進行と、シャーロック・ホームズもののような探偵と語り手の分業を実現したかったからか。なるほど、非常にテクニカルな解決法だ。しかしそれだけにしては、「医師」の言動は謎すぎる。「ある抑圧のせいで、こんな老人めいたご面相になってはいるが、本来は、ぼくのほうが中心的な人格なのだと。きみはぼくがつくり出した妄想人格にすぎない。そう考えたことはないか」と「わたし」に言い、安永の「パパ」が来れば「いかん、ライオス王のお出ましだ。ぼくはあいつが苦手でね。このへんで失礼するよ」と退却する、「パパ」そっくりの「医師」。彼の正体はいったい、何なのか?
安永知夏の元々の姿において、作中の「医師」そのものが「中心的な人格」だということは、ありえない。なぜなら、安永が若く美しい女性であるのに対し、「医師」は〈年齢は六十歳くらいだろうか。純白の短髪は、一応真ん中で分けてあったが、櫛を入れた気配はなく、頭のてっぺんが逆立っていた〉というような見た目であるからだ。もちろん、「ある抑圧のせいで、こんな老人めいたご面相になってはいる」という言葉には注意が必要だ(『美濃牛』を思い出していただきたい)。普段は「わたし」として暮しているにせよ、安永が本来、「医師」のように優秀かつ文学及び科学に造詣が深いことは間違いない。
この疑問を解くためにはやはり、ラスト近くのあの場面をもう一度、引用してみよう。

「いかん、ライオス王のお出ましだ。ぼくはあいつが苦手でね。このへんで失礼する」
医師は自分の部屋へ帰っていった。
すると、不思議なことに、看護婦に連れられて、病室の入口からふたたび医師がやってきた。
いや、違う。医師にそっくりだが、医師とは別人だった。いくらか白いものが混じっているとはいえ、髪はまだ黒々としているし、黒眼鏡ではなく、普通の銀縁眼鏡をかけていた。皮肉なにやにや笑いではなく、心配そうな表情を浮かべているところも、医師とは大違いだった。
知夏、あまり親に心配をかけるものじゃない、と医師そっくりの男は言った。東京でひとり暮らしなんかつづけてるから、こんなことになるんだ。意地を張らずに、そろそろ家に戻ったらどうだ。おまえが母さんのことで、まだこだわりを持っているなら……。
ええ、パパ。はい、パパ。わかってるわ、パパ。心配しないで、パパ。そんなことはないわ、パパ。それはだめよ、パパ。
誰かが医師そっくりの男に返事をしていた。暗い洞窟の奥から響いてくるような、うつろな声だった。その声はわたしのものでも、医師のものでもなかった。
医師そっくりの男はため息をつき、ほんの十分足らずで帰ってしまった。彼は誰かさんのうつろな声に耐えられないのだ。
わたしはやっとひとりになれた。

