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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

殊能将之を再読する/『黒い仏』(3)

殊能将之

殊能将之黒い仏』の趣向に触れていますので、未読の方はご注意ください】
「軽さ」について
黒い仏』には、それまでの二作と比べてある「明るさ」、それも「軽さ」から通じてくるような「明るさ」を感じる。しかし「軽さ」なら、『ハサミ男』や『美濃牛』にもあった。それは既存のジャンルから道具立てを借りて並べてゆくコラージュの手法によるものでもあったと思うが、そこにどうにも笑い飛ばすことのできない死のトーンが張り付いていることは、これまで述べてきたとおり。ではこのコラージュという「方法」は、いったいどのように「明るさ」を獲得したのだろう。以前にも紹介した、巽昌章氏の時評を再び、もう少し詳しく引く。

黒い仏』では、こうして、二つの異なる世界が並行しながら動いてゆき、一見闇の世界の方が優位に立っていると見せながら、実は石動の得体のしれなさが化け物たちを振りまわしているともとれる、反転図形のような構造を明らかにする。つまり、ここでは、超人的な犯人がすべてを操るといった一元的な世界のイメージが、すれ違いつつ互いに影響し合うふたつの世界というイメージへと、巧妙にずらされているのである。表の世界と裏の世界、そのどちらかが優位に立つでもなく、ふたつは接近し、絡み合い、また離れてゆく。
この作者はたぶん、すれ違いが好きなのだろう。第一作『ハサミ男』は、連続殺人鬼ハサミ男が自分自身を模倣した犯行の現場に出くわすというその発端から、すでに喜劇映画的なすれ違いの味を帯びていたし、その後も、刑事たちとハサミ男の描く軌道はしばしば間一髪で交叉しながら再び離れてゆく。そもそも『ハサミ男』という長編を支えるトリック自体、刑事たち、ひいては読者のまなざしが、あるすれ違いを演じ、空振りしてしまうような仕掛けに基づいていたのではないか。ひとびとの掛け合いにみられる、ちぐはぐしたおかしみもまた、すれ違い趣味のあらわれだろう。すれ違いとは、世界の分裂を、古典的なコメディに翻訳する技法に他ならない。(「第八回 分裂と連続」『論理の蜘蛛の巣の中で』講談社、2006)

