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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

いいとも、TV、無意識

笑っていいとも!」が22日、来年3月で終了を発表。
今朝(10月23日)の毎日新聞1面に載っていたいいとも年表を見ると、知らないことばかりで驚いた。

2000年3月1日 タモリさんが「ウキウキWatching」を歌わずに登場するオープニングに変更
2002年4月5日 生放送5000回。03年版「ギネスブック」の「生放送単独司会世界最長記録」に認定
2012年4月9日 テレフォンショッキングの「お友達紹介」廃止

「ウキウキWatching」廃止とギネス記録がそんなに前だったとは!もっと近年のことだと思っていた。
いっぽう、テレフォンショッキングの友達紹介廃止は最近まで知らなかった。おそらくこの五、六年は、たまに昼休みに入った定食屋で流れているのをチラチラ眺めるくらいで、通しで観たことはなかったと思う。
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同じ新聞の社会面に樋口毅宏氏が「テレビが王様だった時代の終焉だ」とコメントしている。
私が小、中学生の頃、夏や冬の長い休みになると毎日観ていた気がする。「芸能界って、明らかに初対面の人が出てきて急に共演することになっても“初めまして”というようなことは言えないんだなー。“前々からお名前は存じ上げてました”ってなフリをしないといけないんだなー」と不思議に思った。生放送で、たくさん人が出てくる番組だったからね。後年、木村拓哉が「テレフォンショッキングの電話交渉はヤラセ」「出演は前々から決まっている」と暴露してちょっとした騒ぎになったことがあったような記憶があるが(思い違いかな?)、さすがにそれは子供でもわかった。
その時はまだ、小学館学年誌もまだ刊行されていて(!)、よく芸能人がデフォルメ化・キャラクター化された四コママンガが載っていたと思う。たとえば天然キャラの篠原ともえラルク・アン・シエルのメンバーに絡みにいって、タモリがオタオタする、というような。当時は何も感じなかったけど、ああいうのは「皆がテレビを観ている」というファンタジーが共有されていないとできないんじゃないか。
今はテレビがないので、他の家に行った時ぐらいしか見ない。アニメもチェックしていない。不便も特に感じない。
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そんな状況だから、殊能センセーがずっとテレビにこだわり続けたのも私は実は、感覚的にあまりピンと来ていない。私は小学生の頃からインターネットがあった世代だし。それでも、飛浩隆氏が『NOVA1』に中編「自生の夢」を発表した時の次のようなコメントを読むと、ああ、この人のこだわりは本物なんだなあ、と思った。

