立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

『Before mercy snow 田波正原稿集』を読む

 
去年のうちに入手していたものの、レビューされている作品になじみが薄い(主にSF)ことからチビチビと読んでは残していた『Before mercy snow 田波正原稿集』(名古屋大学SF研究会、2013)を、ようやく頭から一気に通読した。収録原稿は名大SF研の機関誌に1984〜87年頃(つまり著者20〜23歳頃)に発表されたものが母体だが、この時期の著者が抱いていたのだろうフィクション観や原理は、一冊を通してほぼ一貫しているように感じた。
のちに公開されるサイトの記述などでは、なかなかうかがい知れなかった、同時代の作品を通じてそれを模索する様子はやはり貴重だと思った。
以下、個人的に興味深かった箇所を少しだけご紹介し、思い浮かんだことをまとめてみたい。(以下、『BMS』と記述)

 
この本の中で、著者はさまざまなレビューや評論を通して〈SFとは何か?〉〈なぜSFを書く/読むのか?〉という原理的な問いを続ける。そしてしだいに、外部/内部、非日常/日常、他者/私、無意味/意味、虚構/夢/現実などといった共通のキーワードが浮かんでくるが、私がもっとも面白く思ったのは、〈超越=救済〉をめぐるディック『ヴァリス』論の次の一節。

たったひとつの言葉が気にかかる。本は『暗闇のスキャナー』、「作者のノート」。
「なにかべつの遊び方でかれらみんなをふたたび遊ばせ、楽しい思いを味わわせてあげたい」。
これを読んで、ああ、ディック自身は遊ばないんだな、と、ふと思った。「かれらみんなとふたたび遊び」ではないのだ。「遊ぶ」のではなく、「遊ばせる」こと。おそらく傷つきやすい、エゴイスティックな、ナルシスティックな魂がここに見られる。ディックは「遊ばせる」者、つまり神を希求した。いや、神になろうとした。
しかし旧約の神だけが神ではたい。神とはむしろ「遊ぶ」者ではなかろうか。(「ヴァリス狩り」)

ふつう、ディックはバラードなどと比較すると、「自身も遊ぶ」作家だと思われているのではないだろうか。大雑把に区別すれば、遊ぶ=主観的な作家/遊ばせる=客観的な作家、となるか。いや、それまでディックに「自身も遊ぶ」作家としての要素を大いに感じていたからこそ、ここではとりわけ「遊ばせ」るというちょっとした言葉が違和感としてクローズアップされているのだろう。上記のキーワードを絡めて整理すれば、次のような原理になるだろうか。――小説とは何か?作者と読者が登場人物たちと共に遊ぶ場である、そうした時間を通過することで作者と読者は非日常=外部=一瞬の〈超越=救済〉へと到る、だから我々は小説を読み続けるのであるし、離れたところから他人を「遊ばせる」作家よりも自分も「遊ぶ」ことで他者を招き入れる作家のほうが〈超越=救済〉に近いといえるのだ、云々。
ところが、1999年にデビューして以来、作家はどちらかといえば「遊ばせる」イメージ、客観的で皮肉的な(そしてしばしば意地の悪い)イメージのほうを持たれてきたのではないか。『美濃牛』ラストの石動戯作のセリフ――。

「人間にとって大事なことは、ふたつだけなんですよ(……)〈考えること〉と〈愛すること〉です。このふたつだけです。そのほかのことは、どうでもいい。ぼくはもっぱら、考えるほう専門だけど」

つまり、「考える」ことで登場人物や読者を「遊ばせる」ほうだというイメージ。しかし、ここのところ作品を再読して思うのは、「遊ばせる」と見せつつ実は「遊んでいた」のではないかということである。早い時期に「自分は遊ばない」という作家のスタンスに批判的に言及している以上、後年、小説の実作にあたってそれを意識しなかったとは考え難い。何より、この『ヴァリス』論では、〈救済〉への道を「踊ること」として、ディックの諸タイトルをもじった戯れ歌まで実作し、作者=ディックと「踊る」=「遊ぶ」試みを実践しているのだから。
この〈超越=救済〉および「遊ぶ」という原理について、もう少し詳しく見てみよう。

 
新井素子あなたにここにいて欲しい』レビューの冒頭では、バタイユの言葉が引用されている。

(……)それはなにものをも解決しない。ただ、堂々と、幸せに、最後まで分裂に身を委ねたい欲求にたいして、私たちが授ける声である。だが文学は、ほとんどの場合、脱走をくわだて、みじめな逃げ道を案出することにかかっている。軽薄である権利を文学に出し惜しんでみたところでなんになろう?(「エロティシズムに関する逆説」)

