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襤褸は着ててもロックンロール

城平京『虚構推理 鋼人七瀬』を読んだ

城平京、面白いよ」
人からそう薦められたのはもう十年近くも前だが、先々月、『虚構推理 鋼人七瀬』(講談社ノベルス、2011)で初めてこの著者の作品を読んだ。なかなか興味深かった。しかし本書をめぐっては賛否両論あることを事前にいろいろと聞いており、期待しすぎたかな、とも思った。そこで他の方がどう読まれているのか探してみた。代表的なところでは、本格ミステリ大賞受賞時の選評(「ジャーロ」2012年夏)や、千街晶之氏の「レトリックと真実の振り子」(「CRITICA」7号、2012)、諸岡卓真氏「創造する推理 城平京『虚構推理』論」(「日本近代文学」第78集、2012/『日本探偵小説を読む』2013所収)などがある。加えて、同著者が原作を務める漫画『スパイラル』の小説版第二弾『鋼鉄番長の密室』(スクウェア・エニックス、2002)や、田代裕彦『セカイのスキマ』全三巻(富士見ミステリー文庫、2006-7)とも方法的に類似性があるというので、読んでみた。また、上記『鋼鉄番長の密室』を含む小説版『スパイラル』全四巻(2001-4)やデビュー作『名探偵に薔薇を』(創元推理文庫、1998)にも手を出した。
正直なところをいえば、そのように次々に手を出していったのは『虚構推理』が“本格ミステリ”として評判が高いらしいということを事前に聞いていたにも関わらず、読み終えてある疑問が残りそれを確かめたかったからなのだが、もはやそんな邪念は吹き飛んでしまった。刊行から三年近くが経過して世評は一段落、大きな賞も受けているし、作品についての現状の論点はだいたい前記の千街論文や諸岡論文にまとめられている。
なにより、小説版『スパイラル』や『名探偵に薔薇を』の面白さにはうたれた。『虚構推理』をめぐっては、いわゆる「後期クイーン的問題」がよく引き合いに出される。それにしては推理部分が弱いのではないかしらと思っていたのだが、小説版『スパイラル』の「あとがき」で作者はたびたび、伝統的なミステリへの志向を表明している。とりわけ、“本格ミステリ”としてもっと評価されてもいいだろうしっかりとした消去法ロジックを組み上げる第四弾『幸福の終わり、終わりの幸福』の「あとがき」では次のように述べられる。

「ミステリは楽に手早く読めればいいというものじゃない!」という泣き言も記しておきます。
私の作品はともかく、たまには苦労して読む謎解きミステリに挑戦して充実感を得るのもいいですよ(慣れれば苦労も感じなくなりますし)。少なくともミステリについて何か語る気ならG・K・チェスタトンのブラウン神父ものを最低三冊は読むべし。語る気がないなら個人の自由ですけれど、チェスタトンを読まずしてミステリを読んだ気になるのももったいないとも思います。
この手のお薦め必読作を挙げだすときりがないのですが、世代間のミステリ知識の差が大きくなっていくのを感じると野暮ったいことも言いたくなるのですね。
たとえ読まなくても、せめてそういう作品がいくつもあって読んでないと公言するのはちょっと恥ずかしいぞ、という感覚は持っていてほしいなぁ、などと考えたりもします。何でも新しけりゃいいってもんじゃないんだ、と叫びたくなったりもしたり。

