立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

浦賀和宏『姫君よ、殺戮の海を渡れ』を読んだ

浦賀和宏『姫君よ、殺戮の海を渡れ』(幻冬社文庫)を読んだ。このところ同文庫で続いていたフリーライターのシリーズとは別物で、いちおう単独作になるのだろうけど、安藤シリーズを先に読んでおくとより楽しめる。ふつうの意味で「大傑作!」とはいいがたい独特の感触がありつつ、浦賀和宏にしか書けない作品であることは間違いない。1000枚以上ある大作とはいえ、若い男性の一人称による語りが最後まで続くので、わりあい早く読める。人によっては三時間くらいで読めるのではないか。
すでに多くの感想がネット上にアップされているように、この本は、群馬を舞台にしたイルカ騒動をめぐる前半三分の二と、その後の数年間の経過を描く後半三分の一に分かれている。400ページを過ぎても具体的な事件(たとえばタイトルにある「殺戮」)は何も起こらないから、読みながらだんだん不思議な気分がしてくる。そして終盤にいたって、ナルホドこれは「青春」「恋愛」ミステリという看板に偽りはないなと感じるのだけど、前半はこのジャンル、後半はこのジャンル、とそう簡単に当てはめられるようなものではない。
以下は少し内容に立ち入った話(未読の方はご注意ください)。
本書では、今―過去、自分の意思―他人の意思といった対立が描かれるが、基本的には今・自分の意思こそが核心となっている。主人公の三枝敦士は前半部分では高校生で、妹思いだが直情径行のため周囲とよく対立し、後先を考えない行動には読者もイライラさせられる(このイライラ感は著者得意の手法である)。
ここで試みに、浦賀和宏の作品を大雑把に二つの形式に分けてみたい。登場人物が多く複数の視点やテクストが入り乱れるものと、一人の視点で最初から最後までほぼ押し通されるものと。私の好みは前者(『頭蓋骨の中の楽園』『萩原重化学工業連続殺人事件』など)だけど、本書や前述の桑原銀次郎シリーズ(の二作)は後者にあたるか。
冒頭、すでに三枝は海中で死にかかっている状態にあると述べられる。つまり以後の展開は、彼が走馬灯のようにいっぺんに思い返したことだ。主人公は群馬で怪しい出来事にであうたび、「罠かもしれない」と自分たち以外の何もかもを疑う。その懐疑にはかぎりがないので、もしそうした妄想じみた考えが本当に陰謀だとすれば、壮大な仕掛けということになる。バートランド・ラッセルに「世界五分前仮説」という思考実験があるが、ちょうどそういう感じで、主人公は「今・ここ」しか信じない。それ以外の世界がすべて「操り」の徴候に満ちて見える。われわれはそんな彼の言動にいちいち苛立つ。なぜなら、われわれはふだん、あまりに大掛かりな陰謀論は経験的に「ありえない」と退けているから。幼いころなら、誰もがこんなことを疑う。自分の父親と母親は本当の両親ではないのではないか……実は自分は映画『トゥルーマン・ショー』のように24時間監視されているのではないか……目の前にある世界はニセモノではないのか。フィリップ・K・ディック的なそうした世界のニセモノ性への問いは、ラッセルが指摘するように論理的には反駁出来ない。読者がふだん安心していられるのは、「そんなことしてなんの意味があるの」という「常識」、子供から大人へと到るにつれて培われた判断にすぎない。
そして……本書の外へ目を向ければ、過去の浦賀作品でそうした計画が本当のものだったという展開、日常の化けの皮が剥がれる瞬間は、何度もくりかえし書かれてきた。作者が青春期の人物にこだわり続ける理由は、そういうところ(世界のニセモノ性への問い)にあるのではないか。安藤シリーズでそれを担保するのが(陰謀論を下支えするセーフティーネットとなるのが)、萩原重化学工業という装置なのだろう。
時間がほぼ均等なペースで隙間なく進む前半部を「今・ここ」という点(それは青春期のことでもあり、東京に憧れるユカ、ラプンツェルのいる塔のことでもある)だとすれば、歳月が伸縮する後半部はその点の外部(後先を考え世界を信頼できる大人になったということ)にある。理奈の拒絶とユカの事故という過去の傷により、敦士は変化した。ところが、その外部が他人の意志により操られたものだったということが判明する。世界への信頼が崩れた時、再び「今・ここ」でどのように臨機応変に対応(アクション)できるかという状況にとつぜん放り込まれる。ニセの外部(陰謀論)のさらに外、始原であり終焉もである海へと、自分の意志で彼らは向かう。
……というふうに強引に整理しようと思えばできるのかもしれないが、それだけでは収まらない力業の感触がやはり、浦賀作品にはあるのだ。本書は以前、「あと一作で終わり」http://sea.ap.teacup.com/kaiyu/563.htmlとされた「萩原重化学工業シリーズ」ではないようだが、世界のニセモノ性への問いに終わりなどあるのだろうかという気が、読み終わって今、とつぜん湧いてきている。