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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

殊能将之を再読する/『黒い仏』(4)

殊能将之

殊能将之黒い仏』の趣向に触れていますので、未読の方はご注意ください】
差異をめぐる眼差しについて
差異をめぐる眼差しは、作中のいたるところにばらまかれている。大陸と日本のあいだで没した円載、区別のつかない二つの曲、カバー曲、回文メニュー、西洋と日本の詩、仏典とクトゥルー神話……etc。たとえば区別のつかない二曲なら、どちらか一方しか知らない場合、その微妙な「ズレ」のおかしみを感じるということはありえない。両方を知っているからこそ、その「あいだ」を見出すことができる。
勿論作中でその最大のものは、石動と犯人たちの視線のズレ、ひいてはジャンルのズレだろう。「よく似ていて、聴いても区別のつかない曲」の話題から始まった石動たちの冒険は(つまり普通の本格ミステリによく似たものとして始まったこの小説は)、やがて「とんでもないカヴァーバージョン」「邪悪な波動」「テクニックと努力を駆使して、世にもばかけたことをやる」「物真似で歌うんだ。気持ち悪かったなあ」「空虚さを原曲以上に表現」「あれはとんでもないですよ。全然弾まない」「聴いて激怒したんじゃないかな」などと形容されるような展開へと、擬態を解いてその正体を現してゆく。
二つの対象を並べたその「あいだ」に見出された差異から生じるものこそが、前回述べたDJ的なサンプリングにより生み出される「エモーション」であり、「自分なりの思考」につながるものなのではないか。『黒い仏』ではとりわけ、このギャップが強調されているように感じられる。
二つの視点について
殊能将之の長篇の中で、全編が同じ一つの視点で貫かれている作品は、『子どもの王様』の他にはない。『美濃牛』は一見多視点だが、主人公はあくまでも一人だった。『黒い仏』ではそれが裏返って、石動戯作とそれ以外、に区別されているように思う。
具体的に見ていこう。石動戯作に終始まつわりついているのは、このような記述だ。

渋滞した車の列は、ときどき思い出したように動き出すだけで、石動たちは先ほどから、ずっと足止めされていた。/福岡市と違って、東京の空に満月は見えなかった。ただ、軽自動車のカーステレオから、メル・トーメの歌う〈ブルー・ムーン〉が聞こえるだけだ。蒼い月が、ひとり立ちつくすぼくを見ている……。(第一章「蒼い月」2)

石動は城島の追撃ホームランも、松中の同点ホームランも、ニエベスの勝ち越しホームランも見ていなかった。東京ドームで日本シリーズが開幕したことにすら気づいていなかった。(第二章「朱い虫」4)

黒い仏』は主に、石動を眺める視点と、刑事たちを眺める視点の二つのパートから成っている。そのほか、円載なり、アパートの大家なり、比叡山なり、謎めいた子供の独白の引用なり、アントニオたちのテレパシー問答なりが細々とあるわけだが、基本的にはその二つだといっていい。しかし、たとえば「福岡市と違って」のように、“今、ここ”ではない他のパートに揶揄気味に(拍と拍をまたいでシンコペーションするように)言及する視点は、石動以外には見られない。さらに具体的にいうとたとえば、中村警部補たちのパートで、初めて彼らが石動と交差するシーン。

「石動さんどうしたの?」
瑠美子が突然、中村たちの肩ごしに声をかけた。
「いや、その、浜辺で章造さんを見かけまして……」
すっとんきょうな声に驚いて、あわてて振り返ると、真っ赤なセーターに黒い上着、ジーンズ姿の男が、初老の男をささえて、門柱を通ってくるところだった。よほど日頃運動していないのか、息が切れて、黒縁眼鏡をかけた顔が紅潮していた。
黒縁眼鏡の男にぶら下がるようにうなだれているのは、瑠美子の父親、上島章造だろう。(……)
すみません、と中村たちに声をかけて、瑠美子が玄関を出た。石動と呼ばれた男といっしょに章造をかかえて、家まで連れてくる。(第二章「朱い虫」5)

