作品がリレーするもの(続き)
綾辻行人と同じ京都大学推理小説研究会出身の円居挽は、野性時代2014年6月号の「私の愛する本格ミステリ」特集に寄せて、「私の偏愛ミステリ作品」というテーマに『鏡の中は日曜日』を挙げ、こう述べている。
本格ミステリの華といえば奇妙な館や見立て殺人、そして名探偵だ。
しかし十年前の私はその華との距離感にとても悩まされていた。そうした要素が本格ミステリらしさを形作っているのは間違いないのに、要素に凝れば先輩作家の劣化コピーにしかならず、新人に要求される新鮮さから遠ざかっていく……そんなジレンマがあった。
だが、それを解消するきっかけになった本が『鏡の中は日曜日』だ。
(……)この作品は陳腐どころか、奇妙な新鮮さを備えていた。オリジナリティと言い換えてもいい。そしてそれは私が喉から手が出る程欲しかったものだ。
そのオリジナリティが殊能氏の膨大なインプットとそれを抽出するセンスに由来するものだと理解した後、私はミステリ以外の作品も積極的にインプットし始めた。
(……)私が陳腐な劣化コピーしか書けなかったのは単にミステリを書く素材にミステリを用いていたせいだったのだ。
だから拙作『丸太町ルヴォワール』や『河原町ルヴォワール』に『鏡の中は日曜日』の影響が見られるのも当然だ。あれは私なりの私淑の証しであり、一方的な返歌なのである。
前回、「作品がリレーするもの」と書いたけれど、円居が書いている「ミステリを書く素材」に「ミステリ以外の作品」を用いるというような方法論は、マラルメの描き方などからしても、石動戯作シリーズとしてはテーマを一見ミステリのみに特化した『鏡の中は日曜日』中においても重要な位置を占めている。
この雑多性について、もう少し詳しく作者の過去の発言を見てみよう。
殊能将之はかつて法月綸太郎のインタビュー記事に対し、キング・クリムゾンを引き合いに出して語っているところを引いてこう書いている。
『このミステリーがすごい!2005年版』で、法月綸太郎氏は『生首に聞いてみろ』(角川書店)について、こう語っている。
——各章に示唆的な英語のタイトルが付いてますが、この意味は?
このタイトルはじつは、伝説的なプログレ・バンドであるキング・クリムゾンの曲名からとっているんです。本格ミステリーとプログレという音楽のジャンルにはあい通じるところがあるんですよ。様式化がしやすく、時間がたつにしたがって洗練されてくる。だけど、初期の混沌としているがゆえの輝きは取り戻せない。現在の本格の置かれている状況と似ているでしょ? 内容を示唆していると同時にそういう関連性もあって選びました。マーズ・ヴォルタを聴いて、「そうでもないんじゃないか」と思うようになった。なぜなら、マーズ・ヴォルタの魅力はまさしく「混沌としているがゆえの輝き」だからだ。要するに、おじさん(わたしも含む)はつねに終わらせたがるけれど、若者はすぐに新しく始めてしまう、ということではないか。
というか、法月氏の出発点もそこにあったんじゃないだろうか。法月さん、あなたはキング・クリムゾンじゃなくて、マーズ・ヴォルタだったんですよ。(「memo」2005年8月後半)
これは2005年にマーズ・ヴォルタのセカンドアルバムを聴いた感想の流れで出てきた言葉だが、同じ年の6月に刊行された『鏡の中は日曜日』講談社文庫版の法月綸太郎による解説の記述をも踏まえた発言ではないだろうか。
殊能将之氏の『黒い仏』や『鏡の中は日曜日』を読んで、僕はずいぶん懐かしい気持ちになった。十代の頃、むさぼるように読みふけったシャーロック・ホームズ・パロディのハチャメチャで、何でもありな感じを思い出したからだ。(……)
「ホームズ・パロディ的な想像力」は、ミステリとSF(あるいはその他のジャンル)のインターフェースとして機能する。SF界の論客として知られる殊能氏の小説が、まさしくその典型であるように。
「さあ行こう、ワトソン! 新しい冒険が待っている」
贋ホームズたちの末裔にとって、ジャンルの境界などあってなきがごとしだ。彼らを産み出す想像力は、個々の小説ジャンルが確立/隔離される以前の、雑多でいかがわしいあれやこれやを母胎としているのだから。
新本格と音楽との比喩では、『鏡の中は日曜日』講談社文庫版の刊行直前、ザ・ポップ・グループについての次のような言葉もある。少し長くなるが、じっくりお読みいただきたい。
わたしはザ・ポップ・グループがほんとうに好きで、史上最もかっこいいバンドだという確信は、21世紀になったいまもゆるがない。
ザ・ポップ・グループは1977年、イギリスはブリストルの十代の少年たちによって結成された。(……)
解散後20年近くを経て、ヴォーカルだったマーク・スチュアートは何かのインタヴューでこう語っている(出典は忘れた)。
