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襤褸は着ててもロックンロール

【記録シリーズ18】再びネタバレについて

ネタバレの忌避とそれに対する批判
「ネタバレ」をめぐる議論への違和感についてはこれまでもこのブログやTwitterなどで時々にぽつぽつ書いてきた。しかしなぜ自分がこれほど「ネタバレ」に引っかかるのか、今でもよくわからない。もちろん、もともとミステリが好きだったというのはあるのだろうけども、……。今回また少し整理してみたい。
昔から存在していた「ネタバレ」の是非についての議論が近年高まってきたのは、当然ながらインターネットの発達があるだろう。そのなかで「ネタバレ」に対する忌避のエスカレートと、それへの反発が起こってきた。私の感触ではこの反発はたいてい、長年のことエンターテインメントというよりも芸術的な文学に親しんできた人物のほうが(プロの作家も含め)多いように思う。
ひとくちに「ネタバレ」を受けるといっても、当たり前だけども様々なタイプがある。そして受け手がこうむるその度合いについては、勘のつき方や先行作品との接触の蓄積などかなり個人差による。「あらすじ紹介すらダメ」というようなのは明らかに過剰だろうが、そうした傾向に対するアンチとして先述の文学寄りの立場の人物が「真の名作とは、……」などと逆張りをする心境もわかる。しかし、にも関わらず私は、「ネタバレ」については根本的な違和感をぬぐえない。

ネタバレはどこで起こるか
「ネタバレ」の過剰な忌避がなぜよくないのかといえば、ジャンルの蓄積をめぐるディスコミュニケーションを招くからに他ならない。あれこれの作品について自由に話したい、しかしアノ重要作を自分もしくは相手が読んでいないために核心的な議論ができない、……そうした場面には何度も遭遇し、またそのおかげで読めていない文章も数多ある。ミステリに関してはそれは非常に顕著で、先達から後人へ伝えられてゆくなかで必然的に密室的にならざるをえない構造は未だ解決されていないし、頭を痛めている人物も多いのではないか(私がそうだった)。したがってそうした場合、核心を避けるか、合意のうえネタをバラすのが通例だ。
この時、いったい何が起こっているのか。「ネタバレ」の回避によって守られるのは、個人の鑑賞体験の尊重にほかならない。そして「ネタバレ」が発生しうるのは、「ネタ」を「すでに知っている人間」から「未だ知らない人間」との対話においてである。ここに不可逆性の問題が出てくる。一度、知った後では、知る前の状態には自分の力では戻れないのだ(長い時間をかけて忘れるということはできるがそれは自力だけでどうにかなるものではない)。
ほぼ全ての人間は、自分がいつ死ぬのかわからない状態で日々過ごしている。フィクションでよくあるように、もし自分の死期を本当に悟ることができたなら、未来から現在を覗くその視線は必ずや、現在の行動を変えずにおかないだろう。「前」と「後」のあいだにはそうした不可逆な「変質」がある。難しいのは、それによって個人の鑑賞に大きな影響を与える作品とそうでない作品があり、一律的に「ここからはネタバレ領域」と決められないことだ。なぜなら、「ネタバレ」とはあるストーリーについて「知った後」の「語り手」と「知る前」の「聞き手」のコミュニケーションにおける問題で、その組み合わせは無尽蔵にあるからだ。そうした回路において、「知った後」の語り手の言葉は、「知る前」の聞き手を自分のいる「知った後」の領域に引きずりこもうとする性質を本質的に持っている。そんななかで人それぞれの勘どころや話術が要請されるわけだ(もちろんこれまでにいくつかの解決方法が開発されてきたのはご存知の通りだ)。
繰り返せば、「ネタバレ」とは、立ち場の異なる語り手と聞き手の間のコミュニケーションにおける問題である。

