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襤褸は着ててもロックンロール

矢部嵩は天才である。(5)――『〔少女庭国〕』


卒業式の日、女生徒たちが会場へ向かう長い廊下を歩いていると、ふいに見知らぬ部屋で一人眠っていた自分に気がつく。壁には何やら指令書のようなものが貼り付けられており、「死亡した卒業生」なる不穏な言葉が見受けられる。どうやら、自分たちはここに閉じ込められ、なんらかの犠牲を伴う手段によって脱出しなければならないらしいのだ……。
第四作『〔少女庭国〕』(ハヤカワSFシリーズJコレクション、2014)は、連作短篇集を除けば既刊では最も長い作品。上記のあらすじを読めば、前世紀末から小説に限らず数かずのヒット作を出してきたいわゆる「デスゲームもの」の流れかと誰もが思うが、第一部ではまだそのように擬態しつつ、しかし本作の主眼がそこにないことは第二部「〔少女庭国〕補遺」ですぐ明らかになる。


「デスゲームもの」には、貴志祐介『クリムゾンの迷宮』や、米澤穂信インシテミル』のように、「いったいなぜこのような舞台を用意したのか?」という首謀者との対決が最終的に書かれない作品の系譜があり、その点に対する不満が読者の側から語られてもきた。
本作は、逆転の発想によってそれを処理している。いってみれば、ジャンルとしてのデスゲームの基本的な力点が、固定された外枠の内部でいかに脱出方法を編み出すか、ということにかかっているとすれば、ここではその時空間を外側へ無限の人物・無限の部屋に拡張することで、逆に内部に巨大なインナースペースが発見されているのだ。これは、『魔女の子供はやってこない』の「地獄は来ない」と同じく、既存のジャンルの方法を流用しつつ、作者独自の作品に仕立て上げられている、といえそうだ。力業だ。
限りなく拡張される世界で、殺し合いと日常が共存する。生きようと思えば生きることができなくもない。しかしいったい、なんのために生きているのだろうか……これは、この世という牢獄に閉じ込められた我々自身の姿と変わらないミニチュアではないか。つまりデスゲーム的空間を無限に拡張すれば、それはしだいにこの世界そのものに等しくなってくる。登場人物たちを閉じ込めた首謀者の存在感は限りなく薄らぎ、遍在する。ただ名のみ記された、神のような存在として。「謎」の解決は遅延される。人類が自身の起源と終焉を未だ完全に説明できないように。そして同じ年齢・性別の人間たちが、細胞分裂するようにDIYの文明を作り上げる。人体と、衣服と、多少の付属物のみを使って。


この小説は特定の主人公を持たず、中盤から集団の歴史記述を織り交ぜつつ、個の内面を移ろっていくスタイルをとっている。この、デスゲームを青木淳悟の文体でスペキュレイティヴ化したような展開は、新鮮で異色のものだろう。プロセスを自在に記述する言葉にはしかし、「脱出」という目的=終わりが見えてこない不安が張り付いている。
可能な限り最大多数の人間が生存し続けるために、この閉鎖空間では食事を始めとして、個人の一挙手一投足が、その生活が、すべて政治的なものとして集団の生き死にに関わる。そのような空間で、小説とは、どのような意味を持つのだろうか。図書室に配架された冊子は、それを以前に所持していた誰か、書いた誰かの気配を濃厚に漂わせている。冊子に記された物語は、大量生産された任意の一冊として単に消費できるものではない。自分だったかもしれない分身の血によって贖われた、そのような「娯楽」である。そして視点を一歩引き、それを記述する小説を読む我々の姿を重ねあわせれば、いま手にしているこの本もまた、なんらかの意味で誰かの命に関わり、この世に関わっているのだと感じずにはいられない。もしかするとこの『〔少女庭国〕』という小説もまた、ある任意の一人の少女がいつかどこかで書いたテクストなのかもしれない。
ゆえに、この物語には原理的に終わりがない。小説が、無数に書かれ続けているように。それでも小説が、世界の終わりそのものを記述できないように。
しかし小説もいつか滅ぶであろう。人類もいつか滅ぶであろう。だから逆に、この物語はいつでも終わることができる。物質の形はいつか消え去る。ただ、発された声が、少しだけ長く引き伸ばされ、見知らぬ誰かに届けられる。まるで心が通い合ったかのような一瞬の錯覚が生まれ、それがわずかな慰めとなる。


矢部嵩的世界は、ついにこのような地点に辿り着いた。

(もうちょっとだけ続く)

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