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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

来るべき「叙述トリック」についてのメモ(1)

ミステリ

叙述トリック犯罪学教程」の新しさ
叙述トリックについての考察はネット上にもかなり有益な考察があるけれど、最近「あざらしさん( @azarashidayou )による叙述トリック犯罪学教程」http://togetter.com/li/433684(以下「教程」と略す。また「叙述トリック」についても当該まとめで扱われている例全般を仮にそう呼ぶことにします)を読んだら一風変わっていて非常に勉強になったので、忘れないうちに整理しておきたい。
「教程」が新鮮(といっても2013年1月のものなので私が読んだのは二年半も経ってからだけど)に映ったのは、それまで分類する際に多かった「内容」(性別とか人物隠匿とか)ではなく、「なぜ読者に誤認が生じるのか」という「原理」、文章上の実際的なテクニックの点から分類しているからだと思う。ふみこんでいえば、個々の叙述トリックの「内容」はこれらの「原理」が働いたからこそ生じることになる。たとえば同じ性別誤認トリックでも、作品Aと作品Bとでは成立させる「原理」が違う、ということもあり得るわけだ。
現在では叙述トリックはかなり人口に膾炙し、様々な議論を呼んでいる。「作中で犯罪が起きなくても叙述トリックで読者を誤認させればそれはミステリと呼べるのか」といったものから、あるいは「あの作品のネタは叙述トリックに似ているが厳密には違うのではないか」といったものまで。以下「教程」その他に即しつつ、私なりに整理してみる。
「教程」のまとめの最後の方で我孫子武丸氏は安眠練炭氏の「叙述トリック講義」http://togetter.com/li/386965における「テクニックとしての叙述トリック」と「ツールとしての叙述トリック」という分類をふまえ、それぞれを「手段としての叙述トリック」と「目的としての叙述トリック」と換言している。これはおそらく、小田牧央氏の「本格ミステリ系の叙述トリック」と「サスペンス系の叙述トリックhttp://longfish.cute.coocan.jp/pages/2005/051225_suspectx/#id0006の分類にあたる。つまり、

・手段としての叙述トリック本格ミステリ系の叙述トリック
・目的としての叙述トリック=サスペンス系の叙述トリック

「手段としての叙述トリック」は、犯罪の真相を読者から隠すのが第一目的であり、叙述トリックはそのための一手段にすぎない。一方、「目的としての叙述トリック」では、極端に言えば別に犯罪が起きなくてもいい。「驚き」という効果こそが、第一目的になる。
「教程」の例題をもう一度読んでみてほしい。例の中には、短さもあって「ミステリ」らしくないものもある。誤認のもたらす「驚き」の効果の方に着眼点があるわけだ。たとえば「中級例題」をそのまま「ミステリ」の短編として提出したら、誰もが「これはミステリではない」と感じるはず。
続いて、「教程」で分類されている叙述トリックの原理を箇条書きにしてみよう。

・言い落し:作中作トリック/プラマイ叙述トリック(シラン系トリック/マジシャンズ・ギャンビット)ほか
・言い含め
・言いぼかし:二重底トリックほか
・言い張り:システム錯誤(無有小説/有無小説)ほか
(その他の例については後述)