そして新井素子あたしの中の……』の一編「大きな壁の中と外」について、

私が戦慄に近い感動をうけたのは「大きな壁の中と外」の一シーンだった。死体のリサイクルという形での人肉嗜食について説明し、そのヒトタンパクを決して食べない菜食主義者という仇名の登場人物について触れた後、ヒロインであるプシキャットはヒトタンパク製の鶏のカラアゲを一口かじってこう言う――「やっぱり共食いしてるって気分にはなれない」このシーンこそ、私がかつて偏愛した新井素子のエッセンスである。

と紹介したうえ、そののちの新井作品を、作品内に「現実の道徳・禁忌・価値判断」を持ち込んで変質した、として批判している。
ところで、デビュー作『ハサミ男』では刊行当時(1999年)のヒットフレーズ「なぜ人を殺してはいけないのか?」を作品外の「現実」から輸入したうえで、それに対し殺人者の「わたし」にこう言わせている。

「殺したければ殺せばいい。いろんな男と寝たければ寝ればいい。家族と話したくなければ話さなければいいし、義理の姉とセックスしたければすればいい。単純なことだ。何かをしたいけれどできない、何かを実行したいけれど許されない、と言って苦しんだり、悩んだり、あるいは逆にひそかに楽しんだりするのは、愚か者のすることだ。やりたいことをやればいいんだよ。自分の責任においてね」

これは、単に反倫理的なことを登場人物に発言させて良しとしているのではない。当然ながら、現実に殺人を肯定しているわけでもない。フィクションの論理それ自体を擁護しているのだ。なぜ「現実の道徳」を作品内に持ち込むことが批判されたかといえば、われわれのいるこの現実=作品外から「道徳」という別の論理を持ち込み、作品内の論理を捻じ曲げているという判断があったからだろう。映画『19〜ナインティーン〜』(山下賢章監督)レビューにても「やはり核はいけない。ノーモア・ヒロシマですね。日本人として生まれたからには、核廃絶はみんなの願い。もちろん、青山で核爆発など起こされては困る。きっとワンレングスのおしゃれなネエちゃんが大勢死ぬという大惨事を引き起こすであろう」という揶揄があるが、それは「道徳」や核廃絶といった現実的な、政治的なテーマをフィクションに持ち込むなと批判しているのではない。そうではなく、作品外の論理によって作品内の論理を捻じ曲げるな、と批判しているのだ。バタイユの引用によって意味しているのはそのことだ。ゆえに、上記の「わたし」のセリフは、『あなたにここにいて欲しい』を批判した十年以上前の自身に対する実践的応答だと読むことができる。
そう考えれば、「ハイウェイ惑星はいかに改造されるか?」において、パズラーとハードSFという一見無関係なジャンルどうしに「論理性」という共通項が見出されている背景が見えてくる。つまり、サプライズセンス・オブ・ワンダーも、作品内における「フィクションの論理」を貫徹していった先に生じてくるものであり、ひいてはそうした「フィクションの論理」を擁護することこそが、〈超越=救済=……〉に近づくことである、小説を書く/読む意味もそこにあるはずだという原理である。そこでは、作品外の道徳に尻尾をふるよりも、どれほどバカげていようと、虚構の論理を徹底して遊び尽くす行為こそが倫理的なのだ(後年、TVのバラエティ番組へ向けられた時に辛辣な視線も、ここから来るのだと思う)。

 
同時期に書かれたイアン・ワトスン『マーシャン・インカ』論「沈黙のための饒舌」(「科学魔界」45号、1984年7月。『BMS』には未収録)も、そうした「超越」について書かれている。「ワトスンは超越という概念に憑かれた作家だと思う」と述べられるこの作品論は現在の眼では、ワトスンを語って自身を語っているかと思われるほど予言的で、おそらくこの時期の著者にとって「超越」は一つの重要なモチーフだったのだろう。
「ハイウェイ惑星」にせよ「沈黙のための饒舌」にせよ、そうした「論理」によって今後を予言してしまう点は恐るべきだが、しかし逆説的に、論理によってだけでは〈超越=救済〉に到達できないことの無力感もまた、明白に語られている。そのためには、「遊ぶ」=他者の到来が必要だ。本書中では最も長い分量を持つ大原まり子論が未完のままに終わったのは、読者としての論理的な批評によってだけでは、大原まり子=作者との「遊ぶ」=〈超越=救済〉をじゅうぶんに示しきれなかったからではないか?
ところが、そんな〈超越=救済〉でさえも、一瞬のものでしかない。カヴァン『氷』評で、ふたたびバタイユ

たとえばバタイユの手つきはダイナミックだ。それは性交の激しさに似ている。侵犯の熱い一瞬に救済があり、その救済はすぐに消え去って、ふたたび侵犯が行われる。無限の反復。だから、『眼球譚』は永遠に完結しない。

