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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

殊能将之を再読する/「鏡の中は日曜日」(5)

殊能将之鏡の中は日曜日』の趣向に触れていますので、未読の方はご注意ください】
おさらい
だいぶ間が開いてしまったので、ちょっとおさらいから。
二年前に『ハサミ男』を再読して以来たびたび、作中に「ズレ」というモチーフが現われることに気づいたので紹介してきた。鷹番と蝶番の違いに始まり、ハサミというものの形状、飛騨牛と美濃牛、大陸と島国のあいだ、俳句の二物衝撃、シュルレアリスムのデペイズマン、日本シリーズ、探偵役とワトソン役、オリジナルとパスティーシュ、ミステリとホラー、詩と散文、過去と現在、鎌倉と金沢、……等々。巽昌章が「すれ違いとは、世界の分裂を、古典的なコメディに翻訳する技法に他ならない」と書いたように、作中世界でモノとモノとが出会えば、対立したりすれ違ったりで、ぴったり重なるということは基本的にない。むしろそうした差異への着目から話は生まれてくる。人物の関係についても同様のことがいえ、お互いのことをじゅうぶんに理解し合っているというような二人はまず居ない。
ところがそこで例外的なのが、水城と誠伸の関係ということになる。読者はまず、本書第一部を読んでも、この語り手が誰だか解らない。しかし最後まで読むと、それが誠伸だと判明する。そして彼が、他の誰を忘却しようとも、死の時まで「ユキ」のことを決して型にはめて捉えたり誤解したりしなかったということが了解される。そして「ユキ」の方も彼を同様に認識していたということも。
作品はこの稀有な事態を語るために、最も複雑な構成と、哀切な運命とを必要とした。例外的な関係は読者の眼前で一瞬、広がり、すぐさま瓦解しようとする。しかし、そのような関係がかつてあったのだということは、どこか明るい会話のあとに続いて、話が終わっても、低く永く、残響している。

偶然の一致について
四年前に読み直した際、私には二つの謎が残った。(1)第一部で誠伸に梵貝荘事件の再考を促す声の正体は何か?(2)作者が本格ミステリとしての完璧性を欠いてまでも、鎌倉と金沢で「全く同じ事態」を発生させたのはなぜか?
(1)については未だによくわからない。心中の声というのは『ハサミ男』や『美濃牛』でも出てきたから、その辺と何か関係あるのかもしれない。(2)については掴めてきたように思う。第二回でも書いたとおり、この「一致」はおそらく詩の論理と関係がある。
梵貝荘事件の動機は、フランス語についての「偶然の一致」に大きく関わっていた。そんなことで人を殺すだろうか、とは当然考えられる。しかしここで重要なのはリアリティではなく、「暗合」ということの不思議さである。作中で水城が、「パウル・ツェランの詩は韻律や脚韻を無視していますよね。いわば、瑞門さんのおっしゃった口語自由詩といっていい。ツェラン自身は、連なる二行の韻律や脚韻を合わせない理由について、『隣り合った二本の樹が同じ格好をしていることはめったにない』と語っています」と発言する。しかし、もしそうした「めったにない」ことが、本当に起こったとしたら……殺人者にとっては、たとえ後から振り返れば、一時の気の迷いと思われようとも、その時においては只事ではない。不可解な「一致」が起こった、ならば……自分自身がそれと「一致」するかどうか、伸るか反るか、ぎりぎりの賭けに事態が変貌する。いわば、韻律が新しい言葉(ptyx)を生んだように、ただの駄洒落のような言葉の類似が、新たな現実=事件を生み出す。
「弁護士」という暗合のリアリティ――つまり、何かが一致した、ゆえに私も参加せねばならない、というリアリティは事件前、犯人にしか解らなかっただろう。ひるがえって、鎌倉と金沢との「一致」は、読者にしか解らない。作中人物にはジョウミョウジや偽石動など、何か似たものがある、ということは解っても、「一字一句全く同じ事態が起こっていた」ということは解らない。
作者はなぜ、いくらでも言い訳ができるにも関わらず、このような、本格ミステリとしての「完璧」性を欠くようなことを書いたのか。それはもちろん、「一致」こそが作品のテーマだからだ。

二つの論理
大森望北上次郎との対談で、『黒い仏』について「アリバイ・トリックをちゃんと合理的に説明したうえで、それを別の論理体系で崩してる」と述べた。新本格時代の「ミステリ・ルネッサンス」という言葉を借りれば、ルネッサンス(再興)とはある意味では、ミステリでミステリを書く試みといえるとおもう。しかしファーストインパクトが過ぎ去った後から来た者がそれに続こうとすれば、同じやり方ではもう通用しない(「私が陳腐な劣化コピーしか書けなかったのは単にミステリを書く素材にミステリを用いていたせいだったのだ」円居挽)。
一つの原理(ミステリ)ではなく、複数の原理(ミステリ+α)の共存を、後からやって来た自分自身の共存の条件とすること。しぜん、原理と原理とはすれ違い、対立し、ズレる。しかし、単にズレればいいという訳ではない。『黒い仏』では、まだズレの方が勝って見える。『黒い仏』のもう片方が例の論理だとすれば、『鏡の中は日曜日』のもう片方は詩の論理である。詩の論理は、ミステリの論理に重なろうと、「偶然」を導入した。そのために、本格ミステリとしての「完璧」性=原理の唯一性は欠けた。しかし、その「偶然」は、絶対にありえない、というわけではない。可能性は限りなく細い道としてある。詩の論理はそこをすり抜けた。すり抜けた果てに、ある男女が向かい合っている。互いの視線が重なる。それは「めったにない」ことだ。

合わせ鏡
というわけで、『黒い仏』と『鏡の中は日曜日』は、複数原理の共存という意味で同じような構造を持っていると思う。だから、『黒い仏』はアリだけど、『鏡の中は日曜日』の「偶然」はちょっと……という認識で十年以上きていた私は、最近再読して考えを改めた。「偶然」が詩の論理で支えられている以上、リアリティがないからダメ、と否定することは、水城を「娘」や「名探偵」という枠に押し込めようとする父親や鮎井と同じ態度になりかねない。そして「偶然」は必ずしも「ミステリ」を否定するものでもない(この否定しない、というところがポイント)。
新本格」はその後、どうなったのだろうか。もちろん、消えてなくなったわけではない。拡散し、遍在化した。複数原理の共存は当り前のものとなり、『黒い仏』のような作品を書いても当時ほどには激烈な反応を引き起こさない。『十角館の殺人』から十四年を経て『鏡の中は日曜日』が書かれ、その『鏡の中は日曜日』からも十四年近くが経つ。十四年の時間という合わせ鏡を突き抜けた後の現在にはまた、現在の書き方がどこかで開発されつつあるのだと思う。
(もうちょっとだけ続く)
(この項終わり)