立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

殊能将之を再読する/『黒い仏』(5)

殊能将之黒い仏』の趣向に触れていますので、未読の方はご注意ください】
黒い仏』はどのようにして書かれたのか
前回、新しい書き手に出てきて欲しい、ということを述べたので、『黒い仏』がどのようにして書かれたのかを私なりに推測してみたい。というのは、『黒い仏』の執筆時期について興味があるからだ。
本書までの作品の刊行時と舞台となる時期は次の通り(刊行年月――作中年月)。
ハサミ男』1999年8月――2003年11月
『美濃牛』2000年4月――1999年9月(プロローグとエピローグはおそらく2000年夏)
黒い仏』2001年1月――2000年10月
すぐにおわかりのように、刊行時と作中の時間が『黒い仏』はかなり近い。それも、野球の日本シリーズという実際の出来事を大きくとりこんでいるから、その近さはさらに異様な印象を与える。
奥付には2001年1月10日発行とある。つまり、21世紀初の講談社ノベルスの一冊として発表された。「本格ミステリ新時代の幕開け」という本書のコピーは、やはりそれでこそふさわしい。逆にいえば、数ヶ月でも遅れれば、そのオオゲサさが薄れてしまう。「TVチョップ!」(2000年7月)の『美濃牛』刊行記念インタビューにすでに『黒い仏』というタイトルが予告されているから、その時点でだいたいの構想はできていたのだろう。
旧公式サイトの「取材日記」によれば、作者は実際に2000年の9月9日に京都、10月12〜13日に福岡へ取材に出ている。そこで脱稿時期を推測すると、装幀やキャッチコピー、刊行案内などのためには、おそらくその前月、12月上旬には校了している必要があったのではないかと思う(年末年始の休みも考慮して)。そして脱稿から校了まで、校正・校閲を考えるとどう急いでも最低一カ月は必要だろう(「作者はひーひー言いながら苦心惨憺して執筆し、プリントアウト、初校、再校と最低でも3回は細かく読み直さなければならないから」と発言しているから〔memo2004年8月前半〕、初校、再校にもしっかりと目を通したはず)。すると11月上旬には完成形として脱稿している必要がある。……10月中旬に取材を行ない、11月上旬に書き上げる。原稿用紙にして400枚に満たないだろう短めの長篇だが、設定はこれだけ手が込んでいる。まさに「翼」をもっているかのような信じられないスピードだ。現在にたとえれば、ブラジルのワールド・カップを風俗としてとりこんだ小説を来月(2014年8月)頭に書き終えるようなものだ。
取材と刊行の時期は、事実として動かせない。不可解なのは、その間だ。秘密はどこにあるのか。私も執筆における作者のアリバイ・トリックを考えてみよう。もちろん、取材に無関係な部分はあるていど書き進めておいたのだろう。順番としては、まず、仏教クトゥルー神話をテーマとして探偵役を時間移動トリックでひっかけるアイディアが中核としてあったのではないか。続いて、その「秘宝」が大陸から日本に持ち運ばれる際に今の福岡へ流れ着いた……として、円載に着目する。基本的なプロットを作成した段階で、版元の編集者とスケジュールを調整する(これが先述の夏前か)。アンチ・ミステリ的な要素を含むので、「ミステリ新世紀の幕開け」「名探偵が世界を変える!」というようないかにもオオゲサなキャッチコピーで読者を騙したい。ただし、出だしはなるべく地味なものにする。「探偵役は連続殺人犯」「古今東西の引用に彩られた伝奇的舞台」というようなハデな装いは避ける。また、ラブクラフトの文章を漢文に翻訳する、ブッシュの「More Light」やリゲティの「グラン・マカーブル」を引用する、といったテクスト面での構築は、公式サイトの作品ページにあるようなかたちで行なわれたはず。さらに、地名や人名などに、それとわかるようなサインを仕込む。――このようにして、作中時間となる10月を待つ。
それにしても、なぜ10月なのだろう。取材日記にあるように、20世紀最後の13日の金曜日があるからか。日本シリーズよりは福岡という土地のほうが重要だったはずだが、アナロジーのひそかな連関を作中に仕掛けるのに長けた著者は、執筆とペナントレースの行方がシンクロしてゆくあたりから考えてもいたのだろうか。
いざ福岡へ向かうと、そこは予想以上の昂奮だ。「いやー、博多はえらいことになっているとは思ったが、ここまですごいとは思わなかった」。これをとりこまなければ、2000年10月の福岡を描いた小説としてウソになる。街を取材で駆けまわりながら、ちょうど一年ほど前の1999年9月15日、『美濃牛』作中の舞台を台風が直撃したことを小説家は思い起こしていただろう(「洞戸村の思い出」/「IN POCKET」2003年4月号参照)。「その背後では、人類の存亡を賭けた最後の闘いが始まろうとしていた」。この印象的な最後の一文が書かれたのがいつ頃かはわからないが、「闘い」という言葉は、やはり小説内では決着が着かないON対決の行方を想起させる(10月21日から28日まで行なわれ、結果は、四勝二敗で巨人が勝利した)。
しかし、探偵役の石動戯作は、日本シリーズには特に興味がない。アントニオも、妖魔と天台僧との闘いではどちらにも与しない。そして『黒い仏』の作者も、別に「本格ミステリ」とホラーとを対決させたいわけではなかっただろう。「最後の闘い」をよそに、彼らはその“あいだ”をすたすたと舞台から退場してゆく。
「ジャンルの病」
先日たまたま、「en-taxi」第9号(2005)の「草森紳一 雑文宇宙の発見者」という特集を読んでいたら、目黒考二の一文に目が留まった。目黒考二とはもちろん、北上次郎の別名義にして本名だ。目黒氏は「本の雑誌」を創刊する前、草森紳一『底のない舟』を手にした際の印象をつづるにあたって、その「あとがき」から草森の次の言葉を引用している。