造語が多く、また原理の解説が「〜編」にまたがったりしているためやや複雑だけれど、私の理解では上のようになるかと思います。

誤認を引き起こす「原理」
これらの原理はなぜ、読者に誤認を引き起こすのだろうか。
言葉(表現するもの)は記号であるため、それらが代理している「表現されているもの」を受け手の中に完全に再現することができない。「表現されているもの」のイメージをいったん圧縮し、濃縮還元果汁ジュースのように、受け手の中で膨らませる。小説は、映像や音声よりも情報量の少ない「言葉」でできており、このイメージを膨らませる中で誤認は発生する。
さらに、小説は「始まり」と「終わり」を明確にもつ一次元的存在でもある。
「クレショフ効果」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%95%E5%8A%B9%E6%9E%9Cという映像のモンタージュに関する理論がある。クレショフの実験によれば、観客に俳優の表情の映像を見せる前に、いくつか別の映像を見せることで、俳優の同じ表情からそれぞれ違う感情を読み取らせることができたという。人間は、複数の要素を意識するとその「あいだ」に自然に解釈を持ち込む。つまり同じAを見たとしても、その前にBを見るかCを見るかで、Aに対する評価は変わるし、さらにそれらを見る順番によっても、要素の間のつながりの解釈は変わる。
叙述トリックはこうした認知のバイアスを利用する。先の原理を思い出してください。記号からイメージを膨らませる中で読者は、作中の記述のみに限らず、それまで自身が見聞きした様々な物事と比べて、無意識に解釈を施している。「こんな喋り方は男だろう」「今どきあんなトリックは使わないだろう」「この作者だからこういう感じで落ち着くだろう」……云々。
我孫子武丸氏の指す最も厳格な意味での「叙述トリック」は「夢オチ」などを排除し、「客観現実」のみを「叙述」しながら言い落しによる「ダブル(に限らず三重、四重、……)ミーニング」だけでいかに嘘をつかずに誤認させるか、を追及したものといっていいでしょう。

ミステリにおける「作者対読者」という図式
いまここで、「ミステリ」の最も広い定義を仮に「作者がある真相に関して読者になんらかの誤認を引き起こし、隠そうとするもの/読者はそれを見抜こうとするもの」という「作者対読者」の図式におくとする。初期のミステリにおいては、たとえば読者の認知を、語り手を含む犯罪を見抜く側の視点の認知にほぼ重ねることで、「作者対読者」の図式を用意することができた。ところが「叙述トリック」のいくつかのパターンは、「作者対読者」の図式は保持しながら、読者と作中視点の認知を切り離す。
ここで、「手段としての叙述トリック」と「目的としての叙述トリック」を思い出してみよう。「手段としての叙述トリック」においては、真相を複数の方法で隠すという大きな目的があって、その一つとして「叙述トリック」を使うわけだから、二次的な位置になる。しかし「目的としての叙述トリック」の場合、「叙述トリック」のもたらす「驚き」が主目的になる。
ここで問われるのは、「なぜ真相を隠すのか」という必然性だと思われる。ほぼ全てのミステリにおいてそれは、「作中に真相を隠したい人物がいるから」という理由と結びついている。そしてそれは多くの場合、犯罪に関連する。一方に罪=真相を隠したい人物がおり、他方にその罪=真相を暴きたい人物がいる。作者はその二者のあいだを取り持つ。このとき作者は、「罪を隠したい人物」対「罪を暴きたい人物」という作中図式における「罪」を、作者対読者という作外図式における「真相」に、あまり読者の違和感なく結びつけることができる。つまり「罪」を隠す=「真相」を隠す。
他方で。
作中に「罪を隠したい人物」がいない場合がある。事故、誤解、犯人死亡……これらはまあ、「罪を隠したい人物」対「罪を暴きたい人物」の延長線上にあるといえるかもしれな。しかし、たとえば「教程」の「上級問題1−1」のような場合。あるいは、「横秀問題」のような場合。ここには、「罪を隠したい人物」も「罪を暴きたい人物」もいない。にも関わらず、「真相」は隠され、誤認は引き起こされ、「作者対読者」の図式は保持されている……これはミステリと呼べるのか。つまり、「隠したい作中人物」/作者における必然性と、「暴きたい作中人物」/読者における必然性、という双方の必然性が切れている場合。
しかしそれに限らず、「叙述トリック」が作中と作外の間隙を利用するものである以上、この必然性の結びつきは、「叙述トリック」を利用する全ての作品において問われうるものではないかと私は思っている。作中作トリックや夢オチはこれを割と説明しやすく、他には一人称なら、「視点人物が無意識に否定していた」とか「異世界においては当然なので説明する必要がなかった」などなどの例もある。
必然性が難しいのは三人称の場合だろう。「神の視点」とも呼ばれるが、本当に「神」のような公平さを保つなら、「真相」を隠すとか隠さないとかいう俗事にとらわれず、全てを白日の下にさらけ出してしかるべきではないか。なぜ「神」は作者と結託して「真相」を隠すのか?
(つづく)