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襤褸は着ててもロックンロール

【記録シリーズ16】論理の運用について

 nemanocさんの示唆で、SFとミステリに関連する次の二つのまとめを読んだ。
「狂人の論理」と「異世界本格」
「魔法」を物語の中で”科学的・合理的”に描写するには
 雑多な議論のため言葉が曖昧なままごちゃごちゃしている印象も強いが、ここには、関心のある者が読めば、ジャンルの“約束事”を通じて小説のフレームそのものが問い直される契機を見出すこともできると思う。
 二つのまとめは性格がまったく異なるが、共通するところを強いて挙げれば、作品における“論理”とは何か、ということだろう。以下、上記の具体例からは少し離れて、作品というものがもつ“論理”について考えてみる。
 小説であれ映画であれ、作品にはその内部で固有の“論理”が働いている。これは必ずしも、科学的規則とは限らない。ある作品をかたちづくろうと志した者なら誰もが、そこで自立して働いているルールやロジックやリズムをうまくかたどることの難しさに直面したことがあるはずだ。 このなかなか具体化しえない自立した様々な規則をひっくるめて、ここではさしあたり“論理”と呼んでおこう。
 人間である書き手が、人間である読み手を対象に、ある世界を舞台にした作品をつくる以上、なんらかの“論理”が働くことは不可欠だ。いや作品とは、ほとんどこの“論理”と格闘した痕跡そのものだ、ともいえる。なぜなら“論理”とは、人間がある対象を理解しようとして観察し記述したものにほかならないからだ。“論理”の示す領域を極端に広げれば、いまこうして使っている言語それ自体を含みうる。言葉というものがそもそも論理的なのだ。でなければ意味を伝達できない――書き手と読み手はコミュニケートできない。
 だから、科学的法則であれ、特殊世界の法則であれ、人間が書き、読む以上、それを描いたものに必ず“論理”は働く。つまり大雑把にいえば、“論理”の問題とは多かれ少なかれ、言葉の問題、コミュニケーション問題につながりうる。犯罪も魔法も、個人の裡に留まるかぎりは物語になりえない。小説が、書き手の脳内原稿に留まるかぎりは、読み手とのあいだにコミュニケーションの発火を生み出さないように。逆にいえば、個人と世界との接点において犯罪や魔法を描きシミュレートしたものが、ミステリやSFと呼ばれるのだろう。
 たとえば「狂人の論理」と「異世界本格」と呼ばれているものは、上記でいわれているように、手法やジャンルの違いという点では確かに、隔たった概念だ。しかしそうした作品の、いま・ここにいる我々読み手が想定している常識とは異なる論理展開を描くという目的は共通する。それは、ある謎を、その作品世界の自立した規則を枉げないまま展開し解決する(そして読み手に“驚き”をもたらす)というミステリの本質を、異なるかたちで敷衍したものだといえる。つまり“論理”を描くという基本は変わらないのだ。その観点から見れば、舞台の現実性や架空性は、骨となる論理を装飾する“遊び”の部分だとする議論はできるだろう。私はそこに通底するものを見る視線を、新たな発見として読みたい。(ちなみにいえば、書き手や作品の数だけ働いている規則の感触が違うというのは、フィクションと現実は異なるものなのだから、当然の話だ。したがって、いわゆるファンタジー的な世界と、歴史的な現実舞台を同じく「異世界」と捉えるのは、混同だと思われる。まずフィクション=虚構世界という大枠があり、その中で、現実的/架空的、同時代的/非同時代的、同地的/非同地的、……という軸で分けて考えられるべきではないだろうか。)
「狂った論理」というのは、「狂った言葉」と同じように、想像しづらい。論理や言葉は、狂った時、論理や言葉であることをやめるだろう。とすれば、作品が読まれ、書かれるうえで理性が必然的に働く以上、“理性の外”を目指した作品は、作品であることをやめるのだろうか?
「作品であることをやめる」とは小説なら、小説にならない、ということだ。最も低い次元でいえば、書き手が力量不足のため、作品のもつ論理を恣意的に枉げてしまう。これは失敗例。しかし、作品内の論理と、いま・ここの読み手のそれとは、どこかでつながっていなければならないはずだが、どうつながっているのだろうか。先の「異世界」――現代日本とは隔絶した時代・地域を例にしてみよう。言語の観点からすれば、「我々とは異なる世界に住むはずの語り手が、なぜ、我々のよく知る日本語でこうした文章をつづることができるのか?」という疑問がまっさきにうかぶ。もちろん、そうした手続きを説明的にふんだうえで本編を展開する実例は存在する。しかし“約束事”としてあっさりクリアした作品が多いのもご承知のとおりだ。“約束事”とは、この“クリア”のことに他ならない。そして、ある作品について読み手が根本的な違和感をもつ際、この“クリア”に由来することが多いのも事実ではないだろうか。
“クリア”とは、論理を展開するうえで障害となるものを“約束事”としてとりのぞく作業のことだ。たとえばドラえもん。ああいうロボットと数多の道具そしてタイムマシンの実現にはどれほどの困難が立ちはだかるか。ゆえに、未来社会から来たという担保が一応の“クリア”として設定される。とはいえ、あと100年ちょっとであれだけのものを発明し開発し普遍化するのは、どう考えても不可能だろう。――その疑問は、ふたたび“約束事”として無言で脇に置かれる。しかしそうした現実的障害を一歩またぎこせば、IFとしてのフィクションを、作品内の論理において展開することができる。こうした“不審”の停止=約束事=クリアは、つまり、論理の前提を違えるという行為そのものだ。異世界であるかどうかに限らず、どのようなフィクションでも、いま・こことの継ぎ目で、読み手は多かれ少なかれ、その作品内部に入る際、なんらかの“クリア”=前提の丸呑みを強いられる。
 ここで、先の小川氏の言葉を見てみる。

