読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

『殊能将之読書日記』が発売されたそうです。

殊能将之 読書日記 2000-2009 The Reading Diary of Mercy Snow』をようやく入手。やっと出た! 本文以外にも解説や索引や考課表が80頁くらいあって豪華。情報量と元手を考えればかなり安いほうじゃないかなあ。

さっそく法月綸太郎解説を開いたものの、最後まで読んで私はかなり戦慄を感じてしまった。
(以下自分語りにすぎる話題になるので、先にお詫びします)
ここでは都筑道夫瀬戸川猛資ラインにreadingを位置づけ、「フランスミステリの勘違い」という話題をとりあげている。昨年、私もreadingを読み返していたところ、この「フランスミステリの勘違い」説を確かめたくなり、『夜明けの睡魔』を確認したあとでブラウン・メッグズの邦訳二冊と、あと最近の何か(ピエール・ルメートルとか)で三人がいうところの「勘違い」が本当かどうか感触を知ろうとした。けどもともと疎いぶん、大掛かりになりそうで、ブラウン・メッグズすら読まずに放置してしまった。それがこの解説で詳細かつクリアに書かれているので、(素人の出る幕は最早ないか……)と思ってしまった。いやそれだけではなくて、イネスにしろ、バークリーにしろ、レムにしろ、法月さんが引いている個所は私も興味を持っているところだった(何度かここで全く同じ個所を引用してもいる)。
さらに解説の最後、菊地成孔大谷能生『憂鬱と官能を教えた学校』(2004年刊)を援用して、小説における「訛り」=ポリリズム説が説かれている。私が大学時代につけたペンネームの「孔田」というのは菊地成孔からパクったので、(そこに来るか!)と思っていたところ、よく考えれば、『憂鬱と官能を教えた学校』を読もうと思ったのは、何かのアンケートで法月さんが挙げていたからではなかったっけ。とすれば、自分が十年前に「孔田」とつけたのもその影響かも知れない……。
そう考えると、自分がいかにこの人たちから影響を受けているかということが改めて実感され、私自身の卑小さがガツーンと身に沁みてしまった。

イネスのThe Daffodil Affairをreadingで紹介した際、引用個所が無意識にダブったこと(「恐ろしいことに、引用個所まで同じ。もちろん若島氏の記事のほうがはるかに先に書かれています」reading2001年12月26日)について、若島正解説ではこう述べられている。
「引用した個所とそっくり同じ個所をしてしまった、という珍事は、不思議を通り越して怖いほどである。こういうときに、わたしは何か殊能氏の一部分と交感したような、幸せな錯覚を起こすのだ。殊能的なるものは、こうしてわたしたち読者を楽しませながら教育して、どんどん増殖していく」
「世の中には、もっともっと殊能的なものが増えてもいい」
真に博識な人なら、一、二度ちょっとぐらい被っても、どうってことないだろう。けど私みたいなのが被ったって、単に掌の上を飛び回っているというだけだ。円居挽の「ミステリを書くのにミステリだけを用いては、劣化コピーにしかならない」という言葉をもじれば、「殊能将之を読むのに殊能将之だけを用いては、劣化コピーにしかならない」んじゃないか。「読む」ということに特化した『読書日記』であれば尚更そう思う。
何しろ、「◯◯をするのに××だけで〜」というのは、最も反殊能将之的行為であるのだから。「作者の話は聞かない」主義というのが私には長らく不思議だったけど、それはたぶん、あまりにも感性が近づきすぎるのを防ごうとしたんだと思う。たとえば……。

わたしは頑固なまでの作者の話は聞かない主義者であるわけだが、その理由は作品の最も本質的な部分は作者もわかっていないと考えるからだ。
本質を的確に理解しているのなら、小説や映画にする必要はないじゃないか。そんなの箇条書きにでもしてわかりやすく提示すればいいよ。(memo2008年10月前半)

映画秘宝」最新号のFBB「キング・コング」評対談を読んだら、自分が思ったり考えたりしたことをしゃべっていたので、めまいがする。ここまで感覚が近すぎるとまずいんじゃないか。
やっぱりたまにはおすぎの言うことも聞こうかなあ。「オリバー・ツイスト」見に行こうかしら(これもポランスキー監督だから、FBBの影響圏からさほど離れていない)。 (memo2006年1月後半)

若いころ、図書館でこんなことをやっていた。
図書館にトランプを持参し、3枚並べる。数字のカードはそのまま、絵札は0に対応させ、たとえば「803」と読みとる。その分類に対応する棚に行き、背表紙をながめて、おもしろそうな本を選んで読む。すると、絶対に読むはずのない本を読むことができる。(memo2005年10月後半)

いやー、「DJ的な発想」って、これくらい厳格だったんですねー。
ある一つの対象に近づくと、見えてくるものもあると同時に、見えなくなるものもある。この本はパラパラめくるだけでも麻薬的であるが、それを本当に読もうと思ったら、いったん咀嚼した上で忘却し、その影響圏から身を離さなければならないのではないか。
……しかし、それって可能なんだろうか。