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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

二月に読んだもの

もう今年も六分の一が過ぎたのか。
古野まほろ『絶海ジェイル Kの悲劇’94』(光文社文庫
かつて北山猛邦が「ボールペン一本でも物理トリックに利用することができる」というようなことをインタビューで答えていたのを読んだとき私は感動した。今作の困難を細かく分割していく執拗さ(しかし実行者はかなりの超人でなければならない……)にちょうどその言葉を連想した。あとイエ先輩の一人称になるのでビックリした。
周木律『アールダーの方舟』(新潮社)
アララト山ノアの方舟を調査しに訪れた隊を殺人事件が襲う歴史ミステリ。ノンシリーズだけど中年にさしかかった探偵役の男性学者が蘊蓄を若い女性にひたすらレクチャーするという構図は堂シリーズと同じくしている。一つ一つのトリックはあちらと比べると小さいものの、主眼はやはり歴史ミステリの方にあるので、これだけのネタをまとめるのは剛腕だと思う。ただその主人公格の若い女性が眠ったまま解決編を迎えて終わる(!)という構成は、冒頭の「痛み」についてのネタ振りをわざと外した感じで、作者の意図がよくわからない。
早見江堂本格ミステリ館焼失』(講談社
死体の残留思念を読み取って事件を一人称で再現するという飄々とした書きぶりが、評判とは裏腹に(おっなかなか面白いんじゃないかしら)と思っていたら、最後で全部腰砕けになってしまうのが残念。やりようによっては面白くなりえたと思う。解決編で「これは(…)本格ミステリではなく、現実なのだから」(=トリックは特にない!)という開き直りの台詞が出てくるが、『陸橋殺人事件』の昔やパロディー短篇ならともかく、いまこれで長篇を支えるのは難しい。にも関わらず、こういう作品は昔から現在に至るまで書かれてきた。『虚無への供物』を例にするとわかりやすいけれど、私はいわゆる「反ミステリ」は、イコール現実ではなく、反ミステリ=反現実・反世界だと思う。であればこそ、裏返ってミステリでも現実でもないものとなり、それを小説化した作品自体が現実に多大な影響を及ぼすという相互浸透を果たすのじゃないかしら。単に現実的論理がミステリ的論理を打ち負かすというだけであれば、それは反ミステリ=現実のつもりでいながら実は作品自体はミステリ=現実であり、トリックがショボいことの言い訳と読者には映りかねない。そうではなく、反ミステリ=反現実を目論んでこそ、その系譜に連なりうると私は思う。
斉藤洋『ひとりでいらっしゃい 七つの怪談』(偕成社ワンダーランド)
まだ怪談に読み耽っていたころ手にし、その幕切れが非常に印象深かったのを覚えているけど、続編が二冊出ていることを最近知ったので読み返した(あそこからどうやって続編が書けるのだろう)。著者はホフマンの研究家でもあり、冒頭に「こわい話が好きな子どもとおとなのために。それから、『ゼラーピオン同人集』を書いたドイツの作家E.T.A.ホフマンのために。」という献辞があることに初めて気がついた。
F・W・クロフツ『フレンチ警視最初の事件』(創元推理文庫
読書会用に。考えてみれば、クロフツを読んだのは初めてじゃないかしら。クズな男と意思の弱い女の詐欺行為が描かれる序盤に始まり、三人称多視点で様々な角度から事件を語るその語りぶりは現代ふうではない悠々とした筆致でなかなか面白い。とってつけたようなハッピーエンドも、これは作者の人柄なのだろうか。サツバツとした「イヤミス」の対極にあるという感じ。