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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

ピーター・ディキンスン『生ける屍』を読んだ

今年六月にちくま文庫から復刊されたピーター・ディキンスン『生ける屍』(神鳥統夫)を読んだ。この小説は、読者によっていろいろなふうに読まれているらしい。たとえばAmazon当該ページのレビュー(2013年8月27日現在は8つ)から言葉を抜き出してみると、「広い意味においての幻想小説」「笑える小説」「英国流マジックリアリズム」「主人公にはユーモアもペーソスもなく、ひたすら真面目に、けれども淡々と進んで行く」と、一見バラバラな印象の評がならぶ。
私はこの著者の小説は初めてで、どういったリズムで進めばいいものかなかなか掴めず、トロッター首相母子が研究所を訪ねてくる序盤のシーンを、何度かくりかえし読んだ。というのは、それまでの邦訳書の評価から、ディキンスンといえば「ヘンテコな小説を書く作家」というイメージが強く、「ヘンテコ」=奇妙な論理と奇想天外なアイデアでユーモラスな作風なんだろうなあ、と長く勝手に思っていて、それにしてはノンシリーズとはいえなかなか重たい文体なので、その齟齬にとまどったため。他人の評価に寄りかかるのががいかにあてにならないかということだが、以下は、自分なりに感じたこと。
ヘンテコとかユーモアとかいった単語は、ディキンスンの小説をめぐる言葉にまつわりついていると思う。ところで、奇妙さやおかしさは、その裏返しとして、他に何か別の感覚を「奇妙でない」「おかしくない」ものとして、前提にしている。逆にいうと、奇妙さやおかしさは、このズレを感覚することから生まれるので、時代や文化が違えば、むしろそれが当たり前ということになる事態も、じゅうぶんに考えられる。「ディキンスンはヘンだ」という言説は、「奇妙でない」「おかしくない」小説がヨソにあり、その対比として、語られるのだろう。
『生ける屍』を見ると、その「ヘン」さは、例として「迷路の中へ」終わり近く、実験を済ませて釣りの最中に監視員がとつぜん水中から姿を現すシーンが挙げられるかもしれない。ここは、独裁者による管理体制などノロマな上司(ドライザー)の妄想だろうと一笑に付していた主人公フォックスが、権力による監視の目が自身をも実はしっかりと掴まえていたことを実感する、つまり世界認識がひっくり返される、作中でも重要な箇所。

しばし、何事もない穏やかなときがあって、糸はゆるみ、竿はまっすぐに伸びた。フォックスはからだを曲げてなんの抵抗もなく巻き戻される糸を見つめながら、慎重にリールを巻いた。なめらかな水面のすぐ目の下に、黒く光る影がただよいながら上がって来た。一目でそれが魚なんぞではないことがわかった。水中眼鏡がきらめき、ウェットスーツに包まれたこぶしが怒りに震えていた。
ふたりでその男をボートの上に救い上げ、ドライザーが男の肩甲骨のすぐ下に食いこんだフォックスの釣針をはずした。最初針は酸素ボンベとウェットスーツのあいだにはさまり、フォックスが竿を戻そうとして振ったために、針のかかりがスーツをつき破って肉に食い込んだことは明らかだった。その男は、あまりの痛さと怒りに、警官であることをかくそうとする余裕がなかった。そしてその魚とりの道具のように見える装備はまぎれもなくマイクロホンで、コードがベルトにつけた防水ボーシュも伸びていた。ドライザーのほうは、いかにもぶっきらぼうな、釣師仲間のような挨拶をしたあと、てきぱきとまず小さなナイフをふるい、次に消毒薬とテープで手当てをした。男――島民の中でも黒人系のほう――は、なにかぶつくさ言っただけで、手当てが終わるとありがとうとも言わずに海に飛び込んでしまった。ふたりはその影がつくる角が小さくなり、やがてきらきら輝く水面の反射の中に消えるまで見送った。
「これで決めた」フォックスが言った。「ぼくは本島へは行きませんよ」
「そして、君はサメの口へ飛び込んでしまうんじゃないかな」ドライザーは、くすくすと笑った。

