立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

Before mercy snow

昨日ご紹介した『Before mercy snow』は今日の文フリで、開場30分も経たないうちに売り切れたらしい。
私は行けなかったので、後日の通信販売を待つ予定だけれど、入手した方の反応を見ているといろいろ待ち遠しい。
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ところで今日T「殊能センセーの本名を明かしていいのか問題」というのが一部TL上で上がっていた。私もそれは以前から気になっていた。そういうことはふつう、あまり話題にならないのではないかと思うが、おそらく、長く本名名義で活動されてきたからだろう(別にペンネームもあったようだ)。本名名義の活動と商業デビュー以後の活動を結びつけて語っていいのか、というわけだ。もしも昔からの名義をデビュー以後も使われていたとしたら、あるいは、デビュー以前に特筆だった活動がなければ、このような議論は生じないのではないか。その意味では特異なケースだと思う。初期原稿集制作の報をネット上で知った際は、そのあたりはどうなるんだろうかと思っていたけれど、やはり議論があったように見受けられる。
ところでこれまでこのblogに感想ノートをアップするうえで両名義をごっちゃにしたことはない(はずだ)が、たとえば『Before mercy snow』を入手しても、今後それを引用したりすることはないんじゃないかなあ。
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細かい話になるが――作者本人が自身の両名義をごっちゃにして他人が語ることを禁じていたかどうか、ということには関係なく(究極的には、禁じる権利は作者本人にはないと思う。読者は好き勝手に読むことができるはずだ)、「memo」などによく見られる、“作品に対する作者の意見はなるべく耳に入れない。他者の意見(つまり批評ということだが)は見聞きする”というスタンスがある。このスタンスはストイックに貫かれた。カナザワ映画祭のレポなんかでも、映画には感動した、しかし作者のトークは泣く泣く席を立った……という記述がある。私が遠出して、好きな映画の監督が出てきたとしたら、貧乏症で聞かずにいられない。たいていの人はそうでしょう。“現場性”ということもあるし。
実際、『ハサミ男』以降の自作に対する言及も、苦労話などはあっても、少ない。このこだわりはなんだったのだろう。作品と作者の切断。もしそれが、作者の自作に対する意見(内部からの視線)ではなく他人からの意見(外部からの視線)により耳を傾けるというスタンスだったならば、精神分析的なこととも関係があるだろう。そのフレームから見えてくることもあるのではないか(といってもこれまで散々、「memo」やら「reading」やらから引用しているのだが……)。
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まあまだ見ない本をめぐってごちゃごちゃ書いたけれど、いくつかのつぶやきを見て一番グッときたのは実はこの写真だった。
編集の妙。

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