まなざしのすれ違い=ズレという原理はデビュー作以来一貫したものだ。それこそが、殺人の動機や、叙述トリックや、謎を生み出す。しかし『黒い仏』ほどに「分裂」してはいなかった。その「分裂」の大きさが、「コメディ」として(一部の読者への悪意すら伴って?)前景化したのだろうか。
読む限りでは、ズレの大きさは、リアリズムの範囲と関わっている。たとえば、死者との面会や、美濃牛の声は、登場人物の夢や幻覚として了解できる。つまり作品世界を支配するルールは、読者のいる場所と地続きのものとして受け取れる。『美濃牛』の奇蹟の泉は、リアリズムの底を最終的に破るが、『黒い仏』ほど決定的ではない……逆に、『黒い仏』では、こちら側(現実)にあちら側(超現実)が大きく浸出してくる。これまでの二作で絶対的なものであった生ー死の関係は、超現実的な虚構によって相対化されてしまう。なぜなら、時間の移動と世界の改変は生者と死者の境界を曖昧にするし、なによりそうした人間的な問題自体の重みを失くすから。実際、『黒い仏』以降の石動シリーズでは、殺人行為およびそれにまつわる謎が、作中であまり重要ではなくなってゆく。加害者―被害者関係の追究というオーソドックスな探偵の視線から、作者と読者の視線がどんどん逸脱するのだ。同時に小説は自由度を増す。霊魂すらが登場する『キマイラの新しい城』での石動の「軽さ」は、こうしたことと無関係ではないはずだ。
固有名詞について
本書の冒頭には、ジェイムズ・ブリッシュへの献辞がある。この関係は少し複雑なので、かいつまんで述べる。ブリッシュは「More Light」という作品で、『黄衣の王』という戯曲を引用している。『黒い仏』中盤の引用は、ブリッシュ作品からの著者自身による訳だが、この『黄衣の王』という戯曲は、ロバート・W・チェンバースの短篇連作に登場する架空の作品、つまり現実には存在しないのだ。ではなぜブリッシュが引用できたのかといえば、架空であることを逆手にとって、いわば引用という形で創作したのだ。偽書ネクロノミコン』の「実物」が数々出版されていることを思い浮かべれば分かりやすいだろうか。チェンバースが『黄衣の王』をめぐる作品を執筆したのは、ラブクラフトよりも前だが、ラブクラフトはのちに、遡ってクトゥルー世界に取り込んだ。ブリッシュが「More Light」を書いたのは、勿論その後だ(短編集の刊行は1970年のようだ)。このあたりの虚構と現実の入り組んだ関係が、『黒い仏』を書くヒントとなったのだろう。
ホラーは元々、他のジャンルと比べ、読み手を恐怖という感情に直接巻き込まなければならないがゆえに、虚構―現実という認識と密接に関係する。書き手(語り手)―読み手(聞き手)のあいだを伝う言葉の内容とスタイルが同じ地平にあってこそ、用を果たす。遠い宇宙の片隅で壮大かつ不可解なことが起こるより、日常的な違和感のほうが、「この私」は怖い。
さて、『黒い仏』は巷間、しばしばこのように説明される。探偵が事件を追いかけるのだが、どうも謎が解けない。実は犯人は妖怪で、時間を操って犯罪を行なっていたのだ……。間違いではない。しかし思うに、今作で重要なのは、ラブクラフトという固有名詞への言及ではないか。なぜなら、もし作家が名探偵という役割をコケにしたいだけなら、わざわざクトゥルー神話と接続しなくとも、独自の超現実設定をこしらえれば良い。勿論、体系による外部からの補強的意味合いもあるだろう。とはいえ、「虚構の現実化」といういかにもラブクラフト的なテーマは、本作が与えるサプライズの点でも重要な位置を占めている。
クトゥルー作品群の中で、「ラブクラフトの描いた怪物、神々たちは現実のものだった」 という設定は、たとえば参考文献に挙げられているブロック『アーカム計画』などでも用いられている。その場合、単なるフィクションだと思われていたものが実は……というところに怪談的妙味があるわけだが、怪異を素朴に描くのではなく、ラブクラフトという固有名詞によって、虚構と現実の関係は一度ねじれる。そのねじれを通じて作品世界と読者のいる世界とが繋がってしまう。虚構(『黒い仏』)に虚構(クトゥルー神話)が嵌め込まれ、それが裏返ってこちら側(現実)へと通じてくる、つまり「クトゥルー神話」を媒介に、虚構と現実が分裂しながら同時に繋がってしまうのだ。このラブクラフト的ねじれは、次作『鏡の中は日曜日』にも引き継がれる。しかし同じ石動シリーズでも、書かれつつある作品と先行ジャンルとの関係は、たとえば『美濃牛』の横溝正史、『鏡の中は日曜日』の綾辻行人などと比べてゆくと、作品ごとに異なっている。こうした比較によって“石動シリーズの方法”とでもいうべきものが見えてきそうだが、ここではさしあたり、「コラージュ」の話に戻ろう。
他人の思考、自分の思考
前回、中村融氏が触れていたバリントン・J・ベイリーの追悼文に、次のようにある。

ベイリーと〔ジル・〕ドゥルーズの共通点は、彼らが困難かつ微妙な問題について、自分の力で誠実に考えぬいたことにある。だからこそ、彼らの思考は読者を刺激し、読者をそれぞれ自分なりの思考へと導いてくれる。もしもベイリーの作品に「哲学的」「形而上学的」という形容があてはまるとしたら、その理由はこの一点にしかない。
そしてベイリーは、自分なりの思考を深めるうえで、常識的な発想から大幅に逸脱することを恐れなかったし、過去の権威に安易によりかかり、たんなる他人の思考の引き写しにとどまることもしなかった。彼の作品が「荒唐無稽」「バカSF」とも形容されるのは、このためである。ドゥルーズにおいても事情は同じであり、前記引用〔『シネマ2 時間イメージ』〕を読んで「なんの役にも立たないポストモダンのたわごと」と感じる人がいたとしても、わたしは少しも驚かない。
ベイリーは複雑微妙な問題を自分なりに思考した。そしてSFは、そうした思考を表現するのに適したジャンルだった。なぜならSFは、抽象的・非現実的とみなされがちな対象を直接扱えるからだ。(……)
もう四半世紀近く昔になるが、ポストモダニズム華やかなりしころ、「最近海外では現代思想をとりいれたSFが書かれているらしいけど、そんな難しい小説を読んで理解できるのだろうか」と悩み疑う人たちがいた。
わたしは「山田正紀が正しいとしたら、それはたぶん『実はドゥルーズは謎の超知性体に操られていた!』という話になるだろう、おもしろいじゃないか」と思ったものだ。
もちろんこれは、穏健な文学的立場からすれば、あまりにも乱暴なやり方ともいえる。だが、乱暴なまでの直接性こそがSFのもつ力の源泉なのだ。そしてベイリーは、その力を理想的な形で体現した作家のひとりだった。(殊能将之「ベイリー・ドゥルーズ山田正紀」「SFマガジン」2009年5月号)