「オレたちはホントはファンクバンドをやりたかったんだけど、へただからできなかったんだ。それでああいう音楽をやりはじめたら、アヴァンギャルドだって言われちゃったんだよね」
この発言は回想に基づいているから、割り引いて聞く必要があるだろう(ベースのサイモン・アンダーウッドとドラムスのブルース・スミスはいわゆる通常の楽器演奏技術的にも上手だと思う。事実、ブルース・スミスはその後、新生PILにも参加している)。
しかし、この発言にはザ・ポップ・グループというバンドの本質も如実にあらわれている。つまり、彼らは80年代ブリストルに暮らす若者のためのファンクを発明してしまったのだ。
そして、このことはほんとうの意味でのファンクネスを体現した行為といえる。なぜなら、ファンクという音楽自体、ジェイムズ・ブラウンとJB'sが発明してしまった音楽だからだ。
ジェイムズ・ブラウンの音楽を通時的に聴くと、ある断絶に気づく。「プリーズ・プリーズ・プリーズ・ミー」はごく普通のリズム&ブルースである。「パパズ・ガッタ・ブランニュー・バッグ」は新たな構造を身につけつつあるが、それでもAメロ−Bメロ−サビという旧来の構造も保持されている。だが、「セックス・マシーン」にいたると、「アメリカ合衆国の民族音楽」とでもいうべき、いままでにない斬新な構造が前面にあらわれる。つまり、このころのある時点で、ジェイムズ・ブラウンとJB'sはファンクを発明したわけだ。
同様に、ザ・ポップ・グループは自分たちのためのファンクを発明した。だからこそ、現在にいたるまで影響力を持ったわけだ。これはJB'sの演奏を完コピできるバカテクな連中より、はるかに本来の意味でのファンクネスにみなぎる行為であったとわたしは思う。
わたしがザ・ポップ・グループから連想するのは、新本格ミステリだ。
新本格ミステリの草創期をになった作家たちも、1980年代後半の日本に暮らす若者のための本格ミステリを発明してしまったといえる。だからこそ、現在にいたる影響力を持ちえたわけだ。
新本格ミステリが旧来の本格ミステリと似ていないと難ずるのは、ザ・ポップ・グループがジェイムズ・ブラウンに似ていないと批判するようなものだ。そして、その後の新本格ミステリの展開は、ヒップホップ(ワイルド・バンチ〜ソウルIIソウル)を経由してトリップホップ(トリッキーなど)にいたるようなもので、変貌しているように見えながらも影響関係は保持されていると見る。(「memo」2005年5月前半)
「わたしも若かったし、作者と年齢が近かった分、嫉妬の気持ちも大いにあった」(「初めて衝撃を受けた講談社ノベルス――『十角館の殺人』綾辻行人著」「メフィスト」2012 Vol.1)だとか、デビュー直前の時点で既に「あと二、三年でミステリ・ブームも終わりか」(「ハサミ男の秘密の日記」「メフィスト」2013 Vol.3)と洩らしていることからは、「新本格」以後の書き手として「遅れてきた」青年であるとの自覚が見える。とすれば「新本格15周年記念作品」という言葉には、レクイエムに似た意味もうかがえるが、上記のザ・ポップ・グループに対する言葉を作者自身にあてはめれば、「完コピ」ではなく、過去と現在がゴッタ煮となったサンプリング・ミュージック時代の「自分たちのための」ミステリを「発明」することこそが、「本来の意味での」ミステリの精神に「みなぎる行為」なのではないか、と読み替えることができる。円居が書いているように、ミステリの構造にミステリ以外のものを持ちこむ方法論は賛否両論を呼んだが、それは『黒い仏』や『キマイラの新しい城』よりもテーマをミステリに特化した本書のような作品においても、新たな「発明」のための模索であったと考えられる。
かつて田波正という青年は「きみは『スタータイド・ライジング』を認めるのか。認めたとしたら、SFは滅びる。認めなければ、SFはなくなる。袋小路だ。/どうすればSFはすばらしくなりうるのか。(……)考えなければならない。今すぐに。さあ」(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』評、『Before mercy snow 田波正原稿集』)と書いた。この言葉には、ジャンルというモノサシが既に窮屈となっている状況が感じられる。殊能将之が作家として誕生するにあたっては、その窮屈さを逃れ、読み手としての批評性からこれまで述べてきたような雑多性を編み出しそれを力とすることが必要だったのだろう。
今や「サンプリング・ミュージックの時代」などともとっくに言えない時代となった。一つの要素だけではなく、要素と要素を並べたそのあいだの関係を描くDJ的な方法論のさらに先からリレーされるものは、未だ残っているのだろうか。
ここで話題を、第一回で述べた、本書の構成および水城と誠伸の関係に転換しよう。