冗談だと思っていたものが、現実化するというこの異様さには同時に、おそろしさ(目の前の世界が信じられないおそろしさ、巨大な権力によって生命を脅かされかねないおそろしさ、……)も張り付いている。たとえば小説に出てくる反政府グループの人物や、母親を誘拐された経験もあるドライザーにして見れば、このていどのことは、おかしくもなんともない、不快なことでしかなかっただろう。一方、フォックスにすれば、冗談であって欲しい、しかし否みがたい事実として、この異様な乗船は映っただろう。
他にも似た箇所はいくつかある(ネズミを手にすると無敵になる、村でいきなりトロッター婦人が現れる、などなど……)。けれど私が、それらを単に、いかにもヘンテコ作家の面目躍如たる、オフビートなおかしい場面だとは思わなかったのは、主人公を描く作者の筆致が終始、リアリズムに近いから。心がないだとか、サラリーマン的心性だとか、冒険小説のヒーローらしくないだとか、散々なことをいわれているフォックスだけれども、仕事が順調にいけば心安らかで、面倒事は厭で、恋人からの性格批評にウジウジ悩み続けてというこうした人間はむしろ、『生ける屍』の読者の周囲のどこにでもいるような、フツーのヒトではないだろうか。サスペンスに巻き込まれる人物を、英雄や俗物といったある典型的なキャラクターとして意地悪く描くというようには、この小説の作者は主人公を眺めていない。出来事に対するフォックスの心情は、ありそうなこととして、奇妙でもおかしくもない。
奇妙さやおかしさを、ただ奇妙さやおかしさとして笑うのは、実はたやすい。笑いを切り捨てるのも同様に。でもそれでは物足りない。こうした小説(他はともかく、少なくともこの『生ける屍』については)の場合、シリアスもユーモアも切り捨てることなく、読者である〈私〉が奇妙さやおかしさに笑えるというそのこと自体が同時に何かおそろしいことでもあるというふうに読んだほうが、面白いのではないか。
フォックスの役割は、権力に監視されつつ、被験者の生殺与奪権を握るという中間的な位置にある――というとたとえばすぐさま、ミルグラム『服従の心理学』やアーレントイェルサレムのアイヒマン』といった著作が思いうかぶ(もちろん、こうした側面は、私が冒険小説やディキンスン作品をロクに読んでいないから他に連想が出てこないだけで、一例にすぎない)が、もしも、その他のいわゆる収容所文学に登場する人物と比べるとすれば、格好良すぎるし、後半の展開は、涙が出るほどうまくいきすぎる。もちろんそれは小説だからそうでなければエンターテインメントとして成立しないわけだが、仮に自分(私)が同じ立場だったとすれば、とうてい不可能だとしか思えない。まったく同一の状況に遭うことは今後もないだろうが(そう信じる)、加害者―中間者―被害者の項のいずれかを動いてゆくという問題のバリエーションに遭遇することは、とうぜん、想定される。いや、ある意味ではむしろ今まさに、遭遇しているはずだともいえる。そうした際、どのように行動すれば良いのか? 私はフォックスを笑いつつ、笑えない。その意味では、彼の活躍は、冒険ヒーローと現代一般人との、あいだくらいにあるという印象も受ける。
思うに、ユーモアというのは、ただベタやスカシといったお笑い事のみをさすのではなく、世界と自分とのズレを感覚する視点=意志に関わるのではないか。冗談じみた信じられない出来事が、水中から監視員が姿を現すように、あっけらかんと残酷に空想を超えることが実際にあるのを、誰もが知っている。そしてその空想以上に空想的な、冗談以上に冗談的な出来事が、これまたいともたやすく、空気のように人に受けいられることがあるのも。
そんなふうに読んでいったら、最後、半ば予想していたこととはいえ、前半のレディブロッサムの殺人の謎解きがいきなり出てきたので、驚いた。しかも、存外におざなりではなく、伏線をいくつも回収しつつ、あるていど論理的に、さらにタイトルとの洒落(“Walking Dead”)まで引っかけられている! 「ロス・マクドナルドディクスン・カーかよっ」と思わずツッコミたくなってしまった。
確かに、ここで作者はそれとなく伏線を張るのがうまい。捜査どころではない事態が起こり、殺人事件自体はうやむやになるのだが、最後にしっかりと解かれる。といってもそれは死の尊厳を回復する――つまり、一人の人間などどうでもいい、死の価値が低下した時にあって、謎解きにより弔いを行なう――というものではないようなのだが、もしかしたらこのあたりから、フォックスの意識における、そして作者の書く生と死の価値――主人公が「生ける屍」だとしたら、本当に生きているとはどのような状態なのか、囚人への人体実験を拒否して自分が助かるための脱出行でおそらくはそう悪人ではない者もいただろう政府側の人間にバンバン人死が出るのは良いのか悪いのか――といったことも、読んでいけるのかもしれない。今後、ディキンスンの他の小説を読んでいく際に、目印にしてみよう。

生ける屍 (ちくま文庫 て 13-1)

生ける屍 (ちくま文庫 て 13-1)