「本格ミステリの最新進化形。こんな謎解き、見たことない!」と喧伝され、ケレン味たっぷりに見えないこともない『虚構推理』は実際には、ロジックを重視した作品にも実績を持つ作者のこうした考えを基に書かれているはずだ。だから、「ブラウン神父もの」を三冊も読んでいない私が「何か語る」資格もあまりないだろうが、しかしまだいくつか気になる部分が残るので、記してみる。
平氏は『名探偵に薔薇を』によれば1974年生まれだという。津田裕城氏の解説を参考にすると、在学中からミステリ作家を志望し研究を重ねた。鮎川賞に応募されたデビュー作『名探偵に薔薇を』は先行作との類似点を指摘され最終的に落選したそうだが、同書で一読感銘を受けた。“類似点”は私もいくつか浮かんだが、作品のゆるがせにできない構造に組み込まれているため、気にならなかった。執筆時22歳というのも驚嘆した。それでこれだけの分析力と筆力……才気を感じた。
本格ミステリ大賞の選評を読んでみると、自分と同じように『虚構推理』はロジックが弱いのではないかと述べられている投票者は何人かいた。推したコメントには、斬新さや刺激的な点がそれを補って余りあるとしたなどとある。ちなみに、私はこの賞の選評一回ぶん全体を読むのは初めてだったのだが、消去法推理のように、自身の本格観と賞の性格とを照らし合わせてロジカルに選定過程を書かれる方が多かったのは面白かった。本格ミステリ大賞にはこういう作品が選ばれてほしい、ゆえに候補作の中から◯◯と××に絞り、最終的に△△という条件から◯◯に選んだ……というもの。そのなかには、別の賞になら××を選んだだろう、というものもある。つまり、条件を絞る規則の働かせ方が違えば、別の選択もありえた、ということが述べられているのである。
もちろん私も、新しい本格ミステリには伝統芸能的であるというより、既存の文脈を継承しつつ、枠組み自体をゆるがすほど大胆な新しさが導入される批評的な、つまり両面的なものであってほしい。しかし『虚構推理』を読むとどうしても、それらしき要素を取り入れつつ、実際のところはロジックではなく、物語作りのうまさなのではないかと思ってしまう。といって、“本格ミステリでないからダメ”などといいたいのでもない。気になるのは、もっと素朴なところにある。
   ※
アイドルの死ということで読みながら想起したのは、密室劇としてミステリファンの間でも話題になった映画『キサラギ』(佐藤祐市監督、古沢良太脚本、2007)。私がこの映画を知ったのは、殊能将之の「memo」でだった。そこではこう述べられていた。

佐藤祐市監督「キサラギ」(2007)を見た。
自殺したアイドルの一周忌にファンが集まり、死の真相を議論する話。集会場所の部屋から一歩も外に出ない舞台劇風のつくりで、狙いとしては「探偵スルース」や「デストラップ」あたりか。
どんでん返しや真相のつじつま合わせはわりとがんばっていて、及第点をあげてもいい。
ただし、ラストで客を泣かそう、感動させようとしているふしがあり、根本的な疑問を感じた。どう考えても、この設定はブラックコメディにしかならないだろう。どんな事情があるにせよ、他人の死(しかも凄惨な焼死だ)をこんなふうに話しあう連中は気色悪い、という視点が完全に欠落している。(「memo」2007年9月前半)