もし、石動と警察を眺める視点が同一の神の視点(三人称)ならば、わざわざ「黒縁眼鏡の男」などと呼ぶ必要はないのではないか。単に「石動」と呼べばいい。この部分で、中村警部補たちを眺める三人称の視点は、まるで彼らと同じく初めて石動戯作という人物を知ったかのように「黒縁眼鏡の男」と記す。
一方に、「福岡市と違って」のように他のパートへ言及する視点(石動側)があり、他方に、ほかのパートなどまるで知らないかのように記述する視点(警察側)がある。ここから分かるのは、同じく三人称でありながら、実は全く異なる視点が作中に共存しており、とりわけ石動を眺める視点は、他のパートへも言及できる特権性を持っている、ということではないだろうか。感覚的には、石動側が俯瞰気味(ロングショット)、それ以外は密接気味(クロースショット)という感じ。
当たり前のことを確認するようだけど、やっぱり『黒い仏』の主人公は、石動戯作なのだ。「名探偵」を眺める特権的な視点があり、その他の視点が彼のズレを際立たせる。『美濃牛』では天瀬啓介が、同じような位置にいた。その意味では、「本格ミステリ・ベスト10 2002」の座談会での濤岡氏による「解決の仕方をこうしたら、『美濃牛』で宙ぶらりんになった幻想的な現象や、石動の名探偵ぶりに説明がついてしまうんですよね。厚くなるけれど『美濃牛』と『黒い仏』で合本にしたら、また違う様相が見えてくると思います」という発言は、『美濃牛』との関係性について的を射たものだったのかもしれない。
石動戯作シリーズの方法
ここで少し脱線して、以前触れた「石動戯作シリーズの方法」について概観してみよう。
石動シリーズは、番外編である『樒/榁』を除けば次のとおり。
『美濃牛』……横溝正史
黒い仏』……ラブクラフト
鏡の中は日曜日』……綾辻行人
『キマイラの新しい城』……マイケル・ムアコック(とマイケル・イネス)
作品名の右に挙げたのは主な参照/引用作家。全て読まれた方にはお分かりだと思うが、シリーズ探偵・石動の助手であるアントニオは、愛読者の間ではかなり人気もあるようだけど、実際はかなり出番が少ない。『美濃牛』ではラストで登場するだけだし、『鏡の中は日曜日』にいたっては事務所から動かない(本当に助手なのだろうか)。
活躍するのは『黒い仏』と『キマイラの新しい城』しかない。二作に共通するのは、通常のリアリズムの範疇を超え、他人が書いた先行する虚構世界が作品内現実としてサンプリングされる点だろう。反面、横溝正史綾辻行人といったミステリ作家を基にする場合は、アントニオは事務所に引っ込んでいる。
ハサミ男』の回で「蝶番」というモチーフをとりあげた。アントニオは、ミステリ的な現実世界とSF/ファンタジー的な超現実世界を束ねる蝶番の役割を果たしている。『樒/榁』をのぞけば、アントニオは、活躍しない→する→しない→する、というふうに交互にスポットを当てられている。
発表作品を読む限り、もし石動シリーズが二十作とはいわないまでも十作でも続いていれば、ミステリを軸に、国内外の20世紀エンターテインメント小説史を自由に横断するような展開になっていたのではないか。そしてその場合、ミステリと別ジャンルを架橋する存在として重要だったのは「蝶番」としてのアントニオの役割だったのではないだろうか。
数が少ないからなんとでもいえそうだがーーしかし、そうした「石動戯作シリーズの方法」という未完のプログラムをもサンプリングすることで(必ずしも石動戯作殊能将之自身が登場する必要はないが)、新しい作者がこれから再び20世紀エンターテインメント小説史を敷衍する作品を創造する可能性も、未だ埋れたまま、残されているのではないかと私は思う。
ちょうど、クトゥルー神話エルリック・サーガに付け加える小説を、21世紀の作家がものしたように。少なくとも私は、いつかそんな人物が現れることもまた願って、細々と「再読」を継続しているのだけども。