この場面はいったい、何を表しているのか?
パパと「わたし」
上記の短い場面から、どのようなことが推測できるだろうか。
たとえば、「東京でひとり暮らしなんかつづけてるから」という言葉から、彼らの家が元々、東京以外の地方にあること、おそらく安永は上京して二年以上、少なくとも五、六年以上経っているのではないか。そして勤務先の岡島部長が「きみもバイトして二年近くになるでしょう」というように、26歳の氷室川出版に勤めてからはまだ二年経っていない。「わたし」は正社員になる気がないのだから、氷室川出版で働くために上京してきたわけではない。とすれば、大学進学で上京したのか。19〜20辺りで東京に来たなら先の計算とも会う。安永は「医師」のような知能を持っているわけだから、幼い頃から秀才だったろう。
次の「意地を張らずに、そろそろ家に戻ったらどうだ。おまえが母さんのことで、まだこだわりを持っているなら」という台詞はかなり意味深だ。推測を続けるなら、「母さん」はすでに実家にいない。もっと踏み込めば、この世の人でない可能性もある。そして「パパ」は、「母さん」に対して、何か負い目がある。少なくとも、知夏はそう考えている、だから家に戻らないのだ、と「パパ」は思っているはずだ。伴侶に負い目があるということと、「わたし」が自殺未遂をくり返すことは何か関係があるのだろうか。
「まだこだわりを持っているなら」という言葉は、「母さん」の出来事が確実に二、三年以上は前の、もっと古い出来事だと感じさせる。では、「母さん」事件と「わたし」の上京は、どちらが先だったのか? 二つのパターンが予想される。安永知夏は(1)東京の大学の理系学部に上京したが、在学中に「母さん」事件を知った。(2)「母さん」事件は上京前の出来事であり、その事件に責任のある「パパ」から逃れるために、知夏は東京にでてきた。
どちらだろうか。2003年時点で26歳の知夏は、「目下のバイト先」である氷室川出版に勤めて二年弱だという。つまり始めたのは24歳頃で、それ以前にもよそでのアルバイト経験がある。もし浪人・留年・休学などがあったと考慮すれば、上京から24歳なんてあっという間だ。中退した可能性もある。
感触としては(2)のように思えるが、ここでさらに重要な点は、安永知夏が(「医師」の言葉を信じるならば)妄想人格である「わたし」および「医師」の発生を必要としたのは、いつだったのか、ということだ。「わたし」は、「パパ」を父親として認知できない。ゆえに、家族をめぐるもろもろの現実が、知夏にとりあまりにも正視できない過酷なものであったがため、「抑圧」が生じたのか。
ところで、「医師」はなぜ「パパ」そっくりなのだろうか。違う点は多々ある。「パパ」の方が〈髪はまだ黒々としているし、黒眼鏡ではなく、普通の銀縁眼鏡をかけていた。皮肉なにやにや笑いではなく、心配そうな表情を浮かべているところも、医師とは大違いだった〉。「医師」は最初、「わたし」と部屋で面談をするのだから、おそらくカウンセラーか何かの役回りなのだろう。では、「パパ」は医者なのだろうか? それは引用した部分だけからはわからないが、遠方に住む娘が殺人事件に巻き込まれ、銃撃を受けて重症を負ったにもかかわらず、〈ため息をつき、ほんの十分足らずで帰ってしまった。彼は誰かさんのうつろな声に耐えられないのだ〉というのは、酷薄というよりも、小心な印象を受ける。おそらく、樽宮由紀子の母親のように、知夏の幼い頃から手を焼かせられていたのだろう。本来の知夏が「医師」のような知性と性格を持っていたのだとすれば、なおさらだ。とすれば、それは誰に似たのだろう。母親がそうだったのか、それとも両親とは無関係なのか。
「医師」のような性格は、あまり子供を包容力で守ってやるというものではない。「医師」と「わたし」はそれこそ、親子のように歳が離れているわけだが、「わたし」を眺める「医師」の視線は、親から子へのものではなく、むしろ対等に扱うという感じ。もちろん、知夏に子供を持った経験がないからそれが「医師」にも反映されているのであって、親のほうはもともと「医師」タイプであっても、年の功で子供を見つめる視線が練れてきた(「心配そうな表情を浮かべているところも、医師とは大違いだった」)、ということは充分ありうる。
そこで気にかかるのはやはり、母親と知夏との関係ということになる。以前紹介したように、作中で印象的な「20」節でも、母娘関係はクローズアップされるが、これは「わたし」自身、事件の真相とは無関係に興味を持っていたからとも、考えられるのではないか。由紀子(娘)ととし恵(母)は実の親子で、とても似ている。実父は離婚したため離れており、いまいるのは義父と義弟。母は実の娘に対し、どう捉えていいのかわからない悩みを抱いていた。そんな母親に対し、「わたし」は何の言葉もかけられない。そこで「医師」が登場し、例の愛情分類法を披露する。あの八項目のうち、もっとも理想的な対話性をもっているのはもちろん、〈(1)あなたは彼女を愛していた。そして彼女はあなたに愛されていると感じていた。だから彼女はあなたを愛していた。〉だろう。しかし娘のほうは、愛だとか憎悪だとか、そうした感情自体が持てなかった。「医師」は母親にこう述べる。〈「(……)娘さんはきみを愛さないし、憎んでもくれない。まったく無関心だ。愛や憎悪に裏付けられた無関心、きみに何か無言のメッセージを投げかける態度だったら、たぶんきみも耐えられたんだろう。だが、そうじゃなかった。たんに無関心なだけだった。その結果、きみは自己愛べったりの苦悩にひたりこみ、娘と距離を置くようになった。正解だよ。それでよかったんだ。きみと娘さんとの関係は良好だった。なぜそれ以上のことを望むんだね」〉。「医師」の言葉はクールなようでいて、ここで確かに治癒的な効果をもった。
他人の精神のディープな部分に触れるのは確かに医者の仕事だが、「わたし」にはヘヴィだった。「疲労はもっと精神的なものだった。昨日、とし恵と話したときから、わたし自身の心も鬱状態に入ってしまったらしい」。「21」節でカーテンレールでの首吊りに失敗したあと、ベランダに横たわりながら初雪を眺める美しいシーンで、「医師」は弱音を漏らす。「少女を絞め殺したときに感じる不快感を、きみは理解できない。(……)警察に逮捕され、実家の家族が苦しむことを思うと、夜も眠れない」。ところがこの台詞の直前、両者はこんな会話をしているのだ。