「ネタ」は何を指すか
ここまで、「ネタバレ」という時の「ネタ」とはいったいなんなのかを曖昧にしたまま話を進めてきたので、いったん立ち止まり、いま私が書き進めているこの文章において想定している対象について書いておこう。
「ネタバレ」でいうところの「ネタ」とは通常、ある作品における線的な物語上の展開を指しているだろう。したがって、線的な「物語」を持たない音楽や絵画といった作品では原則的に、「ネタバレ」は起こらない。
○○という人物の正体はこうだった、最終的に××という状況を迎えた、……云々。物語上の「謎」によって読者の興味を牽引するこうした「ネタ」こそが、「ネタバレ」については想定されているはずである。一方、文学の歴史においては、作品の肝を一言でいい尽くすことなどありえない、という「名作」が数多存在する。むしろ、多様な読み方を許容する作品こそが、「名作」であるといいうる。『失われた時を求めて』や『カラマーゾフの兄弟』といった長大な作品のどこをどうすれば「ネタバレ」できるのか。極端にいえば、すでに古典として研究され、言及され、逆になんらかの「ネタ」をさんざん知ったあとで手に取る読者が多いような作品に対しては、「ネタバレ」という概念は意味を持ちえない。
一方、「ネタ」が重要な役割を果たす作品も確実に存在する。ミステリというジャンルにおいては、とりわけ「新本格」以降隆盛をみせた叙述トリックを用いた作品に関しては、「ネタバレ」は死活問題である。
そこでいう「ネタ」とは何か。たとえば叙述トリックを用いた作品に関しては、読者の「認識」の転換こそが作品の肝となる。男だと思っていた人物が女だった。日本だと思っていた場所が外国だった。魔術だと思っていた事象がトリックだった。そうした「仕掛け」=「認識の転換」に作者が苦心しているのがミステリというジャンルではないか。『失われた時を求めて』のような長大な作品と叙述トリックを用いた作品を並べてみれば、同じ「小説」とはいえ、全く異なる性質を持っていることは疑えない。つまり「ネタバレ」が問題になる分野とならない分野とがあり、問題になる分野とは、前述のような「認識の転換」に作者が肝を置いている作品のはずである。
もちろん批評的には、「認識」の転換をもたらす手口も客観的な対象として論じられるべきだ。叙述トリックだろうとなんだろうと、くだらない作品はくだらない。しかし、ある作品を鑑賞することと論じることとは、全く別の行為だ。「ネタバレ」が問題になる作品においては、そうした「認識の転換」という時間の通過=「驚き」を読者に経験させることを、作者は作品の主眼に置いているはずだ。
以上のように考えれば、「ネタバレ」とは、「認識の転換」という個人的な体験の損失である。

「驚き」はどこで起こるか
「認識の転換」の一つに「驚き」がある。「驚く」ことは同時に、何かに「驚かされる」ということでもあって、それは自分一人の意思でできることではない。自身の意識の外部にある何かに向き合った時、意識の内部で「驚き」は引き起こされる。他方、「驚く」ためには、意識のほうでもそれにふさわしい下地が必要になる。たとえば、最初の一行で犯人の名前が明かされるミステリ小説があったとして、それは読み手にはいきなりすぎて(むしろ、いったい誰だ?という困惑が湧くだろう)、「犯人の名指し」という大抵の場合「驚き」に結びつきうる作業が、結びつかない。同様に、まだ鑑賞していない作品について「ネタ」だけを明かされても、「驚き」には結びつきづらい。
既知だったはずのものが、未知のものとしてやってくる。自分の意識の内部に既知Aとして認識されていたものが、その外部から未知Bとしてやってくる、その時に「驚き」が起こる。とすれば、「驚く」ためには、まず意識の内部に既知Aが準備されていなければならない。
既知Aから未知Bへの変化には、変化へいたるプロセスという時間の要素が含まれている。最も単純な「ネタバレ」のモデルを想定すれば、意識がこの時間的プロセスに着く前に未知が既知へと回収されてしまい、(鑑賞前)既知→(鑑賞後)既知となり、「驚き」が発生しない、というパターンが考えられる。

「驚き」と時間
ある「物語」を通過するためには時間が必要になる。認識の変化はその時間の過程で起こるが、そうした変化はもちろん「驚き」だけとは限らない。焦燥なり戦慄なり恐怖なり郷愁なり幸福感なり嫉妬なり憧憬なり興奮なり感動なり何なり、そうした変化=反応は時間の通過から生まれる。「(鑑賞前)既知→(鑑賞後)既知」という、通過を経たにも関わらずの変わらなさは、「なんの感銘も生じなかった」ということになる。
「ネタバレ」忌避とそれに対する批判は、実は、ここのところで同じ考え方を共有しているのでないだろうか。「ネタ」それ自体は、客観的な情報にすぎない。つまり静的な状態にある。しかし主観的な意識の内側で起こる「反応」は、時間の経過のなかで、動的な状態で起こる。

