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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

殊能将之を再読する/『鏡の中は日曜日』(1)

ミステリ 殊能将之

殊能将之鏡の中は日曜日』の趣向に触れていますので、未読の方はご注意ください】
鏡の中は日曜日』については、三年前の夏にも再読した。その少し前から、自分の中では「詩と散文」への関心が大きくなっていたから、だいたいそれに引きつけて読んだような感じだが、関心は今でも途切れていないから、前のものに付け加えるかたちで書いてみたいと思う。
この本は『ハサミ男』と並んで、今でも紙媒体で書店に置かれている。没後の去年あたり、平積みされている光景もよく見た。一般的には『ハサミ男』に次ぐ代表作といえるだろう。大雑把に考えれば、そのように読者が広がったのは、作品の中心に叙述トリックを用いたからではないかという推測はできる。ただし、道具立てのほうは、こちらがよりミステリ的にマニアックである。作品のできばえとして、こちらに軍配を上げる読者もいる。
叙述トリックというのはそう安易に(自覚的な作者であればあるほど)使用できるものではない。たとえば『ハサミ男』なら、そのトリックが判明した瞬間、世間を容赦なく切り取る語り手が決して視線を向けない自身の無意識を逆照射する役割を持っている。さらにいえば、『ハサミ男』のみが、そしてそのトリックのみが突出して語られている状況というのは、「かわいそうな美人」と書いておけばそのかわいそうな美人を世間は甘くチヤホヤと迎えてくれるという作中の皮肉を、この作品外の現実が裏づけているとも考えられる(その意味ではしたたかな小説だからまだまだ読まれ続けると思う)。
では『鏡の中は日曜日』の場合はどうだろう? それをこれから書き出してみよう。
これまで何度か、巽昌章が『黒い仏』を評した際の「すれ違い」という言葉をとりあげてきた。『キマイラの新しい城』に到るまで、作中の人間関係には「すれ違い」が溢れている。誰もお互いのことを分かり合っていない。安永と磯部の……天瀬と窓音の……石動とアントニオの……水城と鮎井の……ショウタとトモヤの……稲妻卿とその妻の……などと数えてくると、そうしたディスコミュニケーションが作品の中核にあるように感じる。ところが、これらの登場人物の中で一組だけ、すれ違っていない二人がいる。水城と誠伸がそれである。誠伸は死の間際の意識にあっても、その他の誰を別人と誤認しようとも、水城だけは水城本人そのままとして認識している。これは殊能将之の作品にあっては異例のことではないだろうか。
他方、『鏡の中は日曜日』は、作品群の中で、もっとも入り組んだ構成を持っている。つまり、この異例の結びつきを書くに際して、作者はこれだけの複雑なテクストと技法を要したということではないか。そして叙述トリックとは、その一環ではないか。
ある二人の人間が向かい合い、お互いを過不足なく捉えてズレていない。そんな関係は小説の中どころか、外の現実にもめったにない。そのように読んでくれば、この小説が語っているのは、二人の関係をめぐるラヴ・ストーリイである。(続く)