「きみが逮捕されたときの光景が目に浮かぶよ。(……)父親は沈痛な表情で黙り込むだろう」
「わたしには父親などいない」
「おや、そうかい。それなら、自称父親でもいいさ。(……)」

いったい、彼らがしゃべっている「家族」とか「父親」とは、誰を指しているのか。「わたし」は「パパ」を認識できないのだから、また別の設定があるのだろう。「医師」は「パパ」=「ライオス王」として、少なくともその存在は認知している。「実家の家族」という言葉は、「実家」に複数の人間がいると感じさせるが、先の私の推測と異なってやはり母親がいるのか、それともその更に親の世代や、「わたし」の兄弟がいたりするのだろうか。
言葉と実感
ここでいったん、「無関心」の話題に移ってみる。
由紀子の弟の健三郎は、1999年刊行時(舞台は2003年だが)のヒットフレーズをもじってこう問う。〈健三郎はジャーナリズムへの不満をわたしにぶつけた。/「人を殺すのはよくありませんだと。なぜよくないのか、説明してみろよ。べつに人を殺したってかまわないじゃないか。あなただって、そんなこと説明できないだろう」〉。それに対し、「わたし」はこう答える、〈「殺したければ殺せばいい。いろんな男と寝たければ寝ればいい。家族と話したければ話さなければいいし、義理の姉とセックスしたければすればいい。単純なことだ。何かをしたいけれどできない、何かを実行したいけれど許されない、と言って苦しんだり、悩んだり、あるいは逆にひそかに楽しんだりするのは、愚か者のすることだ。やりたいことをやればいいんだよ。自分の責任においてね」〉。
当時、『なぜ人を殺してはいけないのか?』という小泉義之との共著(1998年、河出書房新社/2010年、同文庫)を刊行した永井均は、その前年に刊行した『子どものための哲学対話』(1997年、講談社/2009年、同文庫)ではこう書いている。

ペネトレ:たとえば、きみがもし人を殺してはいけないという世の中の常識をどうしても受け入れられなくて、受け入れているふりをすることさえもできないなら、そのことで、きみは殺されることになるかもしれないよ。きみの考えをきみ自身に適用することで、世の中はきみに復讐をするのさ。
ぼく:それって死刑ってこと? じゃあ、死刑は必要なの?
ペネトレ刑務所の中で生きているのでは、世の中の外に出たことにならないとすればね。

ペネトレ:世の中がきみに与えることができるいちばん重い罰は死刑だね? 死刑以上の重罰はないだろ? ということはつまり、世の中は、死ぬつもりならなにをしてもいいって、暗に認めているってことなんだよ。認めざるをえないのさ。
ぼく:そうかなあ……。

先の健三郎との対話がアイロニックなのはもちろん「わたし」が殺人者だからだが、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに答えるのが難しいのは、その問いが記号にすぎないからだ。問いへの答えもまた記号にならざるをえず、記号それ自体は「このわたし」になんら作用しない。「なぜ人を殺してはいけないのか?」という疑問への正しい答え(そんなものがあったとして)が書かれた紙を渡されたところで、「このわたし」の無関心は癒されないし、転回していかないだろう。
ワイドショーを観るシーンで。
少なくとも、わたしは小西美奈や松原雅世や樽宮由紀子の肉体に興味を持ったことはなかった。なにしろ、調査を始めるまでは、彼女たちの顔も知らなかったのだから。わたしが惹かれたのは、彼女たちの成績だった。(……)わたしが松原雅世の頬を切ったのは、彼女の舌を見てみたかったからだ。感想カードに書いてあった、英語を話すのが好きだという舌がどんなものなのか、確かめたかったのだ〉。
「わたし」は「成績」や「舌」といった要素に興味を覚える一方、それらまるごとを含めた「人格」全体を破壊することができる。
〈暗闇。怪物。わたしの心のなかに暗闇や怪物は存在しているだろうか。わたしは目をつぶり、探ってみた。/何もない。/わたしの内側は、からっぽだ。/そして、わたしの外側も、からっぽだった。/ふたつの異なるからっぽがある。その境目がわたしだった。(……)不思議な気持ちになった。彼らはわたしのことをもっと知りたい、わたしの内面や心理を知りたい、と願っているように見えた。/わたしはわたし自身について、興味も関心もまったく持っていないというのに。〉
――この深い、癒しがたい無関心。「妊娠した」と男を騙したり、殺人を犯したりするのはヒドすぎるが、決して「わたし」だけのものではない自己否定の衝動とも通じるだろうこの無関心自体とどう向き合えば良いのか。とし恵への「医師」の言葉は、一つの示唆ともなっているようにも思える。
由紀子の「実験」も、そのあたりに由来していたのだと思う。無人島でなく社会に暮らす以上、他人に無関心ではいられない。と、頭ではわかっているのに、家族にさえ愛も憎悪も抱けない。この根深さはいったい、何なのか。大なり小なり、同じような思いを持っている人は多いに違いない(「愛」というテーマは『美濃牛』や『鏡の中は日曜日』にも登場する)。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いで最も恐ろしいのは、愛や憎悪や利害に基づかない無動機殺人の可能性だと思う。「人を殺してはいけない」という倫理が肉化されるには、記号以外のものが必要だ。時間とか、経験とか。そして深く実感でき、なおかつ人を殺さねばならないとき、それは愛や憎悪や利害などの“人間”的関心に基づいたものとなるだろう。
では、なぜ「わたし」は少女たちを殺すのか。
「医師」と「わたし」