追悼文では、「自分なりの思考」と「他人の思考の引き写し」とが対比されている。ここで、タランティーノにおける引用とサンプリングの違いを述べた評言を思い返していただきたい。

引用は受け手が引用元を知らなければ意味がない。送り手と受け手のあいだに「これはシェイクスピアの引用である」という共通認識があってはじめて成立する。(……)
では、サンプリングはどうか。
サンプリングは受け手がサンプリング元を知っていても、知らなくても、どちらでもかまわない。サンプリング元がわかったからといって、その作品に対する理解が深まるわけでもない。
なぜなら、サンプリングはあくまで素材にすぎないからだ。たとえていえば、「このサンプリング元はジェイムズ・ブラウンだ」とわかることは、「このギターはストラトキャスターだ」とわかることと同等である。もちろんギターの音色から製品名がわかることに意義があると考える人もいるだろうが、音楽を聴くとき、普通はそんなことは気にしない。(……)
DJのサンプリング元を気にするのは、自分でもサンプリングで曲をつくっている他のDJだけである。客はサンプリング元を知るためではなく、気持ちいい曲で踊りたいからクラブにやってくる。
キル・ビル」も同じで、元ネタを知ることよりも、タランティーノがサンプリングをつなぎ合わせてつくりだしたエモーションを感じるほうがずっと重要だとわたしは思う。(「memo」2003年11月前半)

この「元ネタ」が「他人の思考」であるならば、「エモーション」はおそらく、「自分なりの思考」につながるものであるはずだ。「他人の思考」から「自分なりの思考」を生み出すことが大事なのだ。『黒い仏』におけるクトゥルー神話の扱いは、引用だろうか。サンプリングだろうか。私は初読時、ラブクラフトについてほとんど知らなくても楽しめたから、サンプリングに近い引用ではないかと思うが、さて、文庫版解説で、豊崎由美は、ゴンブローヴィチ『トランス・アトランティック』中の次のようなエピソードを紹介している。

〔作中に実名で登場した〕ゴンブローヴィチは行きがかり上、バターがあまりにもバターすぎるのは面白くないと主張するのでした。すると、ボルヘスはこんなふうに反論します。「バターはあまりにもバターすぎるという発言があったけれど、それはなるほど興味深い考えではあっても、○○が××という作品の中ですでに述べているね」。作家名と作品名が思い出せないのが口惜しいのですが、ボルヘスはこんな具合に、ゴンブローヴィチの反論をことごとく「それも何々に書かれている」と重ねることで跳ね返してしまうのです。ついにゴンブローヴィチは「くそ、くそ、くそ!」とヒステリーを起こすのですが、ボルヘスは何とそれにすら「生クリームを塗ってから云々すれば美味になるかもしれないけれど、それもまた○○がすでに言っている」と注釈をつけ加えます。放心したゴンブローヴィチは嘆きます。「言葉は自分のもとから逃げ去っていってしまった。もう俺のものなど何もない。これまで俺の書いてきたものはすべて他人からくすねてきた盗品にすぎなかったのだ」と。(豊崎由美「こんな引用のみで出来上がった解説を読んだからといって、『黒い仏』の何がわかるというわけでもあるまいし」)