 テレビはかつて新しいリアリティであった。いわゆる「黄金時代」のテレビマンたちはその可能性を信じ、番組製作を試みた。まるでiPhoneの新しいアプリを開発するように。
 テレビの持つ新しいリアリティを(肯定するにせよ、否定するにせよ)取り入れた小説も書かれた。たとえば『48億の妄想』に代表される筒井康隆の初期作品。
 現在、テレビが新しいリアリティだと考える人はいないだろう。それはテレビが古びたり廃れつつあるからではなく、完全に日常生活に浸透し、「第二の自然」と化しているからだ。
 この結果、テレビを見ない人ですらテレビ的にふるまうようになる。たとえば政治家や学者や芸術家が最悪のテレビタレントになり得る。
 テクノロジーの進歩による日常生活の変容が注目を集めるのは、まだじゅうぶんに変容しきっていない段階においてのみなのだろう。
 完全に変容した先には、たぶん缶ビールを飲みながら1日じゅうくだらないバラエティ番組を見つづけるのとよく似た“日常”があらわれる。「未来は退屈だ」(J・G・バラード
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 未来はファミレスのように、ショッピングモールのように退屈だ。
 テレビの場合と同じく、ファミレスやショッピングモールに行かない人、それらをむしろ嫌悪しているような人たちがファミレス的・ショッピングモール的に行動するようになれば完璧だろう。
 たとえば、『ミシュランガイド東京』を片手に食べ歩く人たちがそうかもしれない。ショッピングモールのフロアガイドのように使って店への行き方を調べ、ファミレスのメニューのように使って料理を選ぶ。そして本人は自分をグルメだと思いこんでいる。
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 現時点で「だれにも把握できない、巨大な意味と思考と連想の複合体」(飛浩隆「自生の夢」、大森望編『NOVA1』、p.393)に最も近いものはテレビだと思うんだけどなあ。
 製作者は視聴率を上げることしか考えていないし、視聴者は適当に見たい番組を見ているだけなのだが、なぜか総体として「意志」が感じとれる。時にはテレビにより世論が形成され、政治や経済にすら影響を与える。
 この「意志」を実体化すると、テレビ局が日本を支配しているという陰謀論になるわけだが、ナベツネだってテレビをコントロールすることはできないよ。
 かといって、視聴者の欲望がテレビにそのまま反映しているわけでもない。視聴者の欲望は実はテレビによりつくりだされていたりする。
 要するに、製作者でも視聴者でもない「テレビなるもの」が存在するとしか言いようがない。それを放送網上に誕生した超知性体と想定してもまったく問題はないはず。
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 フレデリック・ワイズマンの映画がおもしろいのは、テレビドキュメンタリーの対極にあるからだな、きっと。
 ワイズマンの映画は、ある場面、ある瞬間はきわめて劇映画的に感じ、時には「なんて演出がうまいんだ」と思うことすらある。ドキュメンタリーに演出はないはずなのに。
 しかし、全体を通して見ると、現実ならではの得体の知れなさや無気味さを痛感させられる。みごとな伏線のように思えた場面はあとにつながらず、エピソードは尻切れとんぼに終わり、結局なにひとつ決着や解決を見ないまま映画は終わる。
 一方、いまどきのテレビドキュメンタリーはどうか。
 各場面は手持ちカメラのぶれた映像、CCDカメラによる隠し撮り、関係者の顔モザイクと音声変化などにより、きわめて「リアル」に撮られている。「いま映っているのはまぎれもない事実そのものなのです」と声高に主張する映像だ(それも「演出」の一種なのだが)。
 しかしながら、全体を通して見ると、メッセージ性が濃厚なのだ。「現実はこうなんです」「あなたにこういうことをわかってほしいんです」「だからこうしなきゃならないんです」と押しつけがましく伝えてくる。いいかえれば、全体としてはきわめて嘘くさい。
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 J・G・バラードが偉いのはテレビ大好きだからだね。
 テレビを侮るやつは信用できないし、わかってないよ。もしもGoogleが世界を支配できたとしたら、そのときGoogleはテレビになるんだよ。
「テレビなどというくだらないものは見ません」というやつがいちばんテレビ的だったりする。超売れっ子のテレビタレントはテレビ見てないんだよ。出演するだけで忙しいから見られないの。
 信じられないほどテレビを見てるのは明石家さんまくらいだろう。だから、さんまには批評性がある。(「memo」2009年12月後半)

<もしもGoogleが世界を支配できたとしたら、そのときGoogleはテレビになるんだよ。>という言葉が凄い。
今年に入って、『ハサミ男』を何度か読んだあとでふと連想したのは、上記のようなコメントや「芸能IQ」という言葉が指していたのは、人の無意識とも関係があるのでは?ということだった。ある人物と人物の間のコミュニケーションには、言おうとしたこと―言ったこと―受け取られたこと、という段階があり、このあいだ(―)には必ず無意識の入り込むズレがある。テレビはこのズレを冷酷に映し出し、拡散する。そのズレに自覚的な人間こそが、“芸能IQ”が高いということになるのではないか。
たとえば『ハサミ男』の語り手である「わたし」は、自分の言動がどう受け取られるかにある面ではまったく無頓着だった。その無頓着ぶりが、逆に(もちろん作者の計算の上で)、今でも読者にも人気がある所以ではないかしらと、ちょっと前再読していた頃に考えていたところでした。
 ※
飯島耕一氏が逝去(2013年10月14日)。