もう一年以上前のことだ。わたしは氷室川出版にアルバイトに出かけ、例によって佐々塚に命じられて、パソコンに記録してある通信教育会員のリストを整理していた。コンピュータのことはさっぱりわからないが、言われたとおりに操作することはできる。
モニタ画面に表示されたリストをぼんやり見ているうちに、ひとりの会員に目がとまった。これまでの成績の履歴がすばらしかった。全教科で満点近い点数をとったことも、何度もあった。
わたしは頭のいい女の子にずっとあこがれていた。
(……)
わたしはますます興味を持ち、日曜日を一日つぶして、小西美奈の住む小都市に出かけた。そのうちに顔や声も知りたくなり、彼女の家を張り込み、間違い電話を装って電話をかけた。
小西美奈はわたしが想像していたとおりの少女だった。けっして美人ではないが、若々しく愛らしい顔だちをしていた。ショートヘアで、銀縁眼鏡をかけ、普段はちょっと地味な私服を身につけていた。利発そうだが、引っ込み思案な性格らしく、友達といっしょに外出するときも、控え目で、自分からしゃべるより相手の話に聞き入るほうを好むようだった。
一ヵ月ほど、そうやって機会を見つけては、小西美奈を観察した。そのうちに、どうしても彼女に近づいてみたくなった。遠くからではなく、すぐそばから彼女を見たかった。

最初の殺人のきっかけはこんなふう。入社が二年弱だから、しばらくして、ということだろう。「わたし」は、少女に愛や憎悪を抱いていたわけではない。
「わたし」は結局、何がしたかったのか。

どうやら、わたしはハサミ男でありつづけるわけにはいかないようだった。
わたしは永遠にハサミ男でありつづけたいと願っていた。もちろん、永遠につづくものなど、ありはしない。いつかはハサミ男であることをやめ、安永知夏という、いやな名前で呼ばれなければならないとは覚悟していた。
しかし、それはわたしは逮捕されたときか、自殺に成功したときだと考えていた。こんな状況に追い込まれるとは、夢にも思っていなかった。

