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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

【記録シリーズ14】シンパシー

 宮沢賢治の有名な「雨ニモ負ケズ」にこういう一節がある。

東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ

 困ったことがあるので、自分が行く。私はこの一節を読むと、米澤穂信の『さよなら妖精』を思い出す。だいぶ前に読んだのでウロオボエだけど、あれはまさに、行きたいけれど行けない、という話ではなかったっけ。
 この小説をめぐっては、「青春を経て大人になる苦い話」というふうな感想をよく見る。熱しやすい若者が、現実の壁にぶつかり去勢される……。しかし、「行けない」ということを単に、「だから諦めよ」と受け止めるべきではないのではないか。むしろ自分はいま、「距離を隔てたシンパシーはいかにして可能か」ということを考えたい。
 “私”と“その人”は別々の場所にいる。“私”が困る場合もあれば、“その人”が大変な場合もある。“私”は“その人”のところへ行ってもいいし、“その人”もまた“私”のところへ来てもいい。しかし、一緒にいられないこともある。むしろその方が多い。それに、必ずしも一緒にいるだけがシンパシーではないのではないか。言い訳と取られるかもしれないが……。
 ――身体が二つあったら! “ここ”にいることが同時に、“そこ”にいることであったら! もちろん、そんなことは不可能だ。そのとき、離れた場所からの交流はどのようにして可能となるだろうか。
 ※
 何かを愛することが同時に何かを愛さないことになるならば、何かを語ることはまた同時に、何かを語らないことになるだろう。
 ――だからどうしたのか? バカバカしい、言葉遊びのようなフレーズだが、一概に無視できず、視界の端にチラチラと映る。
 ※
 死者はもはや見えず、聞えず、話せず、歌えない。しかしその言動は記録として残すことができる。
 記録は物理的な距離だけでなく、時間的な距離をも超えて届く。死んだ人物の言葉を読む際、もはや語ることのできない存在が語っているように感じる。