映画本編を観る前だったので、この評言が具体的にどこを指すのかはわからなかった。その後しばらくして、20人くらいで観た。確かにブラックなつくりではなかった。しかし〈他人の死(しかも凄惨な焼死だ)をこんなふうに話しあう連中は気色悪い、という視点が完全に欠落している〉とまでいうほどのものかなあ、とも思った。一緒に観た人間も誰も、そんなことは考えていないようだった。
しかし『キサラギ』と直接の関係はないが、『虚構推理』を読み終えた最後の方に違和感を覚え、連想したのが先の評言だった。
『虚構推理』では二人の人間が死ぬ。アイドル七瀬かりんと、紗季の上司・寺田。一般的には謎の死とされるが、妖怪たちを統べる探偵役の琴子たちは、すでに真相を知っている。そのたわいなくも広く知られれば危機となりかねない真相をどのようにうまく隠蔽し、理想的に状況を持っていくかが主眼となる。
真相がすでに絶対的なものとして判明している。この部分が、たとえば講談社ノベルスから同時発売された麻耶雄嵩の『メルカトルかく語りき』とは大きく異なる。いってみれば、『虚構推理』は、外枠を固めて内側を整形していくようなものか。
キサラギ』では、探偵役たちは死んだアイドルの大ファンだった。それが、真相への切実さを生む。つまり、アイドルへの想いと真相追求への想いが不可分になっている。
一方『虚構推理』では、二人の死の真相が、すでに判明しているため、真実への切実さの代わりに、秩序維持が探偵の役回りになる。死んだ二人への扱いは誰もが冷たいものであり、推理において生者の安寧のためにゾンビのように都合よく利用されることへの疑念やエクスキューズは、申し訳程度に感じる。
私は「後期クイーン的問題」についてはそう詳しくないけれど、探偵の推理の担保という問題を正面突破することは、やはり不可能なのだろう……しかし興味深いのは、不可能であるにも関わらず、不可避に惹きつけられてやまない人間を多く生み出すことだ。不可能であるがゆえに試みはムダだというスタンスはもちろんありうる。とはいえ、不可能であるがゆえに不可避であることの衝突、軋みにもまた、私は惹かれる。
『虚構推理』は、設定によってこの衝突、軋みをうまく回避する。そのシワ寄せはしぜん、「事実」の軽さだとか死者の操りだとかにやってきている。ここが気になる。先の『キサラギ』への評言を借りれば、『メルカトルかく語りき』はその歪みを「ブラックコメディ」として書いている。メルカトルと美袋との視点のズレが持つ意味はそこにある(『メルカトルかく語りき』は、『黒い仏』のような一回限りの冗談小説だろう)。ところが、『虚構推理』の場合、この「歪み」がさらっと流されてしまう。紗季の九郎への体質的な拒否反応はその一端だと思われるが、しかし意識の部分では最終的に、寺田を殺害した「真犯人」へ恋心を抱く九郎の「仕方ない」という言葉なども含め、ほぼ全面的に信頼する……。どうも違和感を覚えないだろうか。
探偵の推理の担保という不可能性と、真相追求への切実さという不可避性とが衝突することが、私はミステリの面白味のひとつだと思う。そして推理の担保とは、ある意味では、作中の言説を完全にコントロールできるかどうかという問題だ。そして『虚構推理』の探偵役は、ギャラリーの目を誘導することでコントロール可能であるとするのだ(ウヤムヤにして有利な状況にメイキングする、というのが正確かもしれないが)。
このテーマは、作品の構造と密接に関係している。ネット空間=言語と、現実空間=肉体とが本作では分離している。分離しているからこそ、探偵も犯人もギャラリーも、匿名でいられる。最後の推理では、ネット=言語が現実=肉体に差し向けられようとするが、それが虚構であるのは探偵も犯人も、百も承知だ。
言語と肉体を切り離せば、軛を解かれた言語をコントロールできる。肉体は傷つかずにすむ。作中では琴子も九郎も傷どころではないようだが、事件は探偵役の立場自体をなんら脅かさない。しかし私が思うに、『スパイラル』の鳴海歩や『名探偵に薔薇を』の瀬川みゆきは、言語と肉体の衝突によって傷ついていた。それが魅力的だった。
これまで述べてきたことを整理すれば、言説のコントロールという不可能を、作品設定における「クリア」によって可能に転じるにあたり、推理のあの切実な不可避性との衝突が減じているのではないかということになるだろう。
ラストにおける三人の秩序への意志は、『虚構推理』のテーマ全体を端的に象徴している。

この世は恐れるほどでたらめになったりはしない。でたらめにならない力も働いている。そう信じていいと思う。

この言葉をどこか虚しく感じてしまうのは、おそらく、われわれが直観的に、この現実がでたらめだと知っているからだろう。あんな舞台裏を見せられておきながら、どうして今さら、「虚構」を本心から信じることができるだろう。何より、死んだ七瀬かりんや寺田はもう「でたらめ」を恐れることすらできないのだが、彼らを死に追いやった人間社会における何物か不可解な「力」は、この結末だと温存されたままではないのか。もちろん作品の外のわれわれをも貫くこの力学をたった二人でどうこうできるとは思っていないが、そこにあえて視線を集中させず、「衝突」を減じることで、辛うじて『虚構推理』は成立しているのではないかというところが、引っかかる。
……などというのは、シリーズ第一作とされる作品に対して多くを注文しすぎるだろうか。『虚構推理』は続く予定だという。しかしそれから三年が経つが、音沙汰がない。『鋼人七瀬』における言説と現実を分離させたディベート的・コンゲーム的推理は、都市伝説〜まとめサイト〜ギャラリーというふうな道具立てと密接に関連づけられているから、次作ではおそらく、推理の展開方法自体を変更せざるをえず、それには時間がかかるのだろう(まさか毎回まとめサイトを出してくるわけにはいかない)。そしてもしシリーズが続くならば、探偵役はいつか、自らが作り出した「虚構」から復讐を受け、傷つくはずだ。『スパイラル』と『名探偵に薔薇を』の作者がそれを書かないはずがない。
その言語と肉体の衝突を経た上で、あらたに「虚構」と呼びうるものを探偵が紡ぐのだとすれば、それをこそ私は望む。