立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

殊能将之を再読する/「鏡の中は日曜日」(3)

殊能将之鏡の中は日曜日』の趣向に触れていますので、未読の方はご注意ください】
作品がリレーするもの
私は前回、「『鏡の中は日曜日』は本格なのか否か」という疑問を書きだしたまま、言いっぱなしにしてしまった。三年前http://d.hatena.ne.jp/kkkbest/20110716/1310828196はそのあたり、どう考えていたのだろうと読み返したら、「批評性はあるが論理性は」云々、といっている。手がかりを元に真相を論理的に推理するゲーム性が、小説の中心にあるかといえば、そうではないと思う。むしろその周辺のことが積極的に扱われている。それはいったいなぜだろう。
新本格ミステリ15周年記念作品」という言葉はどういう意味だろう。たとえば綾辻行人十角館の殺人』を読むと、海外の推理作家の名前がたくさん登場する。つまり、推理小説というものが存在することが作中世界の前提になっている。それ自体、一種のパロディである。ある意味では当たり前のことだが、しかし虚構の世界ということを考えれば、話は少し違ってくる。推理小説の登場人物が、よく、「こんな事件はまるで推理小説のようだ、しかし、これは現実で推理小説ではないのだから、……」などという。こんな言葉を洩らすのは推理小説の登場人物以外の者ではありえないのだから、読者は、ごっこ遊びに付き合っているようで、食傷してしまう。しかし、なぜ彼らはこの紋切り型を洩らさずにはいられないのだろう。
再び『十角館の殺人』を念頭に置いてみる。推理小説を読む人間(この場合は大学のミステリ研究会の会員)が、推理小説を読む人間がまるで推理小説のように殺したり殺されたりする推理小説を書く人間になる、ということには、その図式だけを取り出せば、何かフシギな虚実の裏返りのようなものを感じる。推理小説を読むと、現実に殺人を犯すより、現実に推理小説を書く人間を増やす可能性が高いことには違いない。これは、「これは推理小説ではない」というあの否定の呪文にもどこかで通じるのではないか。
言葉の定義をアイマイにしたまま話を進めることをどうかお許しいただきたいが、『鏡の中は日曜日』は、作者の言葉によれば「新本格」のパロディなのだろう。そして新本格というのも元々は、本格のパロディなのだろう。本格もまた何かのパロディであろう。小説というもの自体がパロディなのだろう。パロディというものが独立して一人の作者が誕生するには批評が必要なのだろう。批評という現実が虚構へと裏返るには、何らかの力が必要なのだろう。その力とはなんだろう。
これまで『美濃牛』『黒い仏』と続けて出てきた石動戯作という探偵役の人物が、なぜ探偵となったのかが、この小説において初めて明かされる。彼は鮎井郁介という作者の推理小説を読んだ。そしてそこに登場する「水城優臣」というシリーズ探偵に憧れた。推理小説を読んだ彼は、自分で推理小説を書くのではなく、まるで推理小説に出てくるような探偵の一人となった。やがて、誰かが彼に本当のことを告げる。「あれは推理小説ではない」。作者の鮎井郁介本人ですら、わざわざやってきて彼にいう。「あれは推理小説ではない」。この否定の呪文を契機として、「水城優臣」という人物の虚実が、石動の前で裏返る。いうなれば、彼にとって「虚構」が「現実」になると同時に、読者にとって彼の「現実」は「虚構」化される。
同化すると同時に距離を置くことで独立した新しい何ものかになる、というこの虚実の裏返りの原理を、『鏡の中は日曜日』という小説は、いわゆる「新本格」から持ち込んだのではないかしら。そして、昔らしい事件を真ん中に置き、当世ふうのショックをその周囲に配置し、作者とほぼ同年輩の探偵役にその物語を通過させることで、拡散しつつあった「新本格」の何かをその後にリレーしようとしたのではないかしら。
以前(『美濃牛』の回)にも紹介したものだけど、再び。「メフィスト」(2012年4月)の特集「My Precious 講談社ノベルス」に書かれたエッセイ「初めて衝撃を受けた講談社ノベルス――『十角館の殺人綾辻行人著」で、作者は次のように書いている。

すべてはここから始まった、といっていいだろう。
一九八七年といえば、わたしは二十三歳。いまでもそうだが、ぬるい本格ミステリファンだったわたしは、笠井潔島田荘司を愛読してはいたものの、ジャンルとしての本格ミステリが復活するなどとは夢にも思っていなかった。このふたりは当時珍しく本格味の横溢した作品を書いてくれる貴重な存在だったのだ。
そこに登場したのが本書だ。
(……)とにかく驚いたのは作者の若さ(二十六歳)だった。いまでは信じられないかもしれないけれど、「若者が本格ミステリを書いていいんだ!」という衝撃があった。
さっそく購入して読了したところ、正直いって、不満もあった。わたしも若かったし、作者と年齢が近かった分、嫉妬の気持ちも大いにあったのだ。来るべき時代の胎動を感じた、と予言者を気取りたいところだが、それも感じず、この作者も一種の突然変異なのであろう、と思っていた。
大きな変化を感じとったのは、法月綸太郎我孫子武丸らがあとにつづき、〈新本格ミステリ〉というジャンルが形成されはじめたときだった。(……)
いまや〈新本格ミステリ〉という嵐のようなムーブメントは、終わりを告げたといっていいだろう。しかし、『鬼面館の殺人』や『キングを探せ』が新刊として話題を呼んでいることから明らかなとおり、作家はいまも健在だ。そしてなによりも、新人作家が本格ミステリでデビューしても、かつてのわたしが感じたような驚きはなく、ごく普通のことと受けとめられる。

このエッセイ(2012年)と小説(2001年)では十年以上の開きがあるが、「新本格の終わり」という予感は、デビュー(1999年)直前に書かれたという「ハサミ男の秘密の日記」にもうかがえる。
今回の冒頭の「本格か否か」と作品との関わりでいえば、「新本格の終わり」を予感した作者はおそらく、そこから何かをリレーしようとした。そしてリレーすることで新しい何かを創りだそうと思った。それは単に「本格」というより、そこに留まらずパロディのパロディであることによってリレーされる何かであったに違いない。ではそれは成功したのだろうか。読者にとって面白いのだろうか。

鏡の中は日曜日 (講談社文庫)

鏡の中は日曜日 (講談社文庫)