立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

河添太一『謎解きドリル』1、2巻を再読。初読時より面白かった。
この作品について、作者はこういうふうに語っている。

僕は元来おしゃべりな性格で、ネットなんていう簡単に意見を発信できる媒体があればそれはもう自分の作品について、
「ここを見て!」「ここに気付いて!」等と言いたい衝動に駆られるのですが、今回は特にそれを抑えました。
何故ならこの作品が新しかったから。
他に無いんです。ここまで無礼な推理モノは。
例え殺人現場でふざけるような作品があっても、結局被害者は生きていたり、推理部分もギャグで済ませたりと、とりあえず読者の読後感を気にかけたモノばかりであるはずです。
(正直僕は漫画とか小説とかあまり知らないけどそれらに詳しい人達がそう言ってたし僕もそのつもりで描いてたので自信を持って言ってますが他にあったらごめんなさい。)
つまり「手段」と「動機」をリアルにする事でギャグが本当の「殺人現場」で行われている事になるのです。
これを読者の方がどう捕らえるのか黙って観察したかった。
黙って観察してたら終わった(´。。`)
そして「構成」。僕が作品を作る上で1番重視するのはこの構成部分なんですが・・・。
それこそ僕が説明するのは無粋ですね。そもそも読者が感じたこと気付いたことが正解ですし。
http://zoegari.blog97.fc2.com/blog-entry-181.html

漫画はあまり読まないので、こういう作風が「他に無い」かどうかはわからないけれど、私は興味ふかく読んだ。
シリアスな殺人現場でギャグを……というと数年前、石崎幸二『復讐者の棺』を読んでいて、違和感を覚えたことがある。女子高生二人がボケ役で作者と同名のオジサンがツッコミ兼探偵役の、基本的にユーモア調のシリーズなのだが、顔を潰された凄惨な屍体の前で女子高生が「こんなの平気よ」と、ギャグシーンと同じテンションでまったく意に介さない場面がある。こんな時に気になるのは、「なぜ彼らは謎を解こうとするのか?」というモチベーションだと思う。死者を悼んでいるのだろうか?事態を打開したいのだろうか?それとも単に、自分の興味を満たしたいだけなのだろうか?
死者への哀悼や事態打開の切迫感からは、ユーモアのための余裕を持ちにくい。逆に、自分の興味を満たすだけで死者へは無関心ならば、殺人現場という読者にとっての非日常においてもギャグという日常を保ちうるキャラクターの怪物性が際立つことにもなりかねない。
さらに『謎解きドリル』は(少なくとも、読んだ二巻まででは)素人探偵という設定上、「起き立てホヤホヤの事件に巻き込まれる」ということが必然になる。「キャーッ」という叫び声にかけつけるんですね。だから緊迫感がある。
回想や伝聞ならばまだ、距離を保ちうる。しかし、ナマの屍体というシリアスにユーモアが並列された場合は、異質な二者がぶつかるゆえにシュールな歪みをもたらさざるをえない……。
小説だとなかなか難しい問題だけど、かわいらしい絵柄によってかなり解決されているように思った。饒舌なボケ(主人公)と寡黙なツッコミ(真の探偵役)で役割分担されているのも、働いているかもしれない。ツッコミが屍体に手を合わせる場面があると、ヤンチャなボケに振り回されて付いてこざるをえないのねというエクスキューズある感じで、安心する。
というわけで三巻も読んでみたいと思います。

だんだん調子が戻って来たようだから、また『鏡の中は日曜日』を読もうかな。