魔法について真面目に「それはどうなっているのか?」と考えれば考えるほど、それは単なる別形式の科学だという結論になってしまう。/ので、魔法を名乗る体系は、自ずから理詰めの探求者を逸らすか殺すか眠らせるかする性質が必要。
「それはどうなっているの?」という問いの存在を許す体系は、魔法ではあり得ない、というか。それを許すと、その体系はいずれはバラバラに解明されて万人に使われて、法ではあっても魔ではなくなる。
また逆に、「それはどうなってるの?」と誰も突っ込みにこないような表出は、魔ではあっても法ではない。ただのホラーか目の錯覚。
「それはどうなってるんだろう」と見る人に思わせ続け、でも決して体系を悟らせないし、ましてや説明なんか間違ってもしてくれないのが、ようやく魔法を名乗れるんじゃないか。

 私は上でいわれている「魔法」を用いた作例が、うまく思い浮かばない。どういう「魔法」なのかもよくわからない。感じとれるのは、言語化できないにも関わらず、なんだか不思議でスゴいらしいものだということだ。しかし少しズラして考えてみれば、これは、人間と世界、作品と現実の関係にも比べて類推できるのではないか。つまり、ともすれば習慣化され見過ごされがちなフィクションの“約束事”について考えることは、生活するうえで“約束事”として横に置いた、いま・ここに生きているこの現実の不可解さについて考えることと、どこかでつながりうるはずだ。
 小川氏のいう魔法の「殺気」とは、既存の知見や技術では記述できない、ということではないのか。にも関わらず、いやだからこそ、それを記述したいという欲望はやむことがない(それは小説にかぎらない普遍的なものだ)。記述し言語化するということは、最終的には「科学」――理性による観察および体系化へといたるだろう。しかし実際には、この現実すら、記述しきるということはない。すべてを書ききった――そう思った瞬間、「魔法」は、書き手をよそに、言葉と現実とのあいだを走り抜ける。そうした「魔法」への恐れがなければ、発端もプロセスも結末も手癖でコントロールされきった作品の、どこにポエジーやセンス・オブ・ワンダーがあるのか、ということにならないだろうか。だから牽強付会かもしれないが、「科学に堕さない魔法を書くのって、本当はすごく難しいと思うんよ」という言葉を、私は次のようにパラフレーズして読んだ。「テクニックに堕さない作品を書くのって、本当はすごく難しいと思うんよ」。
 もし“約束事”へ真摯に寄り添うなら、その矛盾の前では、どのような作品も成り立たないに違いない。しかし「それはどうなっているの?」という問いを斥けることもまた、“約束事”に転化しうる。そんなチャチなコケオドシが本当の「魔法」だろうか? たとえば先のつぶやきの「魔法」という単語を、「文学」や「恋愛」と入れ替えてみれば、神秘的な危うさと紙一重だと気づく。重要なのは、あくまでも明晰に、あらゆる手を使って“約束事”を見つめることで、書き手と読み手がいる現実と、作品との距離を明らかにすることではないのか?
