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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

初期衝動についての断章

このところ、TL上で市川哲也『名探偵の証明』シリーズが話題になっていた。私も一作目二作目を読んだ時に感想を記したけれども、admiralgotoさんの第二作に関する記事を読んで、「持たざる者の戦い方」という評言に膝を打ち、しかし同時に異なることも浮かんだ。
以下は元記事とは無関係な私の連想。

「持たざる者の戦い方」というとまず、音楽ではパンクのことが思い浮かぶ。楽理やテクニックに支えられたメタルやプログレなどと違って、パンクは下手したら、楽器が弾けなくても、歌えなくてもできる。その場合、楽曲を支えるのはメンバー間のグルーヴもさることながら、まず初期衝動でないかと思う。
一曲と一作とでは作るのにも鑑賞するのにもかけられる時間が異なるけれど、長編小説も、時に初期衝動で書けてしまうことがある。ところでパンクではDIY(Do It Yourself)ということがいわれる。何事も自分でやってみるのが大事、ということですね。長編小説のように作り手が長い制作時間に引き裂かれる場合、このYourselfのYouの部分が透けてきて、影響を受けたナンヤカヤが剥き出しになったり紋切り型になったりするということがある。

先日、新本格とザ・ポップ・グループをめぐる殊能将之説を読み返しましたが、たとえば新本格ミステリが出てきた時、当時の小説観に照らして「人間が描けていない」云々という言い方があった一方で、半世紀以上前のミステリマナーを復興(ルネッサンス)させるテクニックに支えられていたわけですね。しかしさらにその後からやってきた世代、それも人間描写にせよジャンルの方法にせよを持っていない人間が、前世代から初期衝動を受けて何かを形作ろうとした場合、どうなるのか……。

このようなことは、佐藤友哉フリッカー式』が出てきた時に、かなりいわれたことではないかと思う。作者佐藤はデビュー時にこれまでの読書歴の何分の一かは講談社ノベルスで出来ていると語ったという。つまりYourselfのYouのいくらかも講談社ノベルスが占めていたことになる。高橋源一郎との対談(「広告批評」2004年8月号)で佐藤は、投稿作を完成させた際、受賞を確信したと語っている。市川もそれに近いことをインタビューで述べている(〈本作〔デビュー作『名探偵の証明』〕については、「すべてのアイデアを投入したつもりだったので、書いている段階では「これは絶対に受賞だ!」と思っていました〉「図書新聞」2013年12月14日)。もちろんその背後には、同じことを直観して陽の目を見なかった何千何万の書き手がいるに違いないが、こうした直観には男子の妄想と笑って見過ごせないものを感じる。実際、今になって見ると、『フリッカー式』に始まる初期作品に作者のベストを見る読者もいるのではないか。それはなぜなのだろう?

数をこなせばこなすほどテクニックは次第に上達してゆくけれど、初期衝動によるモチベーションは薄れると思う。そしてモチベーションがあればテクニックがなくても形にはできる一方、モチベーションがなければテクニックがあっても形にならない。モチベーションとテクニックはこのような非対称的な関係になっている。

音楽でも小説でも巷間、「誰それは初期作品が良かった……」という評価はよくある。いま私はそれについて次のように仮に考えてみる。作者は誰でも最初は無名なので、自分のために作る。ワタシからアナタへと、自分に近い範囲の、スモールサークルに届く親密な声で語る。それがしだいに名を知られるにつれ、見知らぬ聴衆のために広く語るようになる。ここで、聴衆のための語りがテクニックによって鍛錬される人と、逆にそれによって初期衝動を失う人があると思う。友人との会話でもそうだが、見知らぬ誰かに向けられた語りよりも、このワタシに直接向けられた親密な語りの方が楽しい。「この作者はワタシのことをよく分かっている」そう錯覚させるのにうまい人がいる一方、「あたりさわりのないことを言っているなあ」と感じさせる人もいる。

作り手のワタシが自分の感受性のお里が知れてしまいかねないアノヒトの話題を直接さしだすこと。これは当のアノヒトを知っている人間には共通の話題として親密で懐かしく思われたり、劣化コピーとして拒否感を引き起こしたりする。ワタシはアノヒトの領域に近づきたいと思う。しかし少し立ち止まって考えれば、アノヒトはアノヒト自身のことをそんなに話題にするだろうか? 逆に、それはもっとも反アノヒト的行為ではないだろうか? ゆえに、ワタシはアノヒトとは異なるルートからアノヒトの領域へと至らなければならない……。これは一般論であり、正しく思われる。にも関わらず、初期衝動は、時にそうした一般論を乗り越えてしまう。

テクニックが客観的なものだとすれば、衝動は主観的なものだといえるだろう。テクニックは対象をコントロール可能にする手段のことだが、ヒトとヒトとのあいだで起こるグルーヴや主観の周囲にある無意識には、コントロール不可能な領域がある。初期衝動が一般論を乗り越えるのは、この技巧や知識で完全にはカバーできない領域で「自分(=ワタシ)たちのための○○を発明(=DIY)」してしまった瞬間に起こるブレイクスルーなのではないか。

以前、「驚きの減衰」についてということを書いた。あの時考えていた「驚き」は、初期衝動に近いものがあると思う。初期衝動とは、ある種の「驚き」に突き動かされているのではないか。人間は「驚こう」と思って主体的に驚くことはできない。必ず、外部の誰かに、何かに出会うことによって「驚かされる」。初期衝動も同じく。こうしてグルーヴは、ヒトとヒトのあいだに生まれ、つまり完全にコントロールすることはできない。そして一度鳴らされた音がしだいに収まってゆくように、減衰して永続するということはない。あとは、このコントロール不可能なものとの、手を変え品を変えた長い格闘ということになるだろうか。

だから私が『名探偵の証明』について「レスラーも探偵も、しっかりとした基礎が必要なはず」と書いたのは、テクニック的価値観によるものであり、パンク的価値観からはその批難は当たらない。しかしその場合は逆に、同作が意図しているはずの「名探偵批判」も、梯子を外されてしまうのではないかと思う。

いや私も祇園寺恋チャン結構好きだったんですよ(途中まで)。それで作者の意図通りどんどんページをめくらせられていったんですね。第三作で実は壮大な逆転があるんではないかと、まだ密かに期待しているんですけれども。