ハサミ男でありつづける」とは、単に殺人を続けるのではなく、これまでと同じようにさまざまな自殺方法もまた試していく、ということだろう。これは不思議なことではないだろうか。外と内に向けられたこの自己否定の衝動は本来、両立しないはずだが(自分の死は一回生のものだから)、「わたし」はこの矛盾に気づかない(リストカットが癖になったりだとか、周囲を巻き込んで騒々しく死を叫ぶのではなく、あくまでも毎回バリエーションを変えた孤独な行為として行われていることにも注意していただきたい)。
出勤に支障がないよう週末に試みるという時点で、読者の誰もが、本当に死ぬ気はないのだろう、と感じる。ところが「わたし」は抗弁する、そうではないのだ、と。「医師」はどうやらその理由を知っているらしい。
いろいろと推測することはできる。たとえば、もしかすると安永の母親はすでにこの世の人でないのではないかという私の妄想が正しければ、その原因について、父親が「医師」のような性格でいびったため/父親が「わたし」のような年頃の女子高生とかつて援助交際したため/父親と「わたし」がかつて近親相姦関係にあったため、――などと想像を逞しくしても答えがあるわけではないが、「わたし」/父親/母親をめぐる関係に何かあったことは確かだろう。そして「医師」が述べるように、「わたし」がどう語ろうと、自殺の失敗や、「医師」と共にあることを、「わたし」は本当は望んでいるのだと思う。
一回生である自己の死を、からっぽの内部とからっぽの外部において反復する。その狭間に立つ「わたし」が、内部(安永知夏)と外部(少女たち)に対する行為者であるなら、その殺害はどこで止むのだろう。たとえば「20」節のような、樽宮由紀子との対話が、由紀子の死の前に行われたとすれば、「わたし」は由紀子を殺害しようと思っただろうか。「わたし」は少女たち、つまり小西美奈、松原雅世、樽宮由紀子を、人格として認めてはいないのだった。ただ「成績」に興味があるだけだった。だから、生前の彼女たちの声(間違い電話におけるような社交的な言葉ではなく、より本質的な声)は受け取ったことがない。堀之内との対決や、由紀子およびとし恵との対話で「医師」が代行したように。そして自分自身、つまり安永知夏自身の声も。
ワイドショーのシーンでノンフィクション作家が述べるように、多かれ少なかれ、誰もが自分自身のうちに、自己否定の衝動を持っているのだろう。その意味では、全ての読者が安永なのだともいえそうだ。そしてこの否定の上に安永は、「わたし」および「医師」を生み出した。しかし本当は、自分自身の回復を望んでいるはずなのだ。内部と外部に現われた自己の否定(自殺と殺人)はその模索の一環なのだが、自身が生身の肉体を持った人間である以上、根源的な解決ではありえない。そこには対話がない。安永知夏自身の声を聞き取り、それが他者において送り返された時、この自己否定は止むのではないか。
では安永知夏自身の声はいったい、どこにあるのだろう。一箇所だけ、具体的な記述がある。〈誰かが医師そっくりの男に返事をしていた。暗い洞窟の奥から響いてくるような、うつろな声だった。その声はわたしのものでも、医師のものでもなかった〉。「わたし」が「誰かさん」と呼ぶ、「わたし」でも「医師」でもないこの「うつろな声」こそが、その一角ではないのか。いや、おそらくはこの小説自体が、つまり「わたし」のみならず磯部たちのパートをも含めた、小説の語り自体が実は、この「うつろな声」によるものなのではないか。
自己否定行為において、「わたし」は内部と外部の結節点=蝶番となる。しかし、「わたし」と「誰かさん」=安永知夏自身が違う人格なのだとすれば、この「うつろな声」は逆に、「わたし」の視線(一人称)と社会の視線(三人称)が交差するハサミ=「X」(XTCのXでもある?)の中心点に立つ真の語り手=声として、語っているのではないだろうか。冒頭で失われた蝶番(「鷹番」)は、さまざまの遍歴を経て最終部のここにおいてようやく、再び結ばれ、より広い社会の側(つまり読者も含めた)へ視線が投げられようとしている。
だから、ラストの「きみ、名前はなんていうの?」に単に戦慄を覚える(「わたし」はこれからも「ハサミ男」であり続けるのではないか、ということ)のではおそらく、不十分なのだと思う。私がそうだった。この物語は、殺人と自殺の動機が消去されているがゆえに一見ヘヴィな読後感を残さない(最近で言う「イヤミス」のような)とはいえ、本来はかなり嫌な話だと思う。たとえば、もし本当に日高が語り手だったとすればどうだろう。これほどこの小説は広く受け入れられただろうか。「美人」とあるのはおそらく、めくらましにすぎない。「なんかかわいそうな美人のお姉さんのお話」と読者が感じるだけなら、その「美人」に対する甘さが何かを逃している。磯部が見ているものと変わらない。作中での世間が持つ偏見を反復しているに過ぎない。しかし「うつろな声」が読者に聞き取られないならば、つまり「わたし」の自己否定の断念を信じないならば、作中において肉声をもたない小西美奈、松原雅世、樽宮由紀子、そして安永知夏が救われないのではないか。
「わたし」が「自分に似た女の子を殺して廻ってい」て、なおかつ「ぼくも、そしてあなたも例外ではない。ぼくらの心のなかにも、多かれ少なかれ、ハサミ男が存在している」(このノンフィクション作家は否定的に捉えられるわけだけど)ならば、最後の「きみ、名前はなんていうの?」という問いは、その場の少女だけでなく、それを外部から眺める読者自身にも向けられているだろう。この問いを受け止め、送り返すこと。「ズレ」をめぐるこの困難な試みは、自作以降にも引き継がれているように思われる。(おわり)

ハサミ男 (講談社ノベルス)

ハサミ男 (講談社ノベルス)