立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

野崎まど『[映]アムリタ』を読んだ

そろそろ風邪が五日目になろうとしているのに、なかなか治らない。いろいろオジャンになる。
『know』に続き、野崎まど『[映]アムリタ』を布団の中でだらだら読み終わる。。十年以上前、西尾維新クビシメロマンチスト』などを(o(´∀`)o)ワクワクしながら読んだ時のことを懐かしく思い出した。男女2対2の青春ワイワイ。ヒロインと主人公が朝を迎えるシーンには胸が痛んだ。初々しいイチャイチャぶり。このままで終わるわけがない、と、誰もが思う。もし私も現役学生時代に読んでいたら、どう感じただろう。
残念だったのは電撃大賞の規定から、『クビシメ〜』の40%くらいの分量しかないことで、短いなかでオチの一点目がけてシンプルに作られた印象を受ける。もっと長かったら、もっと衝撃的なラストになったのではないか。
【以下、若干ネタに触れています】
最後のネタは、麻耶雄嵩の某作にあるシーンの別アプローチという印象を受けた。といってもそちらでは、“映画”はこんなふうに“物理的”な効果はもたらさない。枚数制限のためか、『[映]アムリタ』における映画の扱いは、それほど“映画そのもの”や芸術論の話には入っていかない。ヒロイン(最原最早)の作る映画は、とにかく凄いんだ、ということになっている。それを受けいれないと話は進まないわけだけれど、そこに違和感を覚える読者もいると思う。「“凄い”とされるそこをみっちり、言葉で書かないといけないんじゃないのか」と。ヒッチコックマクガフィンに近いかもしれない。
たとえばラスト、貸し切りの映画館にて、最原は驚愕の表情を浮かべる二見にこういう。

「ああ……凄いですね……ある程度の情報を集積すれば未知のオーダーの表現が成されるとは思っていたんですが……とても素敵です……この立体感……人間の限界を超えた情報が編み込まれている……」

つまりヒロインは、人生が操られていたことに気づいた主人公の驚きの表情が最後に見たかったわけだ。〈未知のオーダーの表現〉。〈人間の限界を超えた情報〉。最原が二見に求めるそれは、しかし、一般的に映画の観客が映画(芸術作品)に求めるものでもある。「映画で何でもできる」ヒロインも、自分の満足できる〈未知のオーダーの表現〉や〈人間の限界を超えた情報〉は、自作に表現できないのだろうか。
そっちょくにいって、『[映]アムリタ』それ自体は、〈未知のオーダーの表現〉や〈人間の限界を超えた情報〉というような文章では、でできていない。それをカッコに入れることを読者に要求する。一つのモードで読むことができるぶん、スラスラとページをめくらせる。そこに不満もある。
他の作品も似たようなテーマを扱っているそうなので(そして大作『2』はその集大成でもあるそうなので)、続きが気になるあまり、体調をおして、第二作『舞面真面とお面の女』を求め近くの書店まで出てみた。
無い。
その隣の書店にも寄った。
無い。
これはもう、大書店まで遠出するしか、……。
と考えて、ハッと気づいた。私もすでに、大いなる意志によって、操られているのではないか、と。