「そのころ、私には、ジャンルの病があった。小説は小説、評論は評論であった。つまり作品主義であったわけで、そういう色眼鏡で見る私の魯迅観では、ものたりなさを覚えても当然であったのだが、いまにして、なぜ魯迅が、雑文を多産したのか、わかってきたのである。あの雑文群の総体こそが、魯迅の悲惨な栄光であったのである」

そして以下のように続ける。

内容はまったく忘れているのに、「底のない舟」を新宿紀伊國屋書店の新刊コーナーで手に取り、このあとがきを読んだときの身の震えはまだ覚えている。
そのころの私は、自分の書きたいものが何なのかわからなかった。自分の書くものは雑文でしかないと思いながら、その「雑文」に、草森紳一の言う「どこか、羞恥と衒いと居直りと謙遜と傲慢とが卑猥なまでにいりまじっていた」ころのことだ。そういうときにこのあとがきを読んだのである。続けて引く。
「ジャンルの病いの上に立って、文章をものしていたころ、どうしても知らずにジャンルからはずれてしまう自分に悩んだことがある。そのくせジャンルに留まりおえた時は、いつも自分に偽っているという不快感がのこるのであった。雑文と称するようになっても、ジャンル病の後遺症はあったと思うのだが、それがふっきれたのは、ここ四、五年のことだと言ってよい」
この草森紳一の「雑文宣言」は、雑文であることを悩む必要はない、と若い私に勇気を与えてくれたのだが、あとから考えれば、これが私の誤読であることは明らかだ。
というのは、「魯迅にとって、ジャンルに縛られない雑文のスタイルこそが、もっとも時代を迎え撃つことのできるものであったにちがいない」という一文を読み落としていたからだ。
もっとも時代を迎え撃つことのできるスタイルとして雑文を選択するのだという覚悟も思想も私にはなく、「あの雑文群の総体こそが、魯迅の悲惨な栄光であったのである」という語調の強さに惹かれたにすぎなかった、とも言えるような気がする。
しかしそれがたとえ私の誤読であったにしても、このあとがきで何かがふっきれたのは事実なのだ。椎名誠と『本の雑誌』を創刊する三年前のことである。(目黒考二「三十三年前の『底のない舟』」/「en-taxi」第9号)

ここでいう「ジャンル」とは、表現の型のことだろう。自己や時代や世界というのは不定形だから、ある一つの型に何もかもを対応させて盛り固めることはできない。その型から逸脱してしまうものをも表現するスタイルを草森は「雑文」と呼び、そして当時二十六歳だった目黒青年は、そのことに感銘を覚える。その感銘が、従来の書評誌という「型」から取りこぼれていたエンターテインメント小説を中心に紹介する「本の雑誌」創刊の原動力の一つとなったとも上記一文はにおわせる。
その感銘の印象は『底のない舟』から29年後、すでに中年となったかつての青年が発する「例えばこれ、ジャンルでいうと何なの?」という言葉に裏切られてしまっているかに見えるが、むしろ『黒い仏』発表の時が、それだけ「型」をめぐってせめぎあう不安な風潮にあったということだろうか、とも思える(大森・北上対談のわずか数カ月後にNY同時多発テロ事件が起こる)。