 ミステリにSF的要素をもちこんではならない、なぜならトリックがなんでもアリになってしまい、推理が成立しないから――そうした主張は今や(たとえば西澤保彦の一九九〇年代の諸作などによって)ナンセンスなものになったが、しかしそれはこれまでに誤謬を排し、「魔法」と「科学」を峻別してきた書き手と読み手がいたからだろう。「狂人の論理」や「異世界本格」もまた、探求の成果に違いない。つまりそうした営為自体が、「科学」的な体系化の試みであり、他方、「魔法」に惹かれてやまない心性を動力源にしてきたものだ。理性的な観察を積み重ねることによって、解き明かせない謎としての「魔法」は、書き手と読み手のあいだで新しい表情を露わにしてゆくのではないか。
 ※
 実は、以上のまとめを読んで考えていたのは、殊能将之黒い仏』と、作者の大学生次代の原稿集『Before mercy snow』(名古屋大学SF研究会、2013)に掲載された「ハイウェイ惑星はいかに改造されたか?」のことだった。
黒い仏』といえば、北上次郎氏の酷評が有名だ。しかし作者が大学時代に書き、一部では画期的な評論として知られたという「ハイウェイ惑星〜」の要点は、次のようなものだ。

 都筑道夫は評論集『黄色い部屋はいかに改装されたか?』(晶文社)のなかで、本格推理小説(パズラー)の醍醐味を“論理のアクロバット”という言葉で表現している。
 まず、読者にある不可解な謎が提出される。次に、その謎を“論理のアクロバット”によって合理的に解決する。謎が不可解であればあるだけ、読者は満足するわけだ。
 ――わたしはかねてから、パズラーとハードSFはよく似たジャンルだと感じていた。つまり、アイデアやプロットよりロジックにその主眼をおくという点である。
 ハードSFの醍醐味は、“論理のアクロバット”であると言ってよい。

 1984年にここで、都筑道夫を援用し、ハードSFの本質を科学的論理の運用であると若くして喝破した人物が、その16年後に『黒い仏』で賛否両論を巻き起こすのは興味深い。
 この評論では、ジャンルとしてのハードSFの将来についても“予言”されている。上に書いたことと若干関連する箇所を紹介すれば、次のようなところだろうか。

 ふつうのSFのアイデアには(これはとくにシチュエーション型のアイデアに顕著なのだけれど)、人間の視点が不可欠である。アイデアの面白さとはすなわち、そのアイデアに対して人間がいかに反応・行動するかの面白さなのだ。「千年にただ一度だけ――[夜が来るとしたら、いったいどうなるのだろう ※引用者注]」というアイデアを例にとれば、その千年に一度の夜が来たときに惑星の住人がどう反応・行動するか、それが面白いのである。人の視点が不可欠である以上、アイデアは小説に直結する。
 ところで、前章までにくりかえし述べたようにハードSFは科学的論理にその主眼をおく。科学的論理とは神の視点から語られるものであり、むしろ人の視点を排除してしまう。その結果として、ハードSFは科学と小説の(“S”と“F”の)分裂を内包せざるを得ない。
 ハードSFを書くとは、すなわちこの分裂をどう処理するかということなのだ。
(中略)ハードSFが論理パズルとなったり、文学ぶったりするのを、ぼくは好まない。科学を背景とした空想を紡ぐのに、SFという形式を、小説という形式を選びとったのはなぜなのか。マーチン・ガードナーよりもロバート・フォワードを魅力的に感じるのはなぜなのか。
 ハードSFとは、サイエンスとフィクションがたたかう闘技場である。そうあるべきだし、そうあってほしい。

 このあたりから、そろそろ、中断していた『黒い仏』の再読を始めたいと思っているところ。