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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

矢部嵩は天才である。(4)――『魔女の子供はやってこない』

四年ぶりの長篇
第三作『魔女の子供はやってこない』(角川ホラー文庫、2013)は、前作『保健室登校』(同、2009)からちょうど四年ぶりに刊行されました。技巧と物語が高度に洗練されたこの小説は、おそらく矢部嵩的世界の現時点での頂点を極める作品で、私もうまく読むことができたかどうか、紹介するに自信がないんですけれど、とりあえずは、これまでのように語ってみることにします。
本作は「魔女っ子もの」を企図して書かれたとされていますが、ジャンルものとして一般的なそれとは大きく異なっていると思います。魔法で願いを叶えることのできる人物(魔法少女ぬりえ)が異界からやってくるという設定はドラえもんを、彼女の相棒を務める平凡な小学生が語り手(安藤夏子)という形式はシャーロック・ホームズものを思わせると、ひとまずはいえるかもしれません。でも、相変わらず頻出するグロテスクな描写もさることながら、しかしふつうの子供向けアニメ番組などと異なるのは、登場人物がよくあるように互いに相通じたツーカーの関係にはなく、深い断絶状態にいることではないでしょうか。『紗央里ちゃんの家』から続くディスコミュニケーションの主題ですね。で、これがところどころ、嫌になるほどすごーくリアルなんですよ。魔法少女なんてギャグみたいなバカバカしい虚構から炙り出された「本当のこと」が、渾然一体となって胸の内に飛び込んでくる。こうした部分での作者の観察力・描写力・構築力には、舌を巻かざるをえません。
……『保健室登校』から更なるブレイクスルーとなっているので、読みづらくて一、二話で止めた、という人は勿体ない!

魔法とは何か
ところで作中の魔法とはなんでしょうか。なんだと思いますか? 以前から述べてきた「論理」の面でいえば、それは、現実における諸関係の相互作用の網の目を大幅に無視あるいは無効化する、ということではないかな、と。たとえば、「どこでもドア」という道具を使うなら、使用者は入口から出口までの過程(プロセス)を省略することによって、目的地まで辿りつくことができる。死者を蘇らせるということなら、その人物が既に死んでいる現実の諸法則をいったん無効化し、一瞬のうちに書き換えることで、死の事実を無かったことにする。魔法とは、そうした書き換えやジャンプすなわち既にある現実をうまく推敲することなのではないでしょうか。モバイル端末による現代のコミュニケーションが、昔の人間にとって魔法に見えようとも、使用する我々は、それが相応の物理的プロセスを現実に経て行なわれていることを知っています。本当の魔法とは、そうしたプロセスが無く、脳内の願いと現実とが直結するということですよね。
そして、魔法によって一度実現したシチュエーションは、具体的なカタチをとるなり、現実の諸法則に絡め取られ、また新たなプロセスの前提となります。人間は時間というプロセスの中でしか生きられません。小説というフィクション自体に関してもそれは同じで、フィクションとはある意味で、我々のこの現実をいったん自由に書き換え、そこから展開されるプロセスを記述するものであるのですから。
……寄り道が長くなりました。それこそ、抽象的なお喋りを続けても仕方ありませんから、具体的に作品に即して見てみましょう。

魔法とプロセス
第一話「魔女マンション、新しい友達」で、不思議な道具を拾った語り手・安藤夏子が、クラスメートたちとメモを頼りに魔女のもとへそれを届けにいきます。魔女との出会いによって生じたクラスメートの死と、魔法の存在という事実は、彼らの秘められた感情と欲望を容赦なくさらけ出してしまう。ここに登場人物間の「ディスコミュニケーション」が露わになりますが、同時に、魔法をめぐっても同じような事態が起こっています。
私たちは、現実に魔法などないことを知っている――そんなものがあるのは、フィクションの中だけだ、と。しかし、もしそれが実在したとしたら、どうかしら。……なかなか信じられないし、どう扱っていいかも、よくわかりません。この時、登場人物たちの倫理が試され、地上の論理の外からやってきた魔法少女ぬりえは、彼らにとってリトマス試験紙のような存在となります。いったい、何をどう願えば、理想的な状況を形にできるのだろう? 魔法という一度きりのフィクションを、現実的なプロセスの中にどのように組み込めばいいのか? 登場人物たちは、どこかで必ず魔法を扱い損ねます。扱い損ねられた魔法は万能ではなく、不完全な形でぬりえへと伝わり、死体を加工したり、別人になりすましたり、と中途半端に残された奇妙なプロセスをたどたどしく辿りながら、実現される。この扱い損ね=ディスコミュニケーションに巻き込まれながら、語り手・安藤は成長していきます。
……このプロセスということをめぐって、象徴的に書かれているのが第五話「魔法少女帰れない家」ではないでしょうか。