動的な状態について
「ネタバレ」を避ける人間は、ある作品の価値が「ネタ」=静的な情報にのみあると考えているわけではない。むしろ、いかにして静的な情報を、動的な状態のなかで最大限活用し、「反応」を引き出しうるかに心を配っているはずである。そして「ネタバレ」を避けるとは、前半で述べた既知→未知という不可逆な認識の転回を肝に持つ作品があり、そのプロセスで起こるはずの「反応」をなるべく損ないたくないと望んでいるのだと思う。
ひるがえって、「ネタバレ」忌避を批判する人間の頭にあるのは、「ネタ」という静的な情報よりも作品を鑑賞するという時間の通過=動的な状態でこそ意識の「反応」が起こるーー鑑賞の価値があるということのはずである。
主観的な時間の通過=動的な状態でこそ意識の「反応」が起こるということに価値を置くという意味では、両者は同じ価値観を共有しているのではないか。

再読ということ

まことに奇妙なことだが、ひとは書物を読むことはできない、ただ再読することができるだけだ。良き読者、一流の読者、積極的で創造的な読者は再読者なのである。(……)
ただ熱狂的な芸術家であるだけでは、ややもすると作品にたいする態度が主観的にすぎることになるし、科学的な冷静な判断がかちすぎれば、直感的な熱も冷えてしまうだろう。とはいっても、自称読者に情熱と忍耐がーー芸術家の情熱と科学者の忍耐がーー完全に欠けていれば、そういう読者が偉大な文学を享受することは、まず不可能であるだろう。(ウラジーミル・ナボコフ「良き読者と良き作家」『ヨーロッパ文学講義』野島英勝訳、TBSブリタニカ、1992)

時計の針は逆転し、ここに完全な円環を描き終るのである。しかも一筋の道は往く時に眺めた家並と全く同じものだと知っていながら、還る時にはその同じものがいずれも初めて見るがごとくに新鮮に見える、どれもこれも「知ってはいても知らない」のだ。(福田恆存「解題」『オイディプス王アンティゴネ新潮文庫、1984)

「再読」についてのナボコフの上記の考え方は非常に有名である。そこでは主観的な読解と客観的な読解とが、共に必要であるとされている。作品が高度に複雑化すればするほど、その全体は把握しづらくなる。ゆえに読者は対象を繰り返し眺めることで、見落としていた事柄の客観的な理解=静的な情報化に努める。
しかし、人間の生涯が一度きりのものでしかないように、読者は同時に動的な状態=時間の通過を経ることも求められている。ここには分裂がある。この分裂を同時に生きることをナボコフは「読者」に求めている。
一方、たいていのミステリ作品には、作品の構造上、「再読」がすでに組み込まれている。「解決編」で「探偵役」が、事件の要所をプレイバックする。その展開にすでに、事件という時間の再生が含まれている。つまり「ミステリ」というジャンルはその構造上、福田恆存が述べているような既知の未知化=「知ってはいても知らな」かったという「認識の転換」をあらかじめ含んでいるのだ。そして、だからこそ作品を鑑賞する時間の外部での、未知の既知化=「ネタバレ」が避けられるのではないか。

ネタバレにどう向き合うか
三年前に「ネタバレについて」http://d.hatena.ne.jp/kkkbest/20110821/1313945921というエントリをアップしたことがあるが、今回書いたのは、それを補完するためにその後考えたようなことである。
「ネタバレ」が問題になる時、「ネタ」という静的な情報と、作品の鑑賞という動的な状態とが意識されているはずである。そして、何事も実際に接してみなければわからないーー静的な情報よりも動的な経験=主観的な時間の通過こそが作品の「鑑賞」において重要であるということは、多くの人に共有されうる価値観だと思う。
「ネタバレ」が重要か否かは、作品によっても異なるし、また「語り手」ー「聞き手」という関係性によっても異なる。だからこそ、極端にブレることなく、また一律に立場を決めることなく、そのつどの方法が模索されるべきなのではないかと、私は思う。