私はこのエピソードが一読忘れられないのだが、そうした絶望に対してもっとも説得的に感じたのは、テリー・イーグルトン『詩をどう読むか』の一節だ。
……というところで、『詩をどう読むか』がいま手元にないので、正確に引けないのが残念なのだが、大雑把にいえば、「愛」という言葉が使い古されたものだからといって、あなたの中に生じた「愛」が価値のないものかというと、そんなことはないでしょう、ということだ。言葉の既出性と、“いま、ここ”に生じているものの価値とは、関係がない。むしろ、そうした既出の言葉の扱い方=ズラし方こそが、「文芸」といいうる。
しかし、「どのような言葉もすでに既出である」という事態への絶望というと、なんだか、昔『GTO』に出てきた、「人間って結局DNAの乗り物なのか……」と絶望する悪役の少年を思い出してしまう。つまり、「○○は××に過ぎない」という見方は、どうも一方的すぎて感じられるのだ。
ともあれ、言葉が既出(=「他人の思考」)であろうと、「エモーション」(=「自分なりの思考」)を作り出すことはできる。もちろん「言葉」や「エモーション」の既出性/創作性はいくらでも疑うことができるのだが、最終的にはこの「エモーション」への信頼がなければ、どのような作品も書きえまい。他方、言葉の既出性への自覚は、しぜん、その言葉を選択したこと自体による距離感や軽さを生む。つまり、「どうしてもラブクラフトでなければならなかった」という不可避性ではなく、「そのほうが気持ちよかったからラブクラフトにした」という「あえて」の余裕からくる、軽さ。
だが『黒い仏』では、ミステリやクトゥルーの、どちらかが下位に置かれているわけではない。並列的になっている。作者は原理的には、どのようなテクストも書くことができる。最初からジャンル作家である者などいない。ジャンルの区別とはしばしば、小説の商品としての、流通上の都合だ。実際に、届いて欲しい読者に届かないということがあるから、これは大きな問題でもあるのだが、近年クローズアップされた、「カテゴリーエラー」と呼ばれる事態は、このあたりと関係しているだろう。では『黒い仏』はカテゴリーエラーなのかといえば、現在までの話題のされ方を見るに、読者層のストライクゾーンぎりぎりのようなところがあって、題材の取り合わせの妙を感じる。
取り合わせについて
取り合わせ、という言葉が出た。二つの対象を並べることでそのあいだ=ズレから生じる効果のことだが、それはたとえば、「二物衝撃」や「デペイズマン」という手法があるように、俳句やシュルレアリスムとも親しい。ところで、作中で中村警部補は、次のような感懐を抱く。福岡県警の近くには、日蓮上人像があり、その顔は県警の建物を向いているのだという。

おかげで、中村たち福岡県警所属の刑事は、日夜、日蓮上人に見つめられながら、仕事をするはめになっていた。ありがたいといえばありがたいのかもしれないが、捜査が行きづまっているときには、日蓮上人に怒られているように感じてしまう。(……)
いまは、遠く爆音を響かせながら、福岡空港発の航空機が、日蓮上人の頭上、よく晴れた青空を斜めに横切っている。なんともはや、シュールレアリスティックな光景だった。

ここでいう「シュールレアリスティック」とは、美術用語というよりも、むしろ俳句でいう「俳諧」に近いように思う。つまり、石像という古来からのものと、最新の航空機が、並列になることで生じるおかしみ。この石像は、『黒い仏』の作者にも、強い感銘を与えたようだ。

午後1時半頃、JR博多駅から鹿児島本線でひと駅北の吉塚へ。
吉塚駅から少し歩いて、福岡県警を見学。もちろん、外からだけですが。
いやー、わたしはこのとき、福岡まで来てよかったと思ったね。
福岡県警の正面には、身延山福岡別院護寺教会という日蓮宗のお寺がある。ここには身長5〜6メートルはあろうかという日蓮上人の石像が立っているのだ。しかも、福岡県警のほうを向いて。福岡県警の刑事さんたちは、毎日、日蓮上人に見つめられながら仕事をしているわけだ。これぞ『黒い仏』にぴったりの舞台設定ではないか。
たまに、日蓮上人の上空を福岡空港発着の航空機が横切ったりすると、ほとんどシュールレアリスムの世界。(「取材日記」2010年10月12日

石像も、航空機も、どちらか一方だけを見て俳諧が、つまりズレからくるおかしみが生じるのではない。石像の職人も、航空機の職人も、まさかこのようなかたちで、2001年の小説に並んで描かれるとは思っていなかっただろう。「自分なりの思考」は、この両者を同時に捉えた、あいだからやってくるはずだ。(続く)