意志と実現
魔法少女帰れない家」での依頼者は、夏子たちと仲の良い、近所に住んでいる専業主婦の「奥さん」です。夏子は彼女を「すてきな奥さん」だなあと思う。美大出で、性格は良いし、子どもたちは優秀で、きっとイイ感じの家庭なんじゃないかしら。だから、奥さんからの「友人の結婚式のために家を空けたい」という依頼で留守番をすることになった時、幸運に感じます。ところが……(少しネタバレ気味になりますが)それは錯覚だった! 娘は反抗期で、息子はマザコン、夫は近寄りがたいほどまったく好みではない。家事に一日中追われる一方で、絵を描く時間などとても無く、まさに家庭に縛りつけられた存在であるそんな彼女が自分たちに見せていたのは、水面上の白鳥の姿のごとき一面に過ぎなかった。やがて奥さんもまた、夏子を欺いていたことが明らかに。彼女は絵が描きたかった。それこそが本当の自分だった。家を出さえすれば、自分の好きな絵が描けると思った。でもそうではなかった。腕は錆びついてちっとも書けなかった。この絶望感。
この時、夏子と奥さんは、家の内部―外部という互いの立場を交換しながら、意志とその実現をめぐって、同じような関係を生じています。ある対象を外部から見て、(すてきだなあ、自分もこうだったらいいなあ)と思う。けれど、そのアコガレは未だ抽象的なものであり、対象の内部に入り込めば必ずや具体的な関係の網の目に絡め取られ、可能性は収束し、当初のアコガレは別のものに変質せざるをえない。そしてそれがやがて失望に移っていくということも、現実によくあることですよね。「脳内では傑作ができあがっているのに眼高手低の状態で具体化できない」「新生活が始まれば何でもできる気がしていたがそう上手くいくはずもなく五月病に」「勤めを辞め専業作家になって頑張れば大丈夫かと思ったらなかなか書けない上に部数も伸びず経済的に安定しない」「四十にして惑わずなんてとてもとても」「子供の運動会で若いつもりのまま全力で走ったら身体がついていかず肉離れを起こした」「事業仕分けをすれば無駄金はいくらでも出てくると思ったらそうではなかった」
……抽象的な観念や願望が具体的な現実の中でボロボロと墜落してゆくこうしたことは、およそ誰の身にも溢れているのではないでしょうか。

作者と登場人物
魔法は、抽象をそのまま具体化します。でも、一人の芸術家が「傑作をものしたい」と思った場合、「今すぐ眼の前に完成品がポンと現われて欲しい」などと願うかといえば、それは違うのではないでしょうか。創作とは抽象と具体を橋渡しする行為なので、絵画にせよ小説にせよ、その過程には現実からの抵抗が反映されます。こうした時間の跡を持たない作品は、どこか空しい。そして作者自身そうした時間をかけて、この『魔女の子供はやってこない』という傑作は書かれたのだと思います。
『紗央里ちゃんの家』そして『保健室登校』執筆当初までの作者は、まだ学生だったでしょう。本書発売後のコラム「a day in my life」(小説すばる2014年6月号)によれば、近況として、長くアルバイトで勤めていた書店が潰れ、無職状態でまた新作を書き始めた、と述べていらっしゃいます。『魔女の子供はやってこない』は大学卒業後、社会と家との、仕事と自由な時間との合間で書かれたということになります。意志とその現実化をめぐる夏子と奥さんの姿は共に、この小説を執筆する作者自身の自画像に見えてこないでしょうか。よその家に入り込んで他人と生活を送るという「魔法少女帰れない家」は『紗央里ちゃんの家』以来の設定ながら、七年を経て格段に充実した細部のリアリティ(特に家事や人間関係など)に、同い歳の人間としてそう思わざるを得ないのです。発表に時間がかかったのもそのためではないかしら。
「帰れない家」の結末はミステリふうでブラックですが、しかし奥さん家の共同生活において夏子は、交渉によって状況の改善に成功しています。交渉とは、言葉によって我と他者との関係を作り替えるプロセスのことですよね。夏子の交渉能力については、第一話で、他のクラスメートが性急に願いの実現を求めるなか、比較的粘り強くぬりえとの対話を続けるスタンスなどにも見られるものです。この意味で夏子は魔法的ではない普通のプロセス的な人間であり、また堅実な性格でもあります。
……そして、奥さんにあの、すべてのプロセスを消去する「忘却」がやってきます。夏子の目覚めも、近くなる。

「地獄は来ない」とはどういうことか
最終話「私が育った落書きだらけの町」で、ぬりえは故郷へ帰ることになります。夏子はふとした偶然で、ぬりえとの出会いにおける記憶の食い違いを思い返すことになり、かつてのクラスメート五人の死に自分が関係していたことを知ってしまう。相棒関係は壊れ、ぬりえの代わりに他人の願いを叶えようとして手酷い失敗をし、結局、誰にも話せない罪を背負った彼女は孤独なまま、中学、高校、就職、出産育児と時が加速してゆく。本書の圧巻をなすのは、この最終話後半の、夏子が「余生」を生きる物語でしょう。ここにおいて『魔女の子供はやってこない』は、「魔女っ子もの」の批評となり、その枠組みを超えた。
果して、「余生」とは、罰の執行を待機する時間に過ぎないのか。罪を背負った人間は、ふつうに生きてはいけないのか。本書が真に感動的なのは、ディスコミュニケーションだとか、我と他者の線引をめぐる倫理だとか、そうした面倒な地上の論理を経て、ついに語り手が、自分の時間を引き受ける場面だと思う。「地獄は来ない」とは、自ら進んで地獄へ歩いて行くプロセスを倫理として引き受ける、という意味でしょう。魔法のように、過程を省略して向こう側から突然降ってくるのでも、自分の過去を推敲して天国行きに書き換えるのでもなく。そして同じように、もし小説が魔法をもたらすとすれば、それは具体的な散文の跡をプロセスとして辿ってゆくことで、実現されるもの。一人の人間が地獄へ歩いて行く為に、これまで過ぎ去った間違いだらけのすべてのプロセスが、時間が、人生が、オセロの石が裏返ってゆくように一つの道となり、最後の最後で、新生するのです。
……あとはもう、私の言葉はいらない。読者は彼女と同じように、自ら歩いてそこへ辿り着かなければならないのだから。