かくして、われわれは一瞬の〈超越=救済〉という非日常と日常のあいだを無限に往還運動する。
言葉=論理によってフィクションの論理を貫徹し、他者と遊ぶこと。そうして作品という場に一瞬の〈超越=救済〉を招き寄せること。そのような刹那性を肯定する一方、しかし、SF(に限らないが)にできるのはそれだけのことだという不完全さに対する苛立ちのような感情もまた、『BMS』には漂っている。多かれ少なかれ、若い時分に経験するこの「不可能」への苛立ちをわれわれのほとんどは、別の何かに向けることでまぎらすのかもしれない(たとえば、「なにしろ仕事の忙しさには勝てんわ」などと言って?)。
そして問題は残った。この躓きをどう乗り越えるかが、おそらくは『BMS』以降の課題として潜在し続けたのではないか?

 
SFは、〈超越〉そのものを具体物として作品内に作り出すことができる(神、外宇宙、未来社会、復活、救済……等など)。それがSFの力である。この認識は、四半世紀後のベイリー追悼文「ベイリー・ドゥルーズ山田正紀」(「SFマガジン」2009年5月号)でも述べられている。つまり、暴力的なまでの直接性こそが、SFの力の源泉だと。
しかしそうした〈超越〉を直接的に描写することは、作品外のわれわれ(作者/読者)に作品という場を通じて〈超越〉がやって来るかどうかとは、実は必ずしも関係ない。神や異世界といった、いかにも〈超越〉な存在を出さずとも良い。極端にいえば、〈超越〉への通路は、この世のあらゆる場所に開かれているのだから。
のちの「ミステリ日記 第三回」(「TORANU TあNUKI」58号、1995年7月)では、『BMS』にしばしば見られた〈○○とは何か?〉を読み手へ問い詰める性急さがやわらぎ、ウェブサイト「Mercy Snow」で馴染み深い寛容的な、多様性をこそ擁護するトーンが、よりいっそう強まっている。

某氏が絶賛していた某国内作品はまったくおもしろくなかったから、たぶんぼくは「偽物の本格ファン」なのだろう。それでいいじゃん、と思うのである。
 なんでもそうだと思うのだが、愛が高ずるとひたすら純粋化の道を走ってしまって、活力が失われる。いろいろな作品があって、いろいろな考え方の人がいるから、世の中はおもしろいのである。国書刊行会の〈世界探偵小説全集〉しか読むものがないのでは、これはやはり困る。ぼくは宮部みゆきも読みたいし、マイクル・Z・リューインも読みたいのです。
 サイコ・スリラーもOK、メタ・ミステリーもOK、ミステリの評論が数多く出るのはラッキー、じゃありませんか?

ここに「どうすればSFはすばらしくなりうるのか。(……)考えなければならない。今すぐに。さあ」(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』評)という切迫感はない。
それでは、小説の実作者となるにあたって、〈超越〉という不可能な問題との再対決はいかに行なわれたのだろうか?
たとえば、『ハサミ男』の「わたし」による殺人/自殺(未遂)という往復運動は、読み/書くわれわれ――一瞬の〈超越=救済〉を求め続けるわれわれ自身のメタファーとも読めそうだが(そう考えるとどうも、重くダルーい気分になってくるが)、しかし、死とは誰にとっても不可避かつもっとも身近な〈超越=救済〉だろう。そこでは言葉=論理はいらない。語りえないし、語る必要もない。それが論理の敗北であるのかどうかは私にはまだよくわからない。1985年の時点ですでに作者はこうも書いていた。

夢を捨てること、あるいは夢を思い出し、ふたたび夢を生きようとすることは、センチメンタル身ぶりだけでは成り立たない。現実の世界を信じきった者は、「いつまでも夢をみちゃいられないさ」と肩をすくめて、センチメンタルに夢をすてる。現実の世界を信じていない者は、やすやすと夢に安住する。
夢と現実のはざまに生きる者だけが、真摯に夢を、現実を生きようとするのだ。(「空耳通信1 押井守あるいは半分は予感でしかない通信」)

虚構という夢のなかで遊ぶには体力がいる。遊び、遊び疲れ、遊び続ける体力すらも残っていなくて、苦痛な、凡庸な、なんの変哲もない日常の時間に立ち戻るわれわれのすがた。しかしそんな姿をも夢見られることで別の何かに変わる光景を、われわれは彼の文章に読んではいなかったか。だとすれば、……云々。

そんなようなことが『BMS』を通読して浮かんだ。

というわけで、まだ入手できるみたいですよ!
http://d.hatena.ne.jp/MSF/touch/20140907/p1