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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

殊能将之を再読する/『黒い仏』(1)

殊能将之

 どの分野にもいえると思うけれど、ジャンルというものは、人を捕らえ、従属させ、その領域から別の領域へ横断する者を見ると不快感をかき立てる、何か危険な力を備えているらしい。慣れ親しむうちに内面化された規律は、判断の感度を高めるいっぽう、透明な、空気のようにあって当たり前の、無意識のほうへ近づいてゆく。
 この規律について、ミステリにおいてはよくいわれるように、作品内と作品外とで、パラレルな関係をもっている。犯罪という、社会のルール違反を行なった人間は罰せられる。と同時に、読み手自身も探偵となって、書き手の規則破りを検証する。さらに重要なのは、にも関わらず、書き手には単なる市民道徳の遵守ではなく、ゲームを通じて未知を既知に回収し、“領土”を耕すことが期待される点だろう。
 この未知を求めて、時折、大胆な者が、天界の火を盗んだプロメテウスのように、領土の外から、新たな異物をもちこんでくることがある。見慣れない異物は、国境監視員を苛立たせる。
 ※
 殊能将之の第三長篇にして石動戯作シリーズ第二作『黒い仏』は、西暦877年、海の場面で幕を開ける。天台僧・円載が唐から帰国する際、船が難破して死んだのは、実際のエピソード。その時、何か「妙なもの」を現地よりもちこんでいたらしい――というのはフィクションだろうが、小説はここから始まる。船の上の円載は、円珍という僧を批判して次のように回想する。

自分こそ誰よりも仏道を熟知していると思い込んでいた。狭い島国で頭でっかちになった円珍。ばかばかしい。円載自身、広修座主の解答が完全なものであるとは考えていなかった。天台山の教えを鵜呑みにして崇めたてまつるのも愚かなら、自分たちは唯一無二の真理を見いだしたと思い込むのも愚かなことだ。
 円載が天台山で学んだ最大のことは、仏の道には限りがないということだった。(……)(序章)

 たとえば、この引用部分の人物名を括弧に入れ、「仏の道」を「小説」に、「天台山」を「ミステリ」に読み替えてみよう。

自分こそ誰よりも小説を熟知していると思い込んでいた。狭い島国で頭でっかちになった(円珍)。ばかばかしい。(円載)自身、(広修座主)の解答が完全なものであるとは考えていなかった。ミステリの教えを鵜呑みにして崇めたてまつるのも愚かなら、自分たちは唯一無二の真理を見いだしたと思い込むのも愚かなことだ。
 (円載)がミステリで学んだ最大のことは、小説には限りがないということだった。(……)

 冗談小説としての『黒い仏』の主題はすでに、この序章で提示されているといっていい。「仏道」にせよ、「小説」にせよ、「狭い島国で頭でっかちになった」国境監視員への批判が、ここに込められていることは確かだろう。さらに、円載は次のように感じている。

 この海の向こうに故郷がある。
 だが、いったい故郷とはなんだろうか。
 日本を離れて、もう四十年になる。もはや、円載の人生のうち、唐で暮らした年月のほうが長かった。実際、唐の言葉で話すほうが、ずっとわが身にしっくりくるようになっている。(序章)

 日本より唐で長い時間を過ごした円載は、自分がどこに属すべきなのか、アイデンティティが揺らいでいる。つまり、仏道における越境者である円載は、文字通り、国境(ボーダー)を超えた人物でもあった。そして小説が始まるのが、唐でもない、日本でもない、そのあいだに横たわる海であることには、注意が必要だ。
 ここで前回の、マイケル・イネスについての評言を想起しよう。

 (アントニイ・)バークリーには本格ミステリへの深い愛憎があります。だから、彼は本格ミステリを批判し、からかい、ぶち壊そうとしながらも、本格ミステリに執着しつづけました。
 一方、イネスはもっと自由です。本格ミステリへの愛情も憎悪も持ち合わせていないがゆえに、本格でもミステリでもない作品を平気で書くことができる。というのは、J・I・M・スチュアート氏にとって、ミステリ執筆は完全に余技だったからです。
 おそらくスチュアート氏が限りなく執着し、野心をいだいていた対象は、文学であったと思われます。しかし、その分身たるマイクル・イネスは、いっさいの執着心から逃れ、完璧な自由を手にしています。イネス作品の飄々とした雰囲気、天馬空を行くかのごときかろやかさ、すばらしい幸福感は、ここに由来しています。
 J・I・M・スチュアート氏は本名で普通小説も書いているそうですが、わたしはいっさい読む気がありません。そんなものはつまらないに決まってい る。また、アカデミシャンとしての著作も読もうとは思わない。スチュアート氏はごくごく平凡な学者さんであろうと想像しているからです。
 わたしが尊敬しているマイクル・イネスは、現し身のJ・I・M・スチュアート氏とはまったく無縁で、会うことも話すこともサインをもらうこともできない架空の人物なのです。イネスを知るには作品を読むのがいちばんで、スチュアート氏のことをいくら調べてもむだですよ。(「reading」2001年12月30日)

 マイケル・イネスは、ミステリ(バークリー)にも文学(スチュアート)にもこだわっていなかった(らしい)。作中の円載もまた、唐(天台宗)にも日本(円珍)にもこだわっていない。もしイネスのように、またSFサークルを出身としてミステリ作家となった殊能将之がイネスについて〈愛情も憎悪も持ち合わせていないがゆえに、本格でもミステリでもない作品を平気で書くことができる〉と書いたように、〈いっさいの 執着心から逃れ〉ることで〈完璧な自由を手に〉できるならば、唐にも日本にも属さない円載が〈帰国を決意したのは、望郷の念からではなく、あの経典を持ち帰りたかったからだ〉として、日本にもちこもうとしたものも、何かしら、新たな自由をもたらすのではないか。
 難破ののち横死した円載の帰国は叶わなかったが、彼がもちこもうとしたものは、日本へ漂着した。物語が再開するのはそれから1123年後、西